第七十話 けじめ
「じゃあ、幸太郎おにーちゃん、ばいばいっ。また明日ね? 大丈夫、明日はきちんと学校にいくものっ。それと、あずにゃんもまた明日ね? 今日は楽しかったわっ。おしゃべりしてくれて、ありがとう」
台風みたいにひたすら暴れまわって満足したのか、去り際のしほはいつもより満足そうな顔をしていた。
そんな彼女に手を振って見送ると、梓が疲れたようにソファでぐったりしていた。
「……疲れた」
しほに付き合ってたくさんツッコんでいたせいで、へとへとみたいだ。
「お疲れ様」
ねぎらいの意味を込めて、冷蔵庫から缶ジュースを取り出して、彼女に手渡してあげる。
梓はそれを受け取ってから、ふと何かに気付いたように、目を大きくした。
「あ、もしかして……こういうことが『甘えてる』って、言うのかなぁ?」
どうやら、自覚がなかったらしい。しほに指摘されて意識していたからこそ、気付いたのかもしれない。
……まぁ、彼女は生まれてからずっと妹だったのだ。兄に優しくされることは、彼女にとって当たり前の日常だったのだろう。
ジュースを取ってもらうのも。
お菓子を買ってきてもらうのも。
お願いを聞き入れてくれることも。
落ち込んだら慰めてくれることも。
梓にとっては、もしかしたら当たり前の日常だったのかもしれない。
そして、そういうところに、しほは嫉妬していた。
梓はそのことにようやく気付いたらしい。
「そっか……梓の『おにーちゃん』は、ずっとおにーちゃんだったんだね……」
どこか遠くを眺めながら、彼女はポツリと呟く。
それから、缶ジュースをテーブルに置いて、今度は俺をまっすぐ見つめた。
「ごめんなさい」
唐突に、梓は頭を下げる。
その言葉には、後悔の色がにじみ出ていた。
「おにーちゃんのこと、『おにーちゃんじゃないかもしれない』って言って……ごめんなさい」
――いいや、違うよ。
梓……別に謝る必要はないんだ。
俺は、君の理想の『おにーちゃん』では、ないのだから。
「梓……前から言おうと思っていたけど、君の理想のおにーちゃんは、他の誰でもないよ。もちろん俺でもないし、竜崎でもないんだ……梓が探している『おにーちゃん』は、もうどこにもいない。それは、分かってるよな?」
かつて、梓は実の兄を亡くしている。
そのことを受け入れられずに、『おにーちゃん』を探し続けたからこそ、様々な歪みが生まれてしまったのだ。
「……うん、そうだね。おにーちゃんは、『おにーちゃん』じゃない。もちろん、龍馬おにーちゃん……じゃない。龍馬、くん?も、違う。梓の理想のおにーちゃんは、もうどこにもいないんだよね」
寂しそうに、しかし彼女は俯かずに前を向いて、現実と向き合っている。
ここ最近、ずっと一人でいたおかげなのか。
以前よりも、少し大人びているというか……落ち着いて、物事を考えられるようになったみたいだ。
「でもね、違うの。梓はね、許してほしいとか、そういう意味で謝ってないよ……ただ、おにーちゃんの気持ちを裏切ったことを、謝らせて? 許さなくていいの。これは、けじめだから……」
――ああ、なるほど。
心配していたけれど、梓はもう色々と考えに整理がついたみたいだ。
「酷いこと言って、ごめんなさい」
許してほしいわけじゃなくて。
悪いことをしたから、謝っているだけ。
「あと、こんな酷い妹の『おにーちゃん』でいてくれて、ありがとうっ」
もう一度、深々と頭を下げる梓。
真摯な態度に、頬が緩んだ。
「……間違いを犯さない人間なんて、いない。ましてや俺も、梓も、まだ十代の未熟者だから……失敗なんて、たくさんする」
だから、大切なのは失敗したことを謝ることじゃない。
ちゃんと、この失敗を糧にして、次の一歩を踏み出すことが、何よりも大切なことだと思う。
「梓も、ちゃんと自分の『幸せ』がどこにあるのか、考えないとダメだぞ? 『おにーちゃん』に縛られずに、君が本当に望むものを、しっかりと手に入れられるように……がんばれ」
成長するということ。
そして、感謝するということ。
それが、大人になるということなのかもしれない……だから、妹の成長は、兄として純粋に嬉しかった。
「前にも言っただろ? おにーちゃんは、ずっと見守ってるよ」
「…………っ」
そう伝えたら、梓は不意に瞳を潤ませた。
しかし、泣くまいと目をこすって、気丈に俺を見る。
かつて……竜崎に振られた時のように、泣き崩れることはしない。
強くなった梓は、もう大丈夫だ。
「おにーちゃん……梓ね、髪の毛を切るっ。ハサミ、あったっけ?」
そして彼女は――ツインテールに結んでいた髪ヒモをほどいた。
幼い頃からずっと同じ髪型だったけど、それも今日までみたいである。
「えいっ」
バッサリと、長い髪の毛を切り落とす。
自分で切ったせいで、バランスは悪い。でも、梓はやけにサッパリした顔つきをしていた。
「よーしっ。これでもう大丈夫っ……梓ね、明日からちゃんと学校に行くよっ」
「……じゃあ、もうちょっと髪の毛、調整した方がいいぞ? なんか、座敷童みたいだし」
パッツンに切りそろえられた前髪と後ろ髪が、童女を連想させる。
似合ってはいるのだが、まぁ……少しバランスが悪いのは、自分で切ったのだから、仕方ないか。
「じゃあ、おにーちゃんがなんとかしてっ?」
そう言って、今度は俺に責任を丸投げしようとしてくる。
けじめはつけたみたいだけど、家の中で甘えるのはやめないみたいだ。
「……やってみるけど、あんまり期待するなよ?」
まぁ、仕方ない。何をされても、どんな酷い扱いを受けても、兄妹という縁は簡単に切れない。
俺と梓は、これからもずっと兄妹である。だから彼女は、これからもずっと……こうやって、何かあれば頼ってくるのだろう。
それを俺は、いつも通り受け入れた。やっぱり梓に甘えられると、どうしても受け入れてしまうのだ。
だって、妹の頼みを断れるおにーちゃんは、いないのだから――
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