第19話 差詰家の朝



 差詰の水曜の朝は遅い。

 習慣的に起きる時間は決まっているのだが、昨日は色々あったせいで寝つきが悪かった。

 九時近くなっても夫を起こさなかったのは妻の労りだろう。


「おはよう」

「……」


 食卓に座ったまま振り向きもしない妻。

 起きたことは気づいているだろうに、朝食の準備もなければ挨拶も返さない。

 昨日から続いた不愉快さが差詰の心をざらりと撫でる。誰のおかげで中流以上の暮らしができていると思うのか。


 妻にも不機嫌な日はあるだろうが、差詰に関係ないことで勝手に不機嫌になって挨拶も返さないなど。

 つい荒っぽい言葉が出てきそうになるが、弁護士の職業意識がこんな時でも自分をコントロールしてしまう。

 暴言は有利にはならない。どうせ責めるのなら冷静に、妻には自分の行いが間違っていると認めざるを得ないような追い詰め方をしなければ。



 論理的な舌戦は得意分野だ。

 その為に一度落ち着こうと、ヤカンを火にかけた。

 コーヒーを飲んでから妻の態度を責める。前にもこんなことはあった。娘が反抗期だった時に、娘への怒りを夫である差詰に向けられたことが。

 その時も妻が泣くまでじっくりと問い詰めたものだ。


 今回は何が理由なのか知らないが、勝手にへそを曲げて怒っているのだとアピールしているだけ。

 どうせつまらないこと。そんなことで夫を不愉快にさせるなど許せない。


 コーヒーを入れて妻の正面に座り、一口飲んだ。



「何を――」


 ことり、と。

 差詰が置いたマグカップの隣に妻が自分のスマートフォオンを並べる。

 やはり無言で。無礼な態度だが、見ろということだろう。


「私は家長として……っ! これはなんだ!?」

倫子ともこからよ」



 大学に通っている娘から送られてきた画像。

 映っているのは紛れもなく昨夜の差詰本人と、コートを脱がされそうになっている女子高生らしい制服の少女。少女の顔までは判別がつかないが。


「なぜこれが!?」

「火曜日にいつも遅いのはこういうこと?」

「違う! バカを言うな!」


 まるで差詰が女子高生を脱がそうとしているかのような写真。

 合成……ではない。確かに昨夜のそれだが、明らかに妻は誤解している。


「違うにきまっているだろう!」

「大きな声を出さないで」

「お前が疑っているからだ! こんなものを信じて、私が」

「何を疑っていると言うんですか?」

「私がこんなことを……買春なんてするわけがないだろう‼」


 スマートフォンを取り上げようとした差詰の指先から、するっと逃げていく。


「た、助けようとしたんだ! 明らかに車のヘッドライトだろう見ればわかる! ぶつかりそうになって」

「そう……そう見えなくもないけど」

「当たり前――」


 もう一度、スマートフォンが食卓に差し出された。

 次の画像を……画像ではなく、今度は動画。

 暗い中を、最近の一部のカメラ機能にはナイトモードというものがある。固定していれば暗がりでもわずかな明りで撮影できるのは知っているが。



「な……ば、ばかな……」

「私もそう思います」


 妻からの冷ややかな声。昨日のオフィスよりまだ寒い。

 暗がりの中、少女が差し出した手に紙幣を渡す男。先ほどの写真とは違って差詰の顔は判別ができないが、場所も衣服も完全に同じ。


「……倫子は帰らないと言っています。私も当分、どこかホテルに寝泊まりします」

「いや、違う……違うんだ、これは」


 説明しようとして言葉を探すが、やたらと言い訳臭い。

 弁護人として被疑者から同じ話を聞いたら、作り話の言い訳だと感じてしまいそうな筋書き。

 裁判官の心証も悪い。ならもっとマシな話で反省を示した方が……いや、違う。差詰は何もしていないのに。



「拡散されているそうです。『パパ活現場見ちゃった』というタグ付きで」

「違う!」


 差詰の言葉が響くダイニングで立ち上がった妻は、無機物でも見るような目で夫だったものを見下ろした。



「だといいですね。さようなら」



  ◆   ◇   ◆

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