第41話 だいすき
「お願いです。もうやめてください」
「ハグ……ですか?」
向かい合ったまま両手を広げて立つ二人の返答を聞いたキリスは、薄ら笑いを浮かべる。
「ふふふふ、やはり人族はつくづく馬鹿ですね。あなたたちのハグなんて見て何が面白いんですか。吐き気がしますよ。……ということで、ぶっぶー! お二人とも不正解! ざんねーん!」
嬉々としてそう言ったキリスは、マリナの両手を下ろすと同時にエルナの両手を前に突き出した。
この時、エルナはこれから何が行われるのか確信した。
「待ってくださいキリスさん! お願いです!」
力いっぱい叫ぶが、ひゅーひゅーと口笛を吹いて聞こえないふりをする。
「それでは、お待ちかねの正解発表です!」
そのままエルナを一歩前進させ、マリナの首を小さな両手に掴ませた。
マリナも、自分がこれから何をされるのかを悟った。
「ごめんなさい。私が弱いばかりに――」
「エルナはなんにも悪くないよ……。だから謝らないで。人族の私お仲良くしてくれてありがとう。これからもずっとずっと……友達でいてほしいな」
マリナが瞳に大粒の涙を浮かべて言うのを満足げに眺めていたキリスは、そのままエルナの両手を高くあげた。
つま先が、黒く焼け焦げた地面からゆっくりと離れてゆく。
エルナの両腕が、小さな体躯をじわりじわりと持ち上げる。
「んぐっ……」
マリナが声を上げる。
キリスに操られているマリナの体は、一本の棒のようにまっすぐ伸びている。
エルナはこれ以上、マリナの顔を見ていられなかった。
瞼を固く閉じた。
「うーん、あまり面白くないですねえ。そろそろ人の子の【絡繰】を解除してみましょうか」
不満げに言って指をパチン鳴らすと、キリスはマリナの【絡繰】を解除した。
次の瞬間、マリナが両足をばたつかせて呻き声をあげ始めた。
苦悶に満ちた少女の声が、辺り一面に響き渡る。
「お願いです止めてくださいキリスさん! これから一切マリナに会うなと言うのなら会いません。勝手に魔宮殿を抜け出すなと言うのなら抜け出しません。必ず良い子でいますから、次期魔王に相応しい王女になりますから、何でもしますからどうか止めてください! お願いします!」
「止めるわけないでしょう。そんなの興醒めじゃありませんか」
呆れたように鼻で笑って、なおもエルナの体を操り続ける。
「そんな……」
エルナは俯いて歯を強く食いしばった。
大粒の涙が、灰になった地面を濡らす。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。約束を……守れなくて――。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
頭を下げたまま、声にもならない声でマリナに謝罪する。
今の私にできることは謝ることだけ。
別に許してほしいわけじゃない。
許してもらえなくて当然だ。
「あひゃひゃひゃひゃ! ごめんなさいですって! 自分で首絞めといてそれはないでしょうに!」
それならどうして謝るのか。
こうして謝り続けていることで、自分の手で友達を殺めているのだという現実から目を背けたいからかもしれない。
何もできない自分を嫌いにならないでほしいからかもしれない。
自分の本意でマリナの首を絞めているわけではないのだと、彼女に分かってほしいからかも知れない。
あるいはその全てかもしれない。
どこまでも独善的だ。
そんな私が、ひどく憎い。
時間が経つにつれて、マリナの抵抗はだんだんと弱まっていった。
「うーん……。人族の子の反応が鈍ってきましたね。もう少し楽しませてくれると思ったのですが……。もう少し強く締めてみます? ほれ!」
「んぐっ――!」
エルナは耳を塞ぎたくなった。
目前の現実から目を背けたかった。
マリナの頬を伝った涙は、そのままエルナの手に伝わって、小さな手の甲から僅かに熱を奪っていく。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
私にできた、初めての友達。
彼女がいなければ、私は今も魔界の因習にとらわれていたかもしれない。
人族をわけもなく嫌い、軽蔑していたかもしれない。
彼女は、閉まりきった狭くてちっぽけな私の世界を大きく広げてくれた。
私に大きな夢を見せてくれた。
彼女と過ごした時間は、言葉にできないくらい楽しかった。
どんなに嫌なことがあっても、彼女を見ると心の翳りが一気に晴れていった。
辺りが暗くなっていくのも全く気にならなかった。
マリナは私にとっての太陽だったから。
おいしい食べ物だけじゃない、私は彼女から両手で抱えきれないほどのものを貰った。
だけど私は、彼女に何かあげられただろうか。
お返しはできていたのだろうか。
もがくマリナの足の動きが、さらに鈍くなってゆく。
エルナの腕をぎゅっと握っていた両手の力もみるみるうちに弱まっていき、今はもう両手を垂れている。
ふと目を開いて顔を上げ、マリナの首で煌めいているペンダントに目を向けた。
これだけだ。
私だけあんなに満たされて、私が彼女にあげたのはこれだけ。
こんなの一方的な搾取じゃないか。
挙句の果てに私は今、彼女の命を奪っている。
彼女は何も悪くないのに。私が弱いせいで。
私の慢心のせいで。全部、私のせいで。
傍から見たらただの悪者じゃないか。こんな私なんて嫌われて当然だ。
「ごめんなさい!」
「エル……ナ……だい……すき……」
その言葉を最後に、マリナの足の動きがピタリとやんだ。
エルナが小さな掌越しに感じていた脈もすっかりなくなっていた。
開いたままのマリナの瞳から零れ落ちる大粒の涙が、エルナの腕をゆっくりと伝う。
「ありが……とう」
「始末完了! いやー、若干の物足りなさもありましたがなかなか面白いものを見せてもらいました。最後のシーンなんて、もう……」
キリスが声を弾ませて手を打ち鳴らす。
「おっと、そのごみはもう手放してもらって構いません。お疲れさまでしたー」
エルナの両手がマリナの首から離された。
支えを失ったマリナは、灰上にまっすぐ落下する。
「空気の供給が少し滞っただけで生命活動を停止する。人族が魔族に劣っているのは、火を見るより明らかなこと。我が物顔でこの地に寄生している奴らは、すべからく滅ぶべき。そういうことなのです王女様。お分かりいただけましたか?」
次の瞬間、キリスは指を鳴らしてようやくエルナの【絡繰】を解除した。
「マリナ! ――【治癒】! ――【治癒】! ――【治癒】! ――【治癒】!」
「何をしておられるのです? もう何をしても無駄ですよ。地面の灰とともに、その人族の子にはこの地の肥となっていただきましょう」
エルナのそばに座り込んだキリスが、からかうような調子で言う。
喜色を顔一面にみなぎらせている。
「それでは、こう見えても私は忙しいので。あっ、くれぐれもこのことを魔王様にお話しされぬよう。私も内緒にしておきますからご安心ください。本来の職務を放棄して遊んでいたことを知られてしまってはなりませんし。あなたが魔王になられる日が、いまから楽しみで仕方ありません」
不敵な笑みを浮かべてふわりと宙に浮かぶと、そのまま黒煙の上がる方向へまっすぐ飛んで行った。
ごめんね。
私、何もできなかった。
焼け焦げた草原に横たわるマリナの瞼をそっとおろして、逃げるようにその場を後にした。
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