第80話 お前は誰だ?

 事故後すぐに王都から呼び寄せた医師によれば『フェリシアの外傷は頭の傷だけであり意識が戻らない理由は分からない』のだという。



「一時間後に目覚めるかもしれませんし、三年後かもしれません。もしかしたら明日には無くなってしまう可能性もあります。今の医術ではそれを予測する術はございません」



 どうにもできない。

 全ては神の思し召しのままにということらしい。

 何とも不確かで非科学的だ。

 腹ただしいが仕方がない。



 それから無力感を抱いたままに七日が過ぎただろうか。


 息苦しいほどの絶望に包まれたある日の午後のことだ。

 今日も変わらぬままに過ぎるのだろうと思われたその日。




 フェリシアが目覚めた。




「子爵様!!」



 離れの一間(ここはルーゴ伯爵家から俺の控室として当てがわれたのだ)にビカリオ夫人が血相を変えて飛び込んできた。



「ビカリオ夫人?? 一体どうした?」



 俺は書き物をしていた手を止める。



「フェリシア様が……! お嬢様が!! 子爵、お…お嬢様がっ」



 ビカリオ夫人は慌てふためき全く要領を得ない様子だ。


「頼むから落ち着いてくれ」


 と俺は夫人を椅子に座らせた。

 フェリシアの乳母は背中を丸め両手で顔を覆う。ひどく動揺しているようだ。



「夫人、何があった?」

「は……はい」



 ビカリオ夫人は深呼吸し、



「清拭の支度をして部屋へ戻りましたら……お嬢様の頭の向きが変わっていたのです。お嬢様がお目覚めになられたのかもしれません。奇跡です。あぁ奇跡ですよ!」



(この十日間、ピクリともしなかったフェリシアが……?)



 意識を取り戻したのか。

 これは希望が見えてきたのではないか?


 確認せねばならない。

 自身の目で。


 俺と夫人はフェリシアの寝室へ急いだ。




 フェリシアは静かに寝台の上に横たわっていた。

 痩せた頬には相変わらず色はなく目は閉じられたままだ。だが、真っ直ぐに上を向いていた顔と体の位置が明らかに変わっている。



「フェリシア」



 俺は声をかける。

 フェリシアの乾いた唇が微かに震える。



(これは……!)



 覚醒も近いのか?



「あぁ! 神よ! 感謝いたします!!」



 感極まったビカリオ夫人が絶叫する。



「夫人??!!」



 何て大袈裟な仕草なんだ。思わず苦笑する。


 だがビカリオ夫人は誰からも顧みられないフェリシアのことを手塩にかけて親代わりに育ててきたのだ。

 フェリシアは我が子と変わらない。

 子が生きていたのだ。

 さぞ嬉しかろう。



「う……」



 ビカリオ夫人の声に反応したのかフェシリアは小さな呻き声をあげゆっくりと瞼を開けた。

 大きく開いた瞳孔は焦点が定まらないままに静かに天井を見つめている。



「フェリシア」



 もう一度、呼びかける。


 フェリシアの瞳にゆっくりと生命力が宿っていく。


 戻ってきた。

 生還したのだ。



「お嬢様がお目覚めになられるなんて。本当に、本当にようございました」とビカリオ夫人は嬉し涙にくれ床に崩れ落ちた。



「……お願い。静かにして。声が頭に響くの」



 若い女性のものとは思えないほどに掠れた、そして冷たい声……。

 さらに高圧的で威圧感に満ちているではないか。



(なんだ?)



 この違和感。

 フェリシアは何事にもおどおどとしていた。そもそも生きていることに自信が持てずに人の顔色を伺う癖がある娘だ。

 こんな風に人を見下した態度は取らない。


 頭を打つと性格が変わる者もいると聞くが……。



(もしかしてフェリシアも事故で人格が変わってしまったのか?)



 断定はしてはいけない。

 まだ分からないのだ。


 ビカリオ夫人はただ喜ばしいらしい。さらに号泣する。



「あぁぁ! お嬢様! 本当にご無事でよろしゅうございました。神はお嬢様をお見捨てにはならなかった。神に感謝いたします」



 大袈裟、ではある。

 だがここが善良なビカリオ夫人の良いところだ。


 知ってか知らずかフェシリアは大きく息をつき、



「あなた、下がってくれる? 静かに過ごしたいの」

「お……お嬢様??!!」



 その一言で俺は確信した。

 これはフェリシアではない。


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