五百三十四話 等身大の『中山幸太郎』

 たまに、意味もなく考えることがある。

 もし、しほと出会っていない世界が存在するとしたら、そこにいる『中山幸太郎』はどうなっていたのだろうか――と。


 仮定の話なので、この思考に明確な答えはない。

 しかし、断言できることが一つだけある。


 それは、今ここにいる『中山幸太郎』とは異なる、ということだ。

 かつての俺はもっと陰湿だった。性格が悪いという意味ではなく、文字通り日の当たらない陰でじめじめと湿っているかのように、暗かった。


 人前で笑うことはほとんどなく、常に一人でいて、誰にも心を打ち明けることはなかった。

 行動したとしても受け身で、言われたことを淡々とやっているだけでの、退屈な人間だったと思う。


 しほがいなければ、今のように能動的で喜怒哀楽の感情を表現することができる『普通の人間』にはなれなかっただろう。


 記憶に残らない……いや、残したくないような『モブ』こそ、かつての俺だ。

 仮に、しほと関わらない場合……俺は果たしてどうなっていたのか。


 ……ダメだ。その答えは、ない。

 想像できない、わけじゃない。


 想像したくないから、心が考えることを拒んでいる。

 そのせいで答えが出てこないのだ。


 最初に言った通り、これは考えても答えのない無意味な思考である。

 時折ふと考えては、何も解決しないままモヤモヤと終わるような、くだらない雑念だ。


 そんなことを、俺はどうして考えているのか。

 今、この瞬間に『しほがいない未来』を考えているのは……きっと、彼女のせいだ。


「ありがとう」


 サンドイッチが完成して、朗らかな表情でそう言われたとき、不意に胸がざわついた。

 感謝の言葉に感動した、わけではないだろう。


 ただ、こんな些細なことで感謝してくれる胡桃沢さんに、何かしらの感情を抱いていたことは事実だ。


「あのクソメイドのせいで迷惑をかけたわ……あんたのおかげで、ちゃんとした朝ごはんが用意できた。霜月と梓は成長期だから、ちゃんと食べさせてあげないとね」


 いやいや、しほも梓も同級生だよ。

 そんな母親みたいなこと言ってたらおかしいよ。


 そう返答したかった。

 しかしうまく言葉が出なくて、曖昧な笑顔を返すことしかできなかった。


 もし、今目の前にいるのが胡桃沢さんじゃなくて、しほだったら。

 ありがとうと言われた後、俺はすぐに『気にしないで』とか『いえいえ』とか、そういう軽快な一言を返せたと思う。


 そうすることが、適切だと思うから。

 だけど、胡桃沢さんに対しては、何も言わずに笑うことしかできなかった。


 ……ううん、違う。

 何も言わなくていいと、何となくそう感じたのである。


「じゃあ、そろそろあの子たちを起こそうかしら……中山、あたしが行くからちょっと待ってて」


 胡桃沢さんも、俺の返答を待っていなかったのだろう。特に気にしたそぶりもなく、背を向けた。

 左右に揺れるピンク色のツインテールが、リビングから消える。


 見えなくなった後ろ姿をぼんやりと眺めながら、俺はハッと気づいた。


(もしかして、これが……本当の『中山幸太郎』なのかな)


 無理していない、等身大の俺。

 口数が少なく、曖昧に笑うだけで精一杯なのは、かつての俺らしいと思った。


 ……胡桃沢さんの前で、俺はかつての『俺』でいられる。

 はたしてそれは、良いことなのかどうか……その判断は、ちょっとよく分からなかった――。

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