五百十一話 発動しないお約束


 あらかじめ言っておくけれど、二人とも水着を脱ぎ切っていたわけじゃない。

 あくまで、途中……脱ぎかけくらいのタイミングで、俺が扉を開けてしまったのだ。


 この部屋は、梓としほに割り当てられた場所である。

 常識的に考えて、入室するのであればノックくらいするべきだった。


 それなのに、今の俺には余裕がなくて思わず開けてしまった。


 一刻も早くしほと話がしたい――そう思わずにはいられなかったのだ。




 ……なぜ?




 優しいことは、俺の長所だったはずなのに。

 相手のことを思いやれる人間であれば、勝手に部屋に入るなんてするわけがない。


 それなのにどうして俺は、そんなことをしてしまったのだろう。

 まるで、何かに引き寄せられるみたいにドアを開けてしまった。


 おかしい。

 でも、理由は分からない。


 そして、今は落ち着いて分析できるような状況でもないわけで。


「「「…………」」」


 なおも沈黙は続いている。

 俺、梓、しほが三人とも硬直しているのだ。


 まぁ、もちろん梓に対して何かしらを考えているわけじゃない。家族なので、彼女が薄着になっているところはよく見かけるし、幼い頃は一緒にお風呂に入ったことだってある。


 だから、俺がこうも動揺しているのは、しほのせいだ。


 いや、彼女のせいというわけじゃなくて――と、頭の中で思考がグルグルと回る。

 おかげで、謝ることすらできず、かと言って目をそらすこともせずに、俺はその場でジッと佇んでいたのだ。


 そんな中で、一番最初に沈黙を破ったのは……梓――だと思っていたけれど。

 意外なことに、梓よりも先にしほの方が動いていた。


「……もうっ」


 俺の予想では、もっと恥ずかしがると思っていた。

 あるいは、怒ってもおかしくないと予想していた。


 こういうシーンのお約束。

 照れるか、怒るか、恥ずかしがるか……そのいずれかと考えていたのに、しほは――微笑んでいた。


「幸太郎くんったら、仕方ない子ね」


 まるで、年少の子供をあやすように。

 怒ろうとしているけれど、かわいくて仕方ない――そういう慈愛に満ちた目が、こちらに向けられた。


 さっき、水着を見られる時はあんなに恥ずかしがっていたけれど……こういう場面で、彼女は意外と冷静のようだった。


 あまり慌てた様子はない。

 自分の体を隠すこともなく……見られても、あまり気にしないと言わんばかりに、彼女の目は俺をまっすぐ見つめている。


 一方、梓の方は大慌てだった。


「こ、こらー! おにーちゃん、まだダメっ。し、霜月さんのことが気になるのは分かるけど、ダメったらダメ! まだおにーちゃんには早いんだからねっ」


 梓は梓で、不思議な行動を取っている。

 自分の体ではなく、しほの体を先に隠そうとしていた。


 余裕がないのか、しほのことを『おねーちゃん』と呼ぶことも忘れている。

 おかげで梓の肌色部分は増えているけれど……まぁ、義妹なのでそのあたりは意識せずにすんだ。


「……ご、ごめんっ」


 このあたりで、俺の方もようやく言葉を発することができた。


「着替え中とは、気付かなくて」


「今からお風呂に入るの」


 俺の言葉に、しほは即答する。

 対して狼狽えることもなく……いつも通り、楽しそうに。


「あずにゃんと一緒に、姉妹で仲良く入るわ」


「し、姉妹じゃないもん! ってか、霜月さんちゃんと隠して!」


「え? でも、これから裸を見られるんだから、今更いいんじゃない?」


「お、おにーちゃんに見えちゃうからっ……まぁ、梓も見られるのは、恥ずかしいけどっ」


「……まぁ、冷静になってみると、一緒にお風呂はちょっと恥ずかしいわね」


 なるほど。お風呂に入るから、水着を脱いでいたのか……って、あれ?

 まぁ、一人で入るなら理解できるけど、二人で入るならむしろ――


「水着のまま、入っても良かったんじゃない?」


 そっちの方が、恥ずかしさは減るような気がする。

 それを指摘すると、二人は同時にハッとしたような表情を浮かべた。


「「たしかに!」」


 どうやら、……水着を脱ぐ必要はなかったようだ――

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