第46話:恋愛の価値観が人と違うだけ
ジジジジジ…
ミーンミーンミーン…
アブラゼミやミンミンゼミの鳴き声が微かに聞こえてくる。まだそう多くはないが、少しずつセミたちが活動する時期が近づいてきたようだ。
日差しも強くなってきた。
今日は6月28日月曜日。もうすぐ7月だ。そして、今日からテスト週間でもある。
満ちゃんは実さんに勉強を教えてもらうことになっているらしい。夏美ちゃんは森くんと、はるちゃんは星野くんと。それぞれ二人ずつに分かれて勉強することになっている。
「泉ぃー!頼むよー!俺期末やべぇんだよー!」
「…ごめん、俺じゃ手に負えないから…」
「親友を見捨てるなんて!」
教室に入るなり、中間で余裕そうにしていた久我くんが加瀬くんに縋りついている姿が目に飛び込んでくる。満ちゃんは前回、赤点をギリギリで回避していたが、久我くんはほぼ赤点だったと聞いている。「期末で取り戻さなければ夏休みは無いぞ」と三崎先生に脅されていた。
「…朝から元気だな。久我は」
そう呆れながら教室に入ってきたのはクラスメイトでも同級生でもなく、二年生の生徒。
空美さんの恋人の藤井先輩だ。
「せ、先輩ー!俺期末やばいんすよー!助けてくださいよー!」
加瀬くんに縋っていた久我くんが藤井先輩の方に移動する。そういえば二人ともサッカー部だ。
「久我くん、まこちゃんに縋っても無駄だよ。その人、体育と美術以外全然駄目だから。後輩の私に勉強教えてもらいにくるくらいだから」
「うるせぇな。今日はそんなんじゃねぇよ。久我、他の一年のサッカー部員連れて部室前集合しろ。緊急ミーティングだ」
「え…なんすか…」
藤井先輩に泣きついていた久我くんが急な招集に怯えるように恐る恐る藤井先輩の顔を見上げる。
「俺も知らん。マネージャーも含めて学年全員連れて来い。俺は先に行く」
「えぇ…何…?何急に…怖っ…」
怯えながらも、教室を出て行く久我くん。サッカー部で何かあったのだろうかと思っていると、サッカー部の部室でタバコが見つかったらしいという噂話が聞こえてきた。
「いや、多分中間で赤点取った人が多かっただろうからそういう話じゃないかな。仮にタバコだったとしてもサッカー部には犯人は居ないと思うよ」
と、海菜が噂話を否定する。サッカー部"には"というのが引っかかってしまって彼女を見る。目が合うと、しーと人差し指を唇の前に立てた。意味深な仕草だが、仮に隠れてタバコを吸っている生徒がいるとしても、少なくとも海菜ではないだろう。
「えっ、何?満ちゃんやっぱりタバコ吸ってんの?」
「あぁ?だから私はタバコなんて——って、うわっ。何しに来たんすか」
突然会話に入り込んで来たのは柚樹さんだ。彼の姿を見て満ちゃんは嫌そうな顔をするが、たまに二人一緒にいるところを見かける。仲が良い様子が伺える。
柚樹さんにはあまり良い噂がないため、満ちゃんが彼に何かされていないかと心配する声もあるが、彼は噂ほど悪い人ではないことを私は知っている。
「んな嫌そうな顔すんなよ。今日は実が休みだよって報告に来てあげただけだよ」
「あぁ…わざわざ来なくても実さんから聞いてますよ」
「そんなわけで、今日はお兄さんが勉強見てあげ「遠慮しとく」
即答され、がっくりとうな垂れる柚樹さん。
「そう言うなよー…実から頼まれてんだよ」
「あぁ?実さんから?嘘だろ」
「うん。嘘。これを口実につきみちゃんに会いたいだけ」
「はぁ…あんた、ほんとにつきみのこと大好きですね…」
「可愛いじゃん。犬」
そう言って柚樹さんが満ちゃんの頭をわしゃわしゃと撫でまわす。やめろと舌打ちしながら手を払い除けて柚樹さんを睨む満ちゃんだが、柚樹さんは怯むことなくあははーとへらへら笑う。その憎たらしい笑い方が海菜と被る。
彼と海菜は何処か雰囲気が似ている。いつもへらへらしていて胡散臭い——もとい、ミステリアスで妖しげなところとか。柔らかくて優しいところとか。
「柚樹さん、つきみちゃんと知り合いなんですか?」
「そう。一回だけ会わせてもらったことがあるんだよ。帰るときにバイバーイって手振ってくれてさぁ。もうメロメロになっちゃって」
「あはは。あれ可愛いですよねー」
クラスメイト達は遠巻きにひそひそしているが、柚樹さんも海菜達も特に気にすることなく他愛もない会話は続く。
『なんか…一条柚樹先輩って…思ったより良い人…っぽい…?』
『ね。もっと危ない人かと思った』
『…でも…火のないところに煙は立たないって言うし…』
クラスメイトの噂話が聞こえてくる。半信半疑ではあるが、少しずつ柚樹さんに対する警戒が解けつつあるようだ。
「…やっぱり居心地良いね。君達の近くは」
「なんすか。クラスで孤立してんの?」
「孤立はしてないけど…君達はさ、俺を何でもない一人の人間として対等に接してくれるだろ?俺にとってはそういう人って、凄く貴重なんだ。周りから見たら俺は"女を取っ替え引っ替えするクズ"か"大企業の息子"だからね。俺を庇ってくれる人は大体後者。俺に優しくしてくれるのは大きな見返りを求めて俺に媚びる人ばかり」
寂しそうな顔をして語る彼。そういえば柚樹さんと実さんの父親は大手企業グループの社長だと聞いている。私は人の肩書きをあまり気にしたことがないが、私のような人は少数派らしい。海菜達といると全くそんな感じはしないが。
「と、いうわけで満ちゃん、今日家行っていい?」
寂しそうな空気なんて嘘だったかのように、けろっとして柚樹さんは言う。
こういうところも海菜に似ている。
「…はぁ…分かりましたよ。放課後、校門前で待っててやるよ」
「わーい」
やはりこの二人、仲良しだ。つきみちゃんに会ったことがあるということは柚樹さんは一度満ちゃんの家に行ったことがあるのだろう。
周りはみんな、柚樹さんのことを危険人物扱いしているが、私は彼よりも彼の妹の実さんの方に警戒していた。しかし最近の実さんは以前の毒々しさが抜けた気がする。満ちゃんを見る目も優しくなった。満ちゃんとの関係も少しずつ変わりつつあるのだろう。恐らく、良い方向に。
「じゃ、満ちゃん。また放課後に」
「はーい。またね」
予鈴が鳴ると柚樹さんはバイバイと手を振りながら教室を出ていく。
「あ、
「おはよう、柚樹。…三崎先生って呼びなさい」
「あははー。じゃあねー。今日は部活行く…あ、ねぇか。テスト週間だわ。残念だなぁ。せっかくやる気出したのに」
「…全く…」
ため息を吐きながら三崎先生が教室に入ってきた。人懐っこいところも海菜に似ている。
彼を好きになる人は多いらしい。しかし彼は満ちゃんと同じで、誰も好きになれないのだという。彼の悪評は、それを理解できない人達が流しているのだろう。ふらふらと遊び歩いていることは事実だと本人も言っていたが。
「三崎先生、一条柚樹先輩と仲良いんですか?」
「俺は音楽部の顧問だからな。あいつは誤解されやすい奴だけど、悪い奴ではないよ。恋愛に対する価値観が人と少し違うだけ」
そうサラッと言えてしまう三崎先生は良い人だ。
「まぁ…未成年なのにふらふらと遊び歩いていることに関しては教師として容認出来ないが…学校外でのことだからなぁ…」
「…遊んでるのはマジなんすか?」
「それは先生にはわからん。本人は事実だと言ってるが…流石にそこは確かめようがないからな。決定的な証拠でもない限りは厳しく言えない。ただ…俺はあいつの生き方、結構好きだな。たった一人の人間を愛することが出来ないと彼はよく言うが、それをはっきりと出来ないと言えるところは偉いと思う。『君だけを愛するよ』なんて言っておきながら隠れて浮気するよりはよっぽど誠実だと思わないか?」
空美さんも同じことを言っていた。
「…先生って意外と暑苦しいっすよね」
満ちゃんが苦笑いしながら呟いた言葉が刺さったのか、三崎先生も釣られて苦笑いする。
「う…よく言われる…」
「でもまぁ、嫌いじゃないっすよ」
「そ、そうか」
苦笑いが照れ笑いに変わる。私も三崎先生のことは好きだ。この人が担任でよかったと度々思う。
「さて…そろそろ本鈴なるから席ついておけよ。…あれ、久我はどうした?休みか?」
そういえば、久我くんはまだ戻ってきていない。
「なんか、サッカー部の緊急ミーティングがあるって呼び出されてましたよ」
「あー…なるほど…サッカー部員、半数近くが赤点取ってたからなぁ…」
サッカー部はそこそこ人数が多い。一年生だけでもマネージャーを含めて10人近く居るらしい。三学年合わせると3〜40人くらいだろうか。その半数というと…結構深刻だ。期末を落とした人は補習で部活の練習に出れなくなる。夏休みは合宿もあるらしい。
「すみません…遅くなりました…」
本鈴が鳴ったタイミングで疲れきった顔で久我くんが教室に入ってきた。ミーティングの理由を聞くと、海菜と三崎先生の言った通り、期末テストの件だったようだ。HRが終わると彼は海菜に、勉強を見てくれと泣きついていたが彼女は「無理」と笑顔でばっさりと切り捨てていた。
容赦ないなと苦笑いしつつも、正直私も、海菜と二人きりでなくなるのは嫌だから断ってくれてホッとしてしまっていた。久我くんは少々申し訳ないが、加瀬くんが呆れつつも「俺で良ければ見てあげる」と名乗りを上げていたからまぁ、なんとかなるだろう
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