三
どちらが言い出したことかははっきりしないけれど、週末にふたりの休みが合えば、なんとなく一緒にご飯を食べるようになっていた。
別に付き合っているとかそういうわけではない。お互いそう思っている。だって、出てくる話題は全然色気もなんにもないんだもの。
「ジキトツ? あの黒い着物、そういう名前がついてるの?」
「はい。『直綴』と書きます」
本日は上條との第三回目の食事会。10月も終わりに近く、上條の坊主頭が被る帽子も厚手になってきている。
創作料理も出す居酒屋のテーブルに漢字を書く上條の手元を、じっと見つめる。
「難しい漢字なのね」
「
「なるほど。あれってすごく袖が大きいよね。動かしづらくないの?」
手にしていたコーヒーカップを置いて、袖を大きく翻す真似をしてみる。当然ながら普通の長袖姿だから翻るものなんてないのだけど。
上條は、よくぞ訊いてくれましたと頷く。
「慣れですね。禅宗はとくに袖が大きいので、慣れるまでは所作の一々に袖を巻き込んでしまって苦労をしました」
過去を懐かしむかのようにしみじみと語る。いったい、どんな苦労をしたんだろう。袖を踏んづけて転んでしまったとか? なんとなく、上條ならありえそう。
「お坊さんの動きって、すべてが儀式めいてる感じがするんだけど。お焼香したり、深くお辞儀したり、お経を読んでる姿も鳴り物鳴らしてる姿も、歩くのだって、すごく大切な儀式を執り行ってるように見えるの。それがあの大きな袖を翻しながらでしょう? 色だって、黒い直綴に黄土色の袈裟だし、すごくかっこいいって思うの。ああいう恰好って普段の日常にはない光景だから、すごく新鮮だった」
新鮮どころか、萌えのツボを刺激されまくりだった。こうしてみんなと変わらない恰好をしている目の前の上條とは、まったくの別人だった。わたしとしては、直綴姿のほうが断然似合ってると思うし、モテるんじゃないのかなと思うんだ。
上條は、にんまりと笑みを浮かべた。
「みゃー先輩、最初ご飯食べるときの待ち合わせで僕の姿見たとき、あからさまにがっかりしてましたもんね」
「―――え? わたしが?」
「気付いてなかったんですか? あぁ、法衣じゃないからテンション下がったんだなぁって思いましたもん」
うそ……。全然……、気付いてなかった。ちゃんと隠せれたと思ったのに。
「そんなにも判りやすかった? 顔に出てた?」
軽く思い出すように、上條はうぅむと天井に視線を流す。
「顔に出てたと言うより雰囲気かな。こう、わくわくしていたものが、しゅんっと消えていった、みたいな。あ、ほら。漫画で言うところの効果線がなくなったみたいな感じですか?」
そういえば、少なくとも中学のときの上條は、普通に漫画を読んでいた。自分の気持ちを漫画の効果線で説明されるとは思わなかった。
「まあ、ね。だって……別人だもの、あの恰好してると」
一瞬の間があった。
「あ。あのね、べつに普通の恰好した上條が凡庸だと言うわけじゃなくて」
「いいんです、言わないでいいです。きっとそれ以上言うと、どツボにはまる気がするんで、やめておきましょう」
「……、うん。そうしておく……」
お互いのためにも。
上條は、気持ちを切り替えるように紅茶に手を伸ばした。
「……ちなみにですね。袈裟ですけど、あれは黄土色ではなく、『
「
「ああ。彼ですか。彼はまだ色のついた袈裟を
「資格? そんなものがあるの?」
「ええ」
普通に頷く上條。
「最初にご飯食べたときだったかな、話したと思うんですけど、僧侶というのは得度をすればなれるんですが、修行を積むことで更に上の段階に上ることができるんです」
「上條が住職になるために修行しに行ったみたいに?」
わたしはいつの間にか、気がついたら『上條くん』ではなく、昔みたいに『上條』って呼び捨てにしていた。
「はい。所謂、出世ですね」
「出世……。お坊さんの世界も、俗世のシステム採用してるんだ」
「ちょ。みゃー先輩が言うと、なんか脱力しちゃうんですけど」
これ見よがしにがっくりと肩を落とす上條。
「―――あれ? 上條?」
まぁまぁとなだめようとしたところに、背後からかかる声があった。
はっと目を瞠った上條の視線を追って振り返ると、すぐ後ろの通路に、すごいイケメンがいた。
頭のてっぺんから足のつま先まで洗練されたたたずまいに、不覚にも素で驚いてしまう。男ばかりの数人の連れに先に行くよう声をかけて、そのひとはわたしの後ろで足を止めた。
こんな田舎の町に、なんだってモデル並みの男がいるの。場違いすぎるよ。
「
思いもかけないくらいに硬い声が、上條のほうから聞こえてくる。
いまのって、上條の声、よね……?
内心ぎょっと感じて顔を戻すと、いつもと変わらない静かな表情の上條がいる。でも……、なんだろう、どこか気まずいものをはらんでいるような気がしないでもない。
「彼女、さん?」
結城さんと呼ばれたひとは、わたしに軽い会釈をして上條に訊く。どうもと、わたしもなんとなく頭を下げる。
このひと、声もいい。なにかで聞いたことがあるけど、子宮にクる声ってきっとこういう甘くて低い声をいうんだろうな。
上條はわたしにちらりと目を遣って、「いえ」とあっさり否定をする。
「中学時代の先輩なんです。夏に偶然再会しまして」
「先輩さん? ……そう」
一瞬、意味ありげな目で上條を見たあと、結城さんは微笑みを湛える。
「あの、先輩。会社の同じ課でお世話になっている結城さんです」
「
きっと彼は、無意識に自分がどんな表情をすれば一番魅力的に見えるかということを知っているんだろう。微笑みと真面目な表情を混ぜ合わせたような、どっちにも見える優しげなものを目元に浮かべていた。
「小嶋美夜と申します。あの、上條がお世話になっております」
「―――いえ。彼はやり手でね。難しい立場なのに結果はちゃんと残すし、まわりへの配慮もしっかりしているしで、後輩とはいえ、学ぶところは非常に大きい得難い男です」
結城さんの言葉に目を丸くした上條は、ぶるぶると首を振る。
「褒め上手なんですよ」
とんでもないとどこか焦っている上條に、会社での姿を垣間見れた気がした。自分よりも上の立場のひとだからか敬語なんだけど、肩肘張るようなヘンな緊張感はなくて、打ち解けている感じだ。
「誰も敢えて口にはしないけど、みんなそう思ってるよ」
「先輩が勘違いしますから」
照れているというよりも、困惑しているようにも見える。もちろん、表面上はなんともないような静かなものだったけれど。中学の頃は置いといて、大人になった上條のこんな表情を見るのは、初めてかもしれない。
「お邪魔してしまったね。おれはもう行くから、ゆっくりしていって。小嶋さん、お目にかかれてよかった。お先に失礼しますね」
「え。あ、あの。失礼シマス……」
生まれてこのかた31年の人生で初めてイケメンにまっすぐ目を見つめられての台詞に、不覚にも微妙に半分腰を浮かせてたまま、もごもごと消えるような挨拶を返すことしかできなかった。
レジのところで待っている仲間のもとへと歩み去ってゆく結城さんの背中を見送って、ばっと上條に向き直る。
「いまのひとって、上司?」
「です。指輪、チェック済みだったみたいですけど、予想どおり独身ですよ」
「……」
いちいち指摘しなくてもいいの。この年齢になると、左手薬指に無意識に視線が行くのは仕様なんだから。
「なんなのあのイケメンさ。あそこまで顔とか整ってると、もう世界に対する冒瀆じゃない?」
冒瀆、と口の中で呟いて上條は、小さく噴き出した。
「なに?」
わたし、そんなおかしなこと言った覚えないんだけど。
―――あ。
お店を出ていこうとする結城さんが、こちらに顔を向けてきた。もう一度軽く腰を浮かせて頭を下げると、手を小さくあげての笑顔が返ってきた。そうしてそのまま、自動ドアの向こうへと消えていった。
一連の流れを眺めていた上條が、溜息をついた。
席に戻ってわたしは、つい怪訝な顔を返してしまう。
「あんまり、好きじゃない、の? ソリが合わないひとだとか?」
「いえ、そういうんじゃないんですけど……」
なにか思うところがあるみたいだけれど、はっきりと言葉にしようとしない。
「ねえ。結城さんってあんなにも場違いにスマートじゃない。会社の女子、黙ってないんじゃない?」
「ですね。とにかくモテますね。仕事も惚れ惚れするくらいできますし。後輩やら周囲の人間が結婚していっても、僕と違って気にする素振りなんてまったくないし」
「……。なんか、機嫌悪い?」
結城さんが現れたあの一瞬で、上條の雰囲気がまるで黒い雲を纏ったみたいにどんよりとやさぐれている気がする。どうしたんだろうって様子を窺っていると、上條がそれに気付いて誤魔化すように笑む。他人行儀な、儚く薄い笑みだ。どこかなげやりでもあって。やだな。こんな表情、見たくない、な。
「結城さんみたいなひと、どう思います?」
質問に答える代りに、不意に訊かれた。
胸がどきんと鼓動を返したとき、ティーカップを持つ上條の指に、力がこもっているのが目に入った。
緊張してる? ううん、違う。意識してる……?
「一瞬だったからよく判らないけど、眩しいひとだと、思うよ」
「眩しい?」
「なにかにつけていちいち輝いてる眩しいひと。あ、上條も頭髪的にある意味眩しいひとになっちゃう?」
敢えて軽口を叩いてみた。
ぴりりとした空気を、取り払いたかったから。
上條とご飯を食べてしょうもない話をする時間は楽しかったから、いくら結城さんがかっこいいひとだとしても、和む空気を壊されるのはいただけない。坊主憎けりゃじゃないけど、結城さんの印象は少なくともわたしにはパーフェクトじゃなくなってゆく。
こちらの意図を酌んでくれたんだろう。上條の表情から、硬いものが消えて自然な柔らかさが戻ってきた。
そうよ。上條は、そうでないと。
「会社だとスーツでこの頭ですからね。一番輝いてますよ」
帽子を取って、ぺちんと軽く自分の頭を叩く上條。改めて見ると、綺麗に照明を映しこんでいる。
「綺麗な形してるよね」
「?」
「頭。こう、適度にとがってるというか
「……褒められてる、んですよね?」
なんで顔を引き攣らせるのよ。
「もちろんよ。中学のときは坊主頭じゃなかったでしょ?
「ウチの母親のおかげですね。次男だけど、将来坊主になるかもしれないからって、赤ちゃんのとき頭の向きを気にしてくれたみたいで」
「お母さん、『よくやった、わたし!』ってガッツポーズしてるんじゃない?」
中学のとき、一度だけお寺にみんなで遊びに行ったときにお会いしたことがある。ほんわりした雰囲気のひとだったな。上條のお兄さんって確かそのとき大学生だったかで、まさか大学生の息子がいるとは思えないくらいに美人だったからびっくりした記憶がある。いま思うと、あれは美人というだけじゃなくて、若いのだろう。
上條はしみじみと頷く。
「ことあるごとに、『お母さんに感謝なさい』って言われますから、頭が上がりません」
「上條のお母さんって、若いんじゃない? まだ五十代前半とか」
「ええ。若いですよ。19で結婚してますもん」
「じゅ、じゅうきゅうッ!?」
想像もしなかった情報に、声が裏返ってしまった。
19で結婚って、なにそれ、高校出てすぐってこと?
「ちなみに父は34歳でした」
ななな……!
なにそれ!
上條の両親の年齢に、絶句だった。
34と19って、15も離れてるじゃないのよ!
待って。待って、わたし。
「24の聞き間違いだった……?」
「いいえ。34歳です。いまの結城さんと同じ年齢ですから」
さらっと言った上條だったが、すぐにはっと表情をこわばらせた。
きっといつもなら、普通にやり過ごせていた話題なんだろうけど、今日のいまはタイミングが悪かった。
なにがあったのかは判らないけど、こういう場で結城さんに会いたくはなかったんだろうな。
もしかすると、以前彼女とお店で会っているときに、さっきみたいな状況で結城さんとばったり遭遇して、結城さんのかっこよさに彼女さんが心変わりしちゃって……振られちゃった過去があった……とか……?
考えすぎ、かな。
でも、そう考えたほうがいまの上條の様子は説明がつく。
そっか。振られちゃったのか。トラウマになってるのかも。
って、わたしたち別に付き合ってるわけじゃないからそこまでびくびくしなくてもいいと思うんだけど。
そこらへんは、オトコの沽券ってヤツなんだろうか。
「34歳って言えばね」
わたしは慌てて頭の中から違う話題を探して引っ張り出した。
「この前、一緒に夜勤したひとが34歳なんだけど」
「―――ええ」
よし。上條、無理やりっぽい気もしないでもないけど、喰いついてくれた。
「小学生の子供もいるのよ? もういい歳した大人なのに、『廊下の向こうにいる』って見まわりのあと騒いじゃって」
「いるって……、つまり」
「幽霊がいたんだって。女のひとの」
「よく言いますよね。夜中の病院には出るって」
顔から硬さも消えてきた。お坊さんていう職業柄、気になる話題なのかも。これを選んで良かった。
「でもわたし、霊感ないから全然そういうの判らなくて。肩に手を置かれて自宅への道を訊かれたんだって。とにかく怖くて声も出なかったみたいで、詰所に戻ってきたときの青い顔がそれこそ幽霊みたいで。上條のトコはどうなの? やっぱり出たりする? 上條、見えるひと?」
どうかなぁと、上條は宙を見据えて眉間にしわを寄せた。
「僕も判らないほうだからそういう経験はないけど、僧堂にいたときの先輩は霊感が強いひとで、なんにもないところに向かって『今日もありがとうございます』って言いながらいきなり合掌してたりしてたな。ウチの寺でもお墓に火の玉がっていう噂が一時期あったけど、親も兄貴も誰も見たことも感じたこともないから、よく判らなくて」
「ちょ……、出るの? 上條ンとこ、幽霊出るの!?」
霊感はないけど、ないからといってまったく怖くないわけじゃない。
「え? でも先輩、霊感ないんでしょ?」
「なくても怖いものは怖いのよ。この前の夜勤のときだって、結局そのあとの見まわり丸投げされて、びくびくだったんだから」
「へぇえ。びくびくするみゃー先輩、見てみたいですね」
上條の表情はすっかり元に戻ってきたけど、ちょっと調子に乗ってる? 意地悪っぽい目でにんまりとこっちを見てくる。
まぁ、なんていうのかな。仔犬ばりにまっすぐに見つめられると、なんか
本当だったらもうお店を出る頃合いだったんだけど、結城さんの出現で、なんとなく時間をずらそうっていう思いがどちらともなく生まれたんだと思う。
わたしたちはそれから一時間近くも、何度目かのデザートを頼みつつ、病院での話だったり上條が高校時代に出た吹奏楽コンクールでの失態の話だったりをしていた。
いつもと変わらないはずの上條とのご飯。
そのはずだったのに、わたしたちの関係に楔を打ち込んだのは、その晩に遭遇した結城さんの存在だったのだ。
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