第95話 執着でもいい。
天蓋から垂らされたカーテンを乱暴に開け、私は腕組みをする。
濡れた髪から雫が落ち、床に暗い染みを作る。
重苦しい沈黙の後、
「……フィリィ」
もう耐えられないとでもいうのか、弱々しく媚びるような声色でレオンは私の名を呼んだ。
「あれほど酷い態度をとっておいていけしゃあしゃあとよく来れたものね。まさか今夜も一緒に過ごしたいとか言うつもり?」
責められることは想定済みのはずだ。にしては目の前の婚約者はひどくしょげているように見える。
レオンは本を閉じながら、申し訳なさそうに目を伏せる。
「きみの考えているようなことではないんだ。僕がきみを利用したって思われても仕方がないけど……」
珍しく歯切れが悪い。
レオンは手を伸ばし私の濡れた毛先を掬い、恐る恐る口を付けた。
「不誠実な気持ちは一切ないよ。僕はきみのことを何よりも大事に思っている」
嘘くさいーーーーと一刀両断したいが。
私を見つめるレオンの真剣な眼差しを否定できるほど、私も強くないようだ。
現実的なことを言えばとても疲れている、というのもある。
考えることも億劫なのだ。
……であるのだが。
(それでも好きなのね……)
悔しいことに
小説や芝居で言う『これが惚れた弱み』というものなのか。
しどろもどろに便明するレオンの言葉の一字一句に、一喜一憂させられる自分がいる。
「本心でないことを言わないで。レオンは私のことなんて政略結婚の相手としか思っていないでしょう」
「違うよ。フィリィ。信じられないかもしれないけれど」とレオンは前置き、穏やかな口調で語り始めた。
昨日の夜。
フェリシアの側で眠りについたとき、レオンは言葉にできない感動に包まれていた。
これでこの人は一生自分の側にいてくれる、絶対に裏切ることも別れることはない自分の味方なのだと確信を持ったのだ。
「本当に嬉しくてね。体が沸き立つようだった。幸せとはこのことかと思ったよ」
黒髪と青い瞳の美しい女性が頬を染めながら自分の名を切なそうに呟くたびに、心が昂り、体幹に熱が灯った。
生まれて初めて知る感情だという。
(これって……)
私のことを好きだと言っている?
かなり独特な告白だけど。
「その割に、今朝は冷たかったわ。私も体験がある訳じゃないけど、初夜明けは労わるものだと思ってたもの。すごく傷ついたの」
「そこはね、僕が全面的に悪かった。正直なとこ、女性に対してどうしたらいいのか分からないんだよね」
女性は頼みもしないのに自分の側に来て飽きたら掃き捨てるものだったから、とレオンは腕を払う。
身分の高さと見た目のおかげで女性とは自動的にどこからともなく供給されるもの、であるらしい。
「……最低ね」
「わかってる。というか、反省してる。今後はしないよ。フェリシア以上の女性はこの国にはいないからね。それにさ、僕はきみの夫になるんだ。……浮気なんてしてる余裕はないだろ?」
「当然。他の女の人に目移りしている暇なんてないわ。あなたには私とマンティーノスを支えてもらわないと困るんだから」
「ん? フェリシア。きみはサグント侯になる僕の隣にいてくれるんだろ?」
「違うわ」
私はレオンの隣に座り、レオンの顔を両手で挟んだ。
ヘーゼルの瞳が戸惑い気味に私をとらえる。
「
レオンに縛られるのではなく、私がレオンを縛るのだ。
レオンの持つ財力も権力も全て私とマンティーノスに捧げてもらう。
(周囲に、ううん。レオンにも、どう思われようが関係ないわ)
最優先すべきはマンティーノスだ。
マンティーノスを立て直すには資金が必要であり、私には
使えるものは使う。私への償いは後回しでいい。
(お父様の賠償の為に外港を手放すことになったし、財政はさらに厳しくなってしまっている)
女性としては許されないかもしれない。が、領主としては有りだ。
「
「この僕を財布にする気?……とんでもない人だな」とぼやきつつもレオンはなぜか嬉しそうだ。
「そう? 可愛くなくて結構よ。でも私、自分の考えを変える気はないわ。嫌ならいますぐこの部屋から出ていってもらっても構わない」
「ちょっと待って。嫌とは言ってない。僕はね、そういう肝の座ったフィリィが好きなんだよ。強気なところとか、たまらない」
「……え。どういう趣味してるのよ」
「さぁ。僕も初めて知ったからよく分からない」
政略で繋がった二人だ。
本物の愛情なんてあるはずがないことはわかっている。
(どんな感情でもいい。私に特別な感情を抱いてくれているのなら)
いつかこうして過ごすうちに、偽が真になることもあるかもしれない。
ただの執着であっても、愛情に変わってくれるかもしれない……と未練がましくも思ってしまう。
二度目の人生なのに、自分の気持ちですら自由にできないとは。
人生って難しい。
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