第39話 患家
※患家:本来の意味では、患者のいる家。
◆ ◇ ◆
「遅いわよ」
「冬の夜道ですから」
毛布にくるまりソファで丸くなったままの女に、開口一番で不満をぶつけられた。
顔色は白く、実際にかなり体調が悪いらしい。それでも口から出てくるのは汚い言葉が最初。
詩絵はそれに安堵する自身を自覚する。
いつも通り。知っている通りだと。
実家のような安心感という言葉があるそうで。詩絵にとって
「風邪薬と栄養ドリンク、レトルトパックのおかゆなど」
「……」
無言で手を出される。
渡せと。
「……薬を飲む前に何か胃に入れるべきです」
「いちいちうるさいわね」
「常識です」
袋の中からバナナを一本取って手渡した。
埜埜がそれを億劫そうに剥くのを見ながら、薬とスポーツドリンク、栄養剤をリビングテーブルに置く。
買ってきたカットフルーツのパックなど冷蔵庫に入れようと開けてみれば、中は酒とつまみのような物ばかり。不摂生な生活も変わっていない。
「……」
台所回りに空き缶や配達弁当のゴミなども随分と多い。
少し違和感がある。
このマンションには卑金が来ることがあるのだ。リビングダイニングと寝室は普段からそれなりに綺麗に片付けていたと思う。
「……掃除、しないんですか」
「あんたがやればいいでしょ。こっちは年始からずっとこんなんなのよ」
「年始から?」
今日は一月九日。一週間以上も具合が悪いまま過ごしていたのか。
面倒くさがりなのは知っているが、それにしても。
「正月からあのバカに付き合ったせいで……」
「?」
「ちょっとぐらい具合が悪くたってね、働かなきゃならないのよ。生意気なあんたみたいなのでも育てないとなんないんだから」
育てられた覚えなんてない。
そう言い返す気持ちも湧いてこないくらいに長い年月で冷めているけれど。
体調が悪いせいでイライラしているようで、愚痴と不満を詩絵にぶつけてくる。
どうやら正月に誰かのせいで体調を悪くして、それを押して仕事をしたらこじらせたということらしい。
「あの人の相手だってしないと……あんたはさっさと片付けなさい」
「……薬を飲んだら寝ていて下さい」
「ふん」
その合間に卑金も来たと。
それでさらに具合が悪くなって、詩絵を頼るような有様に。
ただ、他人がいると口数が多くなる。
そういう性格が水商売に向いていたのだろうと思う。
具合が悪くて鬱屈していた。詩絵が相手でもとりあえず何か言わずにいられない。
「そんなに悪くなる前に、例の人に頼めばよかったんじゃないですか」
詩絵は
成長するにつれ女になっていく詩絵たちを埜埜が嫌い、このマンションに近づくことも許さなかった。自分の立場を揺るがすと考えたのだろう。
別に許されても好んで近づくつもりもなく、たまにこうしてどうしようもない用事で呼び出されるくらい。
「あっちも忙しいのよ……こんな時に」
普段なら卑金に頼むことを、嫌っている詩絵になぜ頼んだのか。
少し気になったのだ。
「事務所の人が死んだそうよ。はっ」
別に笑うことでもないだろうに、自分の都合に合わなかったからと侮蔑するみたいに笑う。
本当に自分勝手な――
「あの陰気な運転手……背背ってやつ」
「――」
からん、と。
片付けようと手にした空き缶が転がり落ちる。
「……」
驚きで、普段は直視しない埜埜を凝視してしまった。
栄養ドリンクの小瓶を呷る。喉をこくんと鳴らして戻った埜埜は、詩絵の顔を見て怪訝そうに眉を寄せた。
「なによ?」
「……その人、死んだんですか?」
「事故死だって小さくニュースにもなっていたでしょ。そんなことも知らないの?」
地方ニュースの小さなものなんて、意識していなければ気づかない。
卑金の名前ならともかく、背背の名前などに注意を払ってニュースを確認していなかった。
「なに、知り合いなの?」
「そうでは……ずっと前に車に乗せてもらったと思いますけど」
「そうだったかしらね」
もともと住んでいたアパートからこちら側に来る時だったか、何だったか。
たぶん一度や二度は会っている。まだ幼かった頃に。
背背が死んだ。
司綿になんと言えばいいのか。
母親の仇。一番の怨敵。
死んだこと自体は別にいい。生きているべきではない男なのだから。
しかし、司綿は怒るかもしれない。自分の手で成し遂げたかっただろうに。
母親の仇が、まさか事故で。こんな呆気なく。
己の罪を自覚することもなく死んでしまうなんて。
これでは復讐を果たしたとは言えない。どうしよう。
「……」
「片付けたらさっさと帰んなさい」
面倒そうに言って立ち上がり、改めて詩絵の姿を品定めするように見る。
会う機会が少ない詩絵が大きくなったとでも思っているのだろう。
「ああ……帰る前に店の張り紙変えてきてちょうだい。ついでにゴミも出しといて」
「……お店の鍵は持っていませんけど」
「はぁ……」
寝室に向かう途中、引き出しから出したスペアキーらしい物をぞんざいに詩絵に投げ渡した。
この辺りの燃えるゴミの曜日は明日だったか。
スナックなどやっていれば生ゴミも出る。一月初旬に店を開けた時にも。
店の経営者としてというか、やはり埜埜は他人の目が届く範囲には気を遣う性質だ。生ゴミなどの臭気が店に残るのは避けたい。
普段なら他の店員などに頼むことだろうが、都合よく顎で使える詩絵がいた。
埜埜にとって詩絵は邪魔で目障りな存在。それでいて自分の言うことを聞くのは当然というように見ている節もある。
店の鍵。
何かの役に立つかもしれない。司綿の為に。
「あの、薬のお金……」
「わかってるって……また連絡するから、鍵失くすんじゃないよ」
別にないわけではないだろうに、嫌がらせのつもりなのか後回しにして寝室に入ってしまった。
とりあえず鍵を財布にしまい、ゆっくりと片づけを続けた。
背背が死んだ。
それをどう伝えるか。
卑金が背背を疑うように仕向けて、引っ掻き回した上で不審な自殺を装うなど考えていたのに。
予定とは違う。だけど現実は変えられない。
なら計画の方を修正していかなければ。
背背を追い詰める中で、埜埜も巻き込んでいくつもりだったのだけれど。
事故死。
携帯端末から確認した。海に転落死だと。
本当にただの事故なのだろうか。
あの場で司綿が激情に駆られて突き落としたりしたわけでないことは知っている。遠くから見ていたのだから。
もし仮に司綿がやっていたのなら、その時は全力で庇うつもりだった。隠蔽するにしても偽証するにしても。
憎い仇が死んだというのに、これでは司綿の気持ちは救われない。
抱え込んだ憎悪だけが行き場を失ってしまうのではないか。
嫌われてしまうかもしれない。一緒に復讐をしようと誓ったのに、役に立たないと。
◆ ◇ ◆
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