第56話 強くなったんです
ややって「何者かがこちらを目がけて飛んで来ています」という声があった。
雲一つない空に目をやると、小さな黒いが影が一つ確認できる。
彼我の距離はおよそ数百メートル。
瞬きをした時には、その影は俺たちのすぐそばまで来ていた。
先ほどまでの比ではない、形容しがたい恐怖が俺たちを襲う。
堪えきれずに発狂して逃げ惑うものもいた。
瘦せこけた体躯にただならぬオーラをまとい、細長い手足を無気力に垂らして空に浮かんでいるのは、長身の男性。
深紅の瞳を細めて薄ら笑いを浮かべている。その口元に、鋭くとがった一対の牙が見えた。
「キ、キリス総司令官!」
アルコルがそう叫んで片膝をついた。その場にいる魔族全員も一斉に続く。
キリスという名は、この間エルナから聞いたばかりだった。
「まったく、人族相手に何手こずってるんですか」
八十年前、エルナが魔宮殿を出るきっかけとなった人物。魔王軍総司令官――キリス・ガイスラー。
「はっ、大変申し訳ございません」
「ミザールさんが心配していましたよ。早く帰って顔を見せてあげてください」
「しかしまだっ……」
「聞こえませんでしたか? 早く帰ってください」
再び、空間が強く歪むような感覚。ひどく頭が痛む。
ちらほらと、嘔吐する者もいる。
「承知いたしました!」
アルコルはそう威勢よく返事をして立ち上がると、俺のほうを指さして続ける。
「きょっ、今日のところは勘弁しておいてやる。命拾いしたな人族! 次来るときにはもっとおいしいもの用意してろよ! 分かったか!」
言い終えると、アルコル中隊は一斉に回れ右して去って行った。
その足取りは、歩いてきた時よりもずっと軽かった。
「さて」
物静かな周囲に、緊張が走る。
「お久しぶりですね、王女様」
キリスは後方に視線をやると、ねっとりとした口調でエルナに語りかける。
「……エルナ」
マリナの制止を優しく振り切って、エルナは塁壁から出てこちらへ歩いてきた。
一歩一歩を強く踏みしめながら。
「はい。お久しぶりですキリスさん。どうしてここへ?」
僅かに震える声でそう言って、憎しみのこもった眼差しをキリスへ向ける。
「いえ。もう一度あの『ごめんなさい』を聞きたくなりまして。あれほど滑稽なのは、後にも先にもあれが初めてでしたから」
「キリスさん、私は強くなったんです」
視線を落として拳をぎゅっと握りしめ、低い調子で言う。
「へーえ。どんなものなのでしょうねぇ。久しぶりに興奮してきましたよ。――【絡繰】!」
キリスが片手を突き出して唱えるが、エルナに効果はないようだった。
「なるほど……。少しは成長したようで」
「今度こそ、守ってみせます。マリナを、サトを、マヤさんを、大切な皆さんを。サト、皆さんを連れて下がっていてください」
「エルナっ……」
「大丈夫です。信じてください。強くなったんですよ、私」
復讐の灯火を翠色の瞳にともした今のエルナは、止めても無駄なようだった。
俺にできることはエルナの手助けをすることだけ。そう悟った俺は彼女の指示に従うことにした。
「分かった、無理はするなよ。皆さん! 一度後方へ退避してください!」
そう呼びかけると、ユヅキとともに兵士たちを引き連れてマヤのいるところまで退避した。
「――【塁壁】」
いつになく真剣な面持ちのエルナが、後方にかたまる俺たち全員を、大きな塁壁で覆う。
腰のあたりまで伸びたベルベットのようなブロンドの髪が、草原を吹き抜けるそよ風になびく。
「今度こそ、王女様の異端の心を矯正して差し上げましょう」
「私は私です。キリスさんに変えられてたまりますか」
「口答えとは。随分とお強くなられたようで。――【炎火】!」
エルナに差し向けられた大きな掌から、いくつもの火球が射出される。
速さと大きさを増しながら、火球はエルナをめがけて一直線に飛んでいく。
「――【障壁】」
物凄まじい運動量を持った火球が、耳を聾するほどの衝突音を立ててぶつかったのは、エルナの障壁。
飛び散った炎が周囲の草を灰に変える。
ややあって勢いを失った火球が散開したのち、翠色の障壁には傷一つ見当たらなかった。
それを見たキリスが、手をぱちぱちと打ち鳴らしながらふわりと着地する。
「今の【炎火】を受け止められるとはなかなかではないですか。さすが王女様」
「馬鹿にしているのですか」
「いえ、実際アルコルさんは一月ほど入院することになったのですよ。どうです、魔宮殿にお戻りになるご意向は?」
「ありません。微塵も。――【迅雷】!」
エルナの掌から、キリスヘ向けて幾筋もの雷光が走る。
青白く眩い光は空間を切り裂き、残光をたなびかせてキリスを打った……かのように見えたが、キリスの残像に気づき目を見張るエルナ。
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