五百六十八話 『しぃちゃん』って

「私ね、他人の気持ちを考えるのが得意じゃないの」


 手を握りながら、しほは静かにそう呟いた。

 俺を上目遣いで見ているその表情は、どこか申し訳なさそうである。


「その代わり、感情の音が聞こえてきたから……考える必要なんてなかったわ」


「それは知ってるよ。しほは他人の気持ちが分からない訳じゃないってことは、分かってる」


「うん。でもね……最近、他人の音があまり聞こえないの。いえ、正確には――聞こうとしていないのかもしれないわ」


 ……なるほど。

 通りで、しほの察しが悪くなっている気がしたのだ。


「幸太郎くんが隣にいてくれるから、聞き耳を立てる必要がないの。危険を察知しなくても、あなたが守ってくれたから……そのせいで、私はもしかしたらちょっとだけ鈍感さんになってたのかも?」


 たしかに、彼女の言う通りなのかもしれない。

 平和ボケ、という表現が適しているか分からないけど、それに近い現象がしほに生じているような気がした。


「ごめんなさい。幸太郎くんがこんなに悩んでいるなんて、気付いてあげられなかったわ……今朝も、別に普通だって思ってたくらい、分からなかった。くるりちゃんに怒られてなかったら、もしかしたら今も対応を間違えてたかもしれないもの」


 悪気があったわけじゃない。

 意図的に無視していたわけでも、軽く思われていたわけでもない。


 しほは単純に『見えて』いないだけだった。

 俺が物語的な視点で考えていた時と同じだ。しほにも、見えにくい視野が存在するんだ。


「でも、くるりちゃんのおかげで『幸太郎くんが困っている時はちゃんと助けよう!』って覚悟は決めていたの。その瞬間がすぐに訪れてびっくりしたわ」


「俺こそ、ごめん。自分の気持ちを、うまく処理できなくて……言葉にできなかった」


「謝らないで。前までの私だったら、ちゃんと気付いてあげられたことだものね……言葉にするって、とっても難しいことなの」


 こう考えると、既に俺たちにはすれ違いが生じていたのだろう。

 しかし、それが亀裂になる前に、食い止めることができた。


 ちゃんと二人で、本音を打ち明けられて良かった。

 これも全部、彼女のおかげである。




『あたしは、あんたが思っているような――か弱い『サブヒロイン』なんかじゃない』




 その言葉通り、胡桃沢さんはか弱い少女じゃなかった。

 過去を乗り越えて、今を強く生きる『特別』で、かつ『普遍的』で、それでいて『ただ一人』の存在。


 つまり、現実に生きる人間の一人だ。

 キャラクターなんかではなく、胡桃沢くるりは――『胡桃沢くるり』である。


 それと同様、俺はモブではなく『中山幸太郎』だ。

 そしてしほも……『メインヒロイン』ではない。


 彼女は『霜月しほ』である。


 ……今なら、心から彼女のことをこう呼べる。

 お互いに本音を話し合った今だからこそ、しほのことをちゃんと『見える』ようになったからこそ、なんとなく呼んでいたこの愛称を、心から呼びかけることができる気がした。


「――しぃちゃん、大好きだよ」


 もう『しほ』は卒業かもしれない。

 頭の中ではそう呼んでいたけれど、これからは自然と相性で呼べるようになるだろう。


 だってしぃちゃんは……俺の『恋人』なのだから――。

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