吸血鬼は目を閉じ、十字を切った

酒場御行/メディアワークス文庫

一章 燃えた後に残るもの

第1話

 スターマックスしん宿じゆく西口店で、吸血鬼がカフェ・モカを注文していた。



 彼は、浮世離れした風貌をしていた。百八十はあるだろう高い背丈、雪原のような白い肌に高い鼻と薄い唇、昼が夜に切り替わる直前のようなアメジストの目。一つにくくられた髪は、肌同様に混じり気のない白だった。

 その日本人にはほとんど見られない容姿に加え、注文する声も金を払う動作も呼吸のために上下する胸もひどく静かで、生物とは思えない雰囲気であった。人間とはかけ離れた気配の中、ただ一つ、一月九日の夜に見合ったハイネックのセーターと白いロングコート、たわんだ髪の入り込んだマフラーだけが、他の客が共感出来る部分だった。

 同じ世界に住む生物には見えなくても、当然ながら店内にいる者達は誰も彼が吸血鬼だとは考えなかった。彼の背後のカウンター席に座る青年は男を俳優だろうかと思っただけであろうし、女性店員は何度も店に来る彼を美形のお得意様としか思っていないだろう。

 身近にいる者が人の生き血をすする怪物だとは誰も思わない。彼もそれを承知しているから、自分の正体を隠すだとか周囲の視線を気にするような素振りはなかった。

 と──そのとき。


《──速報です。本日未明に都内の高等学校に通う女子生徒の遺体が、自宅マンション付近で発見された事件ですが、現場から走り去る男性の姿を見たという目撃証言がありました》


 イヤホンから流れたニュースキャスターの声に、彼は目を細めた。


《この事件ですが、警察は当初、転落死とみていました。しかし》


 しかし──とニュースキャスターが続けたのを聞いて、彼は僅かに目元をこわらせた。にらまれたと思ったのか、カウンター越しにミルクを混ぜていた店員が戸惑ったのを見て、手を振ってそうではないことを示す。しかし、意識はイヤホンに集中し続け、深く呼吸をしながら次の言葉を待った。


──》


 キャスターは朗々と原稿を読み上げていたが、そこで、言葉が切れた。

 それから、え、と困惑がうかがえる声を彼の耳が拾う。スタッフの間で視聴者にはわからない何らかの情報が行き交った後、キャスターは小さくせきをした。


《……失礼しました。警察は捜査を続ける方針です。……次のニュースです。がきあき監督の映画『十字の軌跡』で主演を務めた俳優のおおさかやすおみさんが、長期の休業を発表して一週間、ファンからは先月のドラマ撮影中にをしたことが原因なのではないかとの声が──》


 ニュースは、最近ネットを騒がせた俳優の休業騒動に話題を移した。吸血鬼は知らず力の入っていたらしい肩をゆっくり落とす。そのとき、受け取りカウンターの向こうから店員が彼にカップを差し出した。店員に礼を言いながら受け取る。

 緑の人魚のマークが描かれたスリーブ越しにじんわりとした温かさが吸血鬼特有の冷たい指に伝わった。店を出ようと三歩進んだところで、彼のコートのポケットから初期設定のままの着信音が鳴った。

 マフラーに埋めていた口を出してカフェ・モカの最初の一口を頂こうとしていた彼は少しだけ嫌そうな顔をしたが、カップを口から離し、左手でポケットをまさぐった。携帯端末の画面には仕事先の上司──みやつき──の名前が表示されている。指を画面にスライドさせ、端末の下部に口を寄せた。


「──情報が漏れていたぞ」

『いやぁ、大変申し訳あらへん。やけど間に合うたやろう、シキョウ君』


 シキョウ、と呼ばれた彼は、やたらと大きい──そして、わざとらしくなまった──声から若干耳を離しつつ、「『首』まで言っていた」と納得いかないと言いたげに返す。


『現代の情報社会にはほとほと手ぇ焼いてまうね。ボクもほんまに参ってまうで。そやけどこれでも頑張った方や、容赦してほしおす』


 シキョウの脳内に、顔の前で手をチョップの形にして、へこりと頭を下げるいけ好かない若い男の顔が浮かぶ。これ以上この男を責めても仕方がないだろう──彼は気持ちを切り替えると、「それで用件は」といた。


『ああ、そうやった。以前、君に相棒をつけようって話があったやろ?』


 すう──と、シキョウは息を吸い、勢いのまま言葉が飛び出す前に口を閉じた。揺れた自分の精神が落ち着いたことを確認してから、唇を開く。


「……その話は断ったはずだが」

『ううん、君一人で決められるこっちゃあらへんのや。やっぱし吸血鬼を単独行動させるちゅうのんは色々やかましおしてね。「一般人にいたらどないすん」だの「野良犬をおりに入れへんなんてことあるか」だの、酷いでなぁ。ああもちろんボクは信じてんで? 君がそんなんするはずがあらへん! でもねェ、他の人はちゃうんやで』


 言わなくてもいいことをまくてる宮月に、シキョウの眉間にぐっとシワが寄る。


「……私には私の目的とやり方がある」

『だって君は特別な人やん。前例があらへんことには、皆不安になるんやで。君にはそれを払拭する義務がある』


 子供に言い聞かせるような、しかしどこか険が含まれる口調。

 長い足が、うろ、と店内を三歩分漂った。先程から席に着くでも外に出るでもない彼を、店員が不思議そうにいちべつした。この店の通路は広くない。シキョウは外に出ることを選択し、ガラス製の扉を押した。

 途端に皮膚を裂かんばかりの冷風と脂肪の塊のような分厚い雲に覆われた空が彼を出迎え、シキョウは風と空から逃るように店の側面にあるテラス席に腰かけた。


「……どうしてもか?」

『食い下がるね~』宮月が声を上げて笑った。『どないしても。別にそないな長い期間ちゃう。研修……うん、研修に付き合うてくれるような感覚でええ。色々教えたって』

「……? 吸血鬼のことは事前に学ぶのだろう?」

『ちびっと事情が特殊なんやよ』


 宮月がよどんだ様子に面倒ごとの気配を感じたシキョウは、「わかった、もういい」と目を伏せた。一つに括られた髪をざらりとでて、マフラーの外に出す。


「その人間とはどこで落ち合えばいい?」

『彼女には先に行ってもろうてんで。ああ、はらさんにも話は通したるさかい』


『彼女』──ということは女か。ついでにその相棒の情報も送るよう伝えてから、通話を切る。イヤホンを外しカップの中身を一気にあおった。手渡された五分前までは熱いくらいだったのに、外気のせいですっかりぬるくなってしまった。それでも体は多少温まったのか、吐き出した白い息は濃さを増していた。

 シキョウは右手にコクーンタワーを見ながら進む。ヨドバシカメラ新宿本店があるこの周辺は、ちようがある東口と比べれば小規模だが飲み屋を中心とした飲食店が多く、仕事帰りの人々の姿がちらほらと見られた。

 寿屋を一階に構えるビルの脇で足を止める。ビルとビルの間には人が一人通れるかどうかという路地があり、従業員の出入り口になっているのか鉄製の扉で塞がれていた。シキョウは感覚を研ぎ澄ませ、周囲の人間の足音の数と場所を把握する。今、六人の男女がこの通りを歩んでいる。内二人は手元の端末に夢中だ。全員がシキョウを視界から外したタイミングで、彼は身を翻したかと思うと軽く、瞬く間に扉の向こうへ姿を消した。

 店の明かりも街灯も届かないようなあい。滞留した飲食物の臭いと靴裏を汚す謎の液体が不快だ。彼は、靴先を地面にトントンと軽く打ち付けると、ぐっと膝を折り、先程よりもずっと高く跳び上がった。

 曇天の夜空に、白いコート姿は酷く目立った。誰も今更上を見上げない摩天楼の街で、吸血鬼は空で三日月をたように弧を描くと、屋上に降り立つ。

 そのとき、携帯端末から通知音が鳴った。相棒となる女性の情報が宮月から送られてきたらしい。

 履歴書程度には情報が載っている文面に一通り目を通して、彼は鼻を鳴らした。


「……子供ではないか」


 さきもりヒバリ。女性。十九歳。メールの最後には写真が添付されている。

 ショートカットにしたコーヒーブラウンの髪に勝気そうな顔をした少女が、睨み付けるようにこちらを見ていた。

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