第50話 それぞれの交差点_1



 人にはそれぞれ事情がある。

 日々を普通に過ごしていれば差し迫ったことになどならないはずが、少し道を間違えて日陰から出られなくなってしまうことも。


 個人事業主が融資を受け、不況の煽りで返済が滞ればどうなるか。

 担保とした土地建物を取り上げられてしまう。それこそ返済の目途が費える。



 崩谷くずれたににとって不運だったのは、脱サラして始めたバイク自転車店が好調な滑り出しだったことだろう。

 学生時代から好きだったバイクと、社会で必ず需要がある自転車。それらの販売と修理メンテナンスをする。元の仕事もそうした技術職だった。

 新しく店舗を作って開業したら想定以上に順調に滑り出し、技術屋よりも商才に向いていたのだと思い込む。


 人を雇い、もっと大きくしていこう。

 そんな矢先に近場に大手自転車チェーン店が出店した。当然、そちらに流れる客も少なくない。

 向こうは自転車だけ。バイクのことなら……と思うのだが、日本でのバイク需要は減少の一途を辿っていた。全盛期の一割程度などと。


 完全に流れを見誤った。そう忠告してくれた人間もいたのに成功体験が目を曇らせた。

 視野が狭くなった者は通常なら選ばない道を選んでしまうことも珍しくない。別のところから金を借りて間に合わせて、次の返済までには何とかなるなどと。


 失敗して、目論見が外れて、ただ借金だけが残った。

 迷惑をかけないよう家族と別れどうにか返済しようともがくのだが、うまくいかないまま時間が過ぎて。

 根が真面目な人間ほど嵌まりやすい。



 悪いところから金を借りれば、やはり悪い結果が帰ってくるのも必然。

 犯罪まがいのことをさせられて、けれど返しているのは利息分くらいにしかならず。

 人生を終わらせるくらいなら、言われる通り健康な部位を売るくらいしかないかと。


 家族に会いたい。

 惨めな心境に陥るほどに、幸せだった頃を切望する気持ちが強くなった。盲目的なまでに。



 ――悪くてもせいぜい交通刑務所に数か月入るだけだ。


 それで解決する。借金は消えて家族の元に帰れる。

 相手は社会のクズで、自分はアクセルを踏むだけ。お掃除みたいなものだと。

 もちろん、警察には不注意の事故だと言うだけ。もし余計なことを言えば次に墓場に行くのが自分になるだけだ。



 見たら迷うな、と。一度しかチャンスはない。

 一度でも後戻りしようとすれば二度とアクセルを踏み込めない。家族との再会の日は潰える。


 暴力もセットで言い含められた。あるいは別れた家族にもよくないことがあるかもしれないと。

 やるしかない。

 極限状態に追い込まれた男は、指示通り目標の大男を見つけてアクセルを踏み込んだ。運転は苦手ではないのだ。

 これでまた日の当たる場所に帰れる。温かく明るい場所を夢見て。



  ◆   ◇   ◆



 野生の勘とでも言うのか。

 包銭は見たものを信じられなかった。



 娥孟が転がり込んだアパートの部屋主に人を通じて命じた。娥孟の耳に入れるように。

 近場のパチンコ屋のどこの台が天井間近だったから朝から出るかもしれない、とか。

 そんな不確かな情報を聞いて動く人間がいる。包銭には理解しにくいが、実際に。

 鵜呑みにしているわけでもないのだろう。ものの試しにやってみても損はないと考えるらしい。


 目当ての台に着くためになら朝から活動するというのも珍妙なものだ。日常は怠惰なくせに。

 不規則な生活と言うか、包銭の常識とは別の規則性で行動する人種。


 アパートからパチンコ屋に向かう道。

 部屋主の自転車を勝手に乗っていくというから、通りそうなルートはわかっていた。その中で都合のいい場所を選んだ。

 後は底辺同士が不慮の事故を起こすだけ。包銭は直接運転手と話していないから人柄などがわからない。本当に実行できるかどうかは半分未満だと思っていたが。



 やると決めたらやる。しかし加減がわかるほど荒事に慣れていない。

 そういうタイプの人間だったのだろう。自転車で出てきた娥孟に向かい猛然と。

 これは死んだな、と確信した。


 仮に運転手が警察に何か言ったとしても、指示したのは裏社会の下っ端ということになっている。

 死んでも誰も気にしない人間相手でも、生き死にに関わるような面倒事は滅多にない。あっさり片付いてくれてよかったと思ったのだが。



「なん……だ、と……?」


 娥孟が自転車から跳ねるように飛び乗り、転がった。

 斜め後ろからかなりの勢いで突っ込んだ乗用車の、ボンネットからフロントガラスへ。そのまま後ろに。

 自転車は下に巻き込まれ、車は標識の柱にぶつかり止まる。だが肝心の娥孟は受け身を取って無事だ。無傷ではないにしても。


 信じられない勘の鋭さ。

 普通の人間なら、車が突っ込んでくると頭で理解しても咄嗟に体が動かないことも多い。プロのスタントマンだって打ち合わせもない事故にこうも鮮やかに対処できまい。

 避けようとしてぶつかる方に転がってしまう間の悪い奴もいるというのに、この娥孟の生命力は。



 ――てめぇ、おらぁ‼


 娥孟の怒声が、離れて見ていた包銭の肝も震わせた。

 失敗だ。まともに怪我もさせられないで。

 死ななくとも病院送りにでもすれば少しは懲りることもあるかと考えていたのに、これではただ挑発しただけ。


 娥孟のような男から恫喝されれば、運転手の男はすぐに喋ってしまうのではないか。

 借金取りから指示されたとかなんとか。

 男に命じた反社会的勢力は包銭や卑金と直接関係はないのだが、間接的に辿ってくるかもしれない。これでは面倒なことに――



「っ!」


 人間というのは本当に予測できない。包銭は今一度、それを目の当たりにする。

 運転手の肝が据わっていたのか、想像以上に追い詰められていたのか。ただ単に怒り迫る娥孟が怖かったのかもしれない。


 まさか今度は猛烈なバックで娥孟を跳ね飛ばすなんて。微妙に曲げた点も大した運転技術だ。

 ぶつけた後、パニックになってブレーキとアクセルを間違えたようにも見える全力の後進。

 立ち上がり威嚇していた娥孟の顔面が、古臭い自動車のリアガラスに叩きつけられた。



  ◆   ◇   ◆

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