第百七十三話 上書きの勉強会
「――――」
無言で、ペンを走らせる。
何もしないでいると悪いことを考えて気分が塞がってしまうので、ひたすら他のことに意識を集中させていた。
数学の教科書を開いて、問題を解こうと頭を回転させる。
公式を用いれば問題は解けるはずだが……解は一向に訪れず、動いていたペンは急激に勢いを失った。
やっぱり俺は頭が良くない。
教科書の練習問題すら解けずに足踏みしてしまう。
母が怒るのも無理はないのかもしれない……みんなが普通にできることもできないのだ。
本当に俺は何もできない人間である。
…‥と、またしても自己否定していたのだが。
「……中山は、数学が苦手なの?」
不意に、隣で勉強をしていた胡桃沢さんが話しかけていた。
広い部屋なので、長机を置いてもスペースはなお余っている。おかげで二人並んで勉強できるので、胡桃沢さんと俺は隣り合わせになっていた。
「数学だけじゃなくて、勉強は苦手なんだ。さっきも言っただろ? 成績、あんまり良くないんだよ」
率直に事実を告げると、胡桃沢さんは軽く頷いてから、唐突に俺の方に体を寄せてきた。
急激な接近に警戒して、立ち上がりそうになったが……スキンシップが目的というわけではなく、彼女は俺のノートに手を伸ばしていた。
「ちょっと見せて?」
一応、語尾に疑問符はついていたのだが、半ば強引に胡桃沢さんは俺からノートを奪う。
解きかけの問題を見たかと思えば、過去の解答を確認して……一通り目を通してからようやく、俺にノートを返してくれた。
「想像以上ね」
それは、良い方向の意味合いではないのだろう。
「中山って、すました顔をしているくせに、思いのほか結構なポンコツね。警戒心が多いようで、隙も多いし……なんだか、イタズラ心がくすぐられるかも」
ふと気付いたら、胡桃沢さんは俺にぴったりと身を寄せていた。
俺のほっぺたを軽くつついて、楽しそうに微笑んでいる。
「い、いや、べつに……っ」
もちろん立ち上がって距離を置いたのだが、そうされることは胡桃沢さんの想定内だったのだろう。
さほど気にした様子もなく、再び俺を手招いた。
「冗談よ……ほら、こっちに来て? もう何もしないから、怖がらないで?」
まるで、小動物を相手にしているかのような態度である。
「っ……!」
そうされている自分が恥ずかしくなって、意地を張るのがとてもかっこ悪く思えた。
あまり敏感になりすぎるのも良くない。恐る恐る、席に戻る。胡桃沢さんは椅子を引いて距離感を取ってくれているので、なんとか元の位置に戻ることができた。
「じゃあ、そうね……中山は想像以上におバカさんみたいだし、私が教えあげるわ」
「え? 胡桃沢さんが?」
不意の申し出に、困惑してしまう。
あまり仲良くするつもりもないし、もちろん断りたかった。
だけど、
「イヤかしら? それなら、うーん……私が積極的にアプローチを仕掛けて、中山を誘惑するしかやることがなくなるけど、いいの? この二人きりの時間、私は勉強以外のことに使ってもいいんだけどなぁ」
半ば脅すような言葉を聞いてしまうと、提案を断ることができなかった。
誘惑されるくらいなら、確かに勉強をしていた方がマシである。
「はぁ……そういうことなら、勉強がいい」
ため息交じりにそう伝えると、胡桃沢さんは嬉しそうに頬を緩めた。
「ええ、その方がいいと思う……あのね、私は別に、中山にイヤな思いをしてほしいわけじゃないの。できることなら、お互いに有意義な時間を過ごせたら、それがいいに決まってるわ」
ピンク色のツインテールが揺れているのは、体がそわそわと動いているからだろう。
明らかに、胡桃沢さんは喜んでいた。
たかが、俺に勉強を教えることが決まっただけなのに。
そういう隠しきれていない好意が、本当にやりにくかった。
「じゃあ、この問題は――」
そうして、俺は胡桃沢さんに勉強を教えてもらうことになった。
形式上は家庭教師なのに、いつの間にか立場が逆転していたのだが……俺の頭が悪いので、それは仕方ない。
一方、胡桃沢さんはかなり頭がいいらしい。
教え方も上手で、丁寧に説明してくれるので、手間取っていた問題を簡単に解くことができた。
気付けば、集中していた。
この時間に嫌悪感を覚えることなく、いつものように時間を過ごしていたのだ。
しほと勉強会をしていた、あの時と同じように……では、ないけれど。
でも、それに近い時間が流れていたような気がして、なんだか気味が悪くなった。
まるで、しほとの勉強会の思い出が、上書きされたみたいだったのである――
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