*10* 貴女だけの騎士

「98、99……100。よし、そろそろ行こうっと」


 座り込んでいた回廊の端で、ロングケープの裾の土埃を払ってから立ち上がる。

 オレがゼノに捕まってから2分弱。残る母さんは、どこまで逃げたかな。


「まぁ正直、なんとなくわかるんだけどね」


 魔力反応をたどれば簡単だ。

 魔法を使うこと自体は禁止したけど、手軽にON・OFFできるものじゃないからなぁ。オレと、マザーの繋がりって。


 まぶたを閉じ、血液の流れを意識するように感覚を研ぎ澄ませる。

 オレの中のマナが屋敷内のとある魔力に呼応して、熱を灯した。


「えぇっと……ゼノと一緒にいる? やっぱり捕まっちゃったのかな」


 とここで、あることに気づいた。

 無性に、胸がざわめく。


 突然脳裏に浮かんだ青と紫のマーブル模様は、心の波が可視化したものだ。

 オレのものじゃない。母さんが動揺してる。


「一体何が……」


 ただならぬ異変。すぐにでも駆けつけたいのに、それは叶わない。


 反射的に振り返る。静まり返った回廊にはオレ以外の誰もいない、はずだ。

 だからこそ、たった今察知したまったく覚えのない魔力反応を、このまま見過ごすことはできないだろう。


「──そこにいるのは、誰」


 招かれざる客が、訪れたようだ。



  *  *  *



「マスター、どうか貴女の手で、私を壊してください……お願いします」


 俯き、絞り出すように、ゼノは懇願した。

 それが、彼の望む罰だと言うのか。

 ……そんなこと。


「できるわけないでしょ」


「マスター、」


「それ以上は怒るよ、ゼノ」


 脅し文句を口走る一方で、不思議と脳内は冷静だった。


「マザーとかドールに囚われなくていい、あなたは、あなただよ」


「──っ!」


 ジュリと似てるなぁって、ふと思って。

 立派な男性の姿をしていても、まだまだまっさらな赤ん坊みたい。


「あたしがウジウジしてたせいで、余計な心配かけちゃったね……ごめんね」


 顔立ちや声が瓜ふたつでも、暁人じゃない、彼はゼノという青年だ。

 本当に謝るべきは、未練たらしく面影を重ね合わせてしまったあたしのほうだろう。


「無理にあたしを守ろうとしなくていい。ゼノがやりたいことをして、いいんだからね」


 1歩踏み込み、広い背へ腕を回す。

 とんとん、と拍子を刻むうちに、ぴくりと身じろいだゼノが、四肢を強ばらせた。

 でもそれも、少しの間だけ。


「私は……貴女のそばにいても、いいのでしょうか」


「いいよ。それが、ゼノのやりたいことなら」


 そっと瞳を閉じ、凪いだ心で、恐る恐る回った腕の感触をすくい取る。

 あたしは拒まないよ。もう、逃げないから。


「マスター、マスター……」


 うわ言のように繰り返していた彼が、最後にひとつ、噛みしめるようにつぶやく。


「貴女は、私の……私だけの……」


「うん?」


 肝心なところが聞き取れなくて、深く考えず聞き返したあたしは、のんきなおばかさんだったんだろう。


「貴女に、もっとふれたいです……セリ様」


 それはただ、放り投げられただけの言葉。

 あたしの許しなんて、関係なかった。


「へっ……!?」


 抱いていたあたしが、まばたきのうちに抱かれていた。

 額をくすぐった濡れ羽色の猫っ毛の感触が、放り出された意識の中、最初にたぐり寄せたもの。


「……んっ」


 呼吸の仕方がわからない。

 開いたはずの唇がふさがれていて、え、とか、は、とか、驚きの声を上げることすらもできない。


 ちょっと待って、どういうこと?

 なんであたしは……キスされてるの?


「んくっ……は、ちょ、ゼノ──」


「……セリ様」


「ひゃあっ……んんっ!」


 とっさに顔を背けたそばから、やわく耳朶を食まれ、頬を包み込んだ広い手のひらに連れ戻される。

 ついばむようなふれあいが、角度を変えて何度も、何度も。


 事故とか偶然とか、もう言い逃れできない。

 これはまぎれもなく、ゼノが自らの意思で降らせるキスの雨だった。

 互いの吐息が、体温が、信じられないほど近い。


「セリ様……」


 低く掠れた声音が、あたしを呼ぶ。

 ふいに目じりへふれた指先が、手袋越しに、にじんだ雫を掬い取った。


 手も足も、思うように動かせない。自分の身体じゃないみたい。

 あたしにできるのは、糸の切れた人形のように、しなやかながら力強い腕の中で脱力することだけ。


「……かわいらしい」


 熱に浮かされたこがねの瞳から、逃れられない。


 ──本当に可愛いですね、星凛は。


 この期に及んで、彼の面影と重ねるなんて。

 ほんと、どうかしてる。


「……うぅ」


「っ……どうなされましたか。やはりご無礼でしたか、申し訳ございません。お許しください……セリ様」


 崩れ落ちるあたしを抱きとめたゼノは、彼らしくない、焦った声で。

 突然噛みつかれたと思ったら、子犬みたいに謝られるという。


 無自覚だったって? たかがあたし相手に物好きさんだな?

 そう、追い詰められた星凛さんは、一周回って逆ギレをかましていた。


「大丈夫、気にしてないから」


 やけくそ以外の何物でもなかった。

 でもそれを聞いたゼノから、すとんと表情が剥がれ落ちて……え?


「あの、ゼノ」


「動かないでください」


「その手は何かな? とりあえず話し合、」


「妙な真似はやめていただきたいということが、おわかりにならないか」


 ひゅ、と声にならない声を飲み込んだのは、あたしの喉だ。

 美形が怒るとやばい。死ぬほど怖い。

 つまりあたしは今、絶賛ビビリ散らかしている。ガッシリ肩をつかんで離さない、ゼノに。


 図太いことだけが取り柄の、その辺に生えた雑草みたいなあたしなんか、一瞬で刈り取られてしまうだろう。


 だけど、極限まで研ぎ澄ました刃のような豹変ぶりを前にして、ある勘違いを起こしていたことに遅れて気がつく。


「ゼノ……?」


 このときすでに、ゼノはあたしを見てはいなかった。鋭いこがねの双眸を向けられていたのは、あたしではなかった。


「ここはマザーの屋敷です。それを承知の上でなお退かぬというなら、私がお相手いたします」


 ゼノの見つめる回廊の先には、誰もいない。少なくともあたしの目には、そう見えていた。

 だとするなら、ほかに動く者のないこの場所で、ふいに風が吹き抜けたのは何故なのか。


「──絡繰風情が、おこがましい」

 

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