第44話 唇と交換です。

「雨なのに?」私はレオンの腕を取りつつも訊く。


 今朝から小雨が降っている。

 霧雨程度であるのでレオンと並んで傘をさしての散歩は悪くはないかもしれない。

 が、絹のドレスが濡れてしまうのは気が進まない。



「散歩とは言ったけど、外に行くとは言ってないよ? ウェステ伯爵邸には立派な温室があると聞いたんだ。見学しに行こうかなってね」


「温室?」



 そういえば二、三年前からお父様が庭園にある温室を改装してたっけ。

 当時の私は領主の仕事に忙しく興味もなかったので、家の改装や改築はお父様に任せっきりだった。

 私が生きていた頃はまだ建築途中で、いつ完成したのかそれともまだなのかすら分からないが。



「王都でも話題になってたんだ。オヴィリオが財をつぎ込んで作った温室が先月完成したらしいってね」



 ちょっと待て。

 王都で話題になるってことは大規模な温室ということ……。

 

 そんなに大きい温室だっただろうか。温室は貴族らしい趣味ではある。

 しかし維持費がバカにならないのだ。



(規模が大きければ私は許さなかったわ。お父様からは小さな納屋程度って聞いていたけど)


 どうやら違うようだ。



「フィリィ?」


「あ、ぼーっとしてた。ごめんなさい。……本館の右翼ギャラリーを抜けていけば、温室につながる渡り廊下があるわ。雨だけど濡れずに行けるはずよ」


「えらく詳しいね。客なのに」


「……ええ。執事に昨日聞いたのよ。邸宅を散策したいって言ったら丁寧に教えてくれたの。他の場所もだいたい分かるわ」


「へぇ」


 レオンは額に皺をよせる。



(怪しんでる……。まずいわ)



 私はこれ以上突っ込まれないように、温室を利用する旨を侍女にお父様への伝達を依頼し、レオンの腕を引っ張って回廊ギャラリーへ向かった。






 温室はヨレンテの絵画コレクションが飾ってある回廊をひやかしながらゆっくりと進んだ先にあった。


 貴族や富裕層の邸宅によくある小さな小屋……




 ……どころではなかった。



(ルーゴの私の住処すみかの2倍以上はあるわ)



 心底驚いてしまう。この館にこんな立派な温室に出会うとは。

 温室はちょっとした別宅という趣きの造りで、外壁には50センチ四方の板ガラスが惜しむことなく使われている。


 私は天井を見上げ息をのんだ。


 黒い鉄骨と全面板ガラスの対比がとても幻想的で現実とは思えないほどに美しい。

 建物自体もそうだが温室というだけあり植えられた植物もまた素晴らしかった。

 

 色とりどりの鮮やかな南国の花が咲き乱れ、異国情緒あふれる果物がたわわに実っている。


 レオンは手を伸ばし白い花弁の花を一輪摘んだ。



「プルメリアだね。南国でしか育たない花だ。さすがマンティーノス……って言いたいところだけど」


「農業生産物だけでここまで贅沢はできないよね」と私の髪にプルメリアを差す。


 異国を思わせる花の香りがふわりと私を包みこんだ。



「そう? マンティーノスはカディスで一番豊かな領だから出来るでしょう?」



 と言いながら、頭の中でざっと計算する。

 税収や穀物の販売代金をふまえて十分賄える。

 もちろん楽ではないが。


 レオンは温室の壁に触れる。



「フィリィ。ここ数年、農業の技術革新が進んでね、他領でも収穫高が格段に上がってきているんだ。それで穀物の相場が少しずつ下がってきてるんだよ。ヨレンテといえど、この規模の温室を手掛けるほどの余裕はないはずだ」


「え、そうなの?」


「農業に依存するヨレンテの経済状況は悪化してると王家の会計局は推測していた。マンティーノスのこの現状がエリアナ様には知らされていたとは思うんだけど、どんな対策を立てていたのかまではわからない」



(知らなかった。そんなに悪かっただなんて)



 マンティーノスの当主だというのに知らされていなかった。

 全く。

 財政に関しては伯爵一年目の私がやるよりはと、お父様が自ら名乗り出てくれたのだが……。



(血のつながった唯一の身内だからって信用しすぎてたのかも)



 密輸の件といい、横領、背任とどれだけ悪事を重ねているのだろう。



(やっぱり根っからの悪人なのかな? 違うかもしれない?)



 私は迷いを断ち切るように首を振る。



(娘を殺したのよ。私はお父様に殺されたの)



 罪は償ってもらわないとならないのだ。

 その後はマンティーノスを立て直すのが私の義務だ。



「そう……。マンティーノスがそんな状況だったなんて知らなかったわ。それでオヴィリオさんは密輸に手を染めたのね」



 切迫した財政を憂いで……だとまだ救いもある。

 個人の欲望のためでないことを祈ろう。



「でもね、フィリィ。絶望しなくてもいい。農業は国の礎。この安定しない国際情勢で食料が自給できるってのは強いよ。マンティーノスのカディスにおける価値は変わらないさ」


「うん。わかってる。例えマンティーノスが破綻寸前でも私はこの領が欲しいから、絶対に手に入れるわ。それより……」



 疑念がある。

 心の中に、ワインの澱のように少しずつ沈澱していたこの気持ち。



(もうはっきりしたいわ)



 私は背筋を伸ばし、レオンを正面で見据えた。


 レオン。

 あなたは何者なのだ?

 サグント侯爵家の嗣子、アンドーラ子爵。カディス国務官。

 お祖父様の私生児であるフェリシアの婚約者。

 完璧な男性だ。


 でもずっと心に引っかかっていた。



(あなたは何を欲しがっているの? 私を通して見ているものは何?)



 あなたはマンティーノスの現状を誰よりも把握している。

 なぜ? 婚約者の財産だから?



「ねぇ、レオン。あなたどうしてここまでマンティーノスに詳しいの? あなた何者?」

「キスさせてくれたら教えてあげてもいいよ」

「は??」

「キスだよ。唇に」



 レオンはニヤリと笑い、私の唇をなぞった。

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