上條からの希望とわたしの勤務シフトをすり合わせると、食事に行けるのは今月、8月下旬の金曜夜ということになった。

 ―――のだけど。

『すみません。お通夜が入ってしまったので、明日以降でお願いできませんか?』

 というが、当日の朝に入ってきた。

 わたしは勤務直前の連絡ということもあって、ちょっとびっくりしてパニクってしまった。

『大丈夫? お悔み申し上げます。どうかお気を落とさずにね。ご飯は、また日にちを調整しましょう』

 という、トンチンカンな返事をしてしまったのだった。

 すぐに「お坊さんにお通夜は普通だろ!」って気付いて、『いまのなし!』と取り消しを送信したけど、きっとスマホの向こうで上條、吹き出してるんだろうなぁと思うと、悔しくてならなかったのだった。



 そんなこんなで、結局ふたりの時間が合ったのは、なんと更に一ヵ月後。秋のお彼岸が終わった、9月の終わりになろうとする頃だった。



「ええと、とりあえずは乾杯~」

「お仕事、お疲れさまです」

「お彼岸、お疲れさまでした」

 かちん、と軽く目の前に掲げたグラスを合わせる。

 上條はウーロン茶だったけど、わたしは生中である。

 いきなりビールだなんて……と、ひと昔前のひとみたいに嘆くことなかれ。美味しいものは美味しく頂く。古今東西、これについての異論はないはず。

 誰がなんと言おうと、わたしはビールが好きなのだ。

「お彼岸は、檀家さんの家を駆けずりまわってたの?」

 はーと、ひと息をついてジョッキをテーブルに置きながら訊く。実を言うとウチは、春も秋もお彼岸はスルーしているから、なにをするのか判っていない。上條は、「いえ」と、小さく首を振る。

「ウチは特に、檀家さんの家に伺ってなにかをすることはないんです。簡単に言うと、お墓参りに来てくださった檀家さんごとに法要をしたり、こちらで法要を開いたりするなどして、仏教に関わるお話をするんです。お彼岸を遠慮されている檀家さんが増えてきているので、昔ほどではないんですけど、まぁ、それなりには休みはなくなりますね」

「あの、ウチさ。お彼岸、毎回してないんだけど、お寺さんとしてはどうなの? やっぱりムカついたりする? そのぶん、お布施減っちゃうわけだし」

「ムカつくことはないですよ。ただ、残念だなぁって思うだけで。あ、お布施のことじゃなくてですけど」

「残念? なんで?」

 お布施じゃなくて、なにが残念なんだろう?

「仏教って、いまじゃ葬式仏教という扱いしかされてませんけど、もともとはひとの死だけに関わるものじゃなかったわけで。いろいろな場面で仏の教えに触れていくことは、悪いことじゃないと思うんです。生きていくうえでの指針となる教えもたくさんありますし。お彼岸というのは、葬式仏教のちょうどへりになるんじゃないかなと」

「縁? どういうこと?」

 ちょっと長くなりますけど、と上條は前置きをして続けた。

「お彼岸は、昼と夜の時間が同じ日を真ん中に挟んで前後三日間の合計一週間を指すでしょう? 太陽の沈む西にあると考えられている彼岸は、苦悩から解放された浄土とも考えられていて、……聞いたことありますよね? この彼岸と、此岸しがんが等しくなる時期が、所謂いわゆる〝お彼岸〟と呼ばれる時期なんです。彼岸と此岸が重なるこの時期に、迷いや煩悩から脱却できるよう努力をしてみませんか、というのが〝お彼岸〟だったりするんです」

 シガン?

 初めて聞いた単語を理解しきれてないことが顔に現れていたんだろう。

「此岸とは、こちら側、わたしたちが煩悩にまみれて生きている俗世間のことです。彼岸の『彼』の字に対して、此岸は『此』の字を書くんです」

 テーブルの上に指で『此』の文字を書く上條。なるほど。あちらとこちらってことなのね。それが重なるって考えるなんて、上條もなかなかロマンチストなのかも。

「春と秋と年に二度あるこの機会に、お葬式や年回法要だけじゃない仏教本来の姿に気付いてもらえたらと思うんです。とはいっても、いまはお仕事をされている方が多いので、こちらが一方的に昔のような感覚を求めるのは、酷な気はするんですけど」

「ふぅん。上條くんも、それなりに考えてるのね」

「それなりって、なんスか、それなりって」

 照れを隠すように上條はちょっと拗ねて見せ、ウーロン茶を口に含む。

 今日の上條はシャツにパンツという、ごくごく普通の恰好をしている。頭にはハンチング帽。お坊さんの恰好で来たりして、と期待してたから、現れた姿に内心がっくりしてしまったのは内緒である。目の前にいるのはどこにでもいるような普通の青年で、頭さえ見なければ、このひとがお坊さんだなんて思いづらい。だけど彼のふとした仕草を見ると、その所作はすごく綺麗で、ああ、違う世界のひとなんだなって思えてくる。

「アルコールを飲まないのは、お通夜とかが急に入ったりするからなの?」

 上條は、ひとつ頷く。

「ですね。今日は兄も空いているので枕経まくらぎょうが飛び込んでくることもないとは思うんですけど、さすがに駆けつけた坊さんが酒臭いっていうのは、アレですからね」

「確かにね。引いちゃう。毎日、そういうこと考えてるんだ」

「毎日ってわけじゃないですけど、まぁ、好きで選んだ道ですし」

 すぐにやってきたサラダに箸をのばしながら、なんでもないことのように言う。よく判らないんだけど、お坊さんって修行とか大変ってイメージだし、さらっと言う中にも、きっとすごい苦労とかあったんだろうに。

 あ、でも。

「会社勤めしてるって言ってたけど、お寺って税金かからないんでしょ? お布施とかで丸儲けなんじゃないの? 会社員しなくてもいいんじゃないの?」

 小皿に取ったサラダのプチトマトにシーザードレッシングをかけながら、ストレートに訊いてみる。プチトマトにシーザードレッシングは、わたしのこだわりのひとつだ。

 上條は、あからさまにイヤそうな顔をした。

「ヤですよ、みゃー先輩までそんなこと言うなんて」

「え。なんで?」

 思いもかけない反応に、ちょっと虚を突かれる。

「全ッ然違います。もう、世間みんなそういうふうに誤解してるから、勘弁してもらいたいですよ」

 切々とぼやく上條。プライベートな時間なせいか、お坊さんのときとは喋る雰囲気も違ってる。

 違ってるんだけど、たとえばご飯に箸をつけるとき、両手を合わせて口の中で早口でなにか唱えていたりと、そういう一瞬の仕草が、俗世から離れたところにいるひとなんだって現実を唐突に突きつけてくる。

 なんて言えばいいんだろう。言葉を交わすやりとりなんかは、どこにでもいる若者なんだけど、ふとした瞬間に違う世界が見えてしまう、みたいな。

 不意に向けられる表情なんて、まるで仔犬そのものなんだけど。仔犬……! やだな、自分で言ってツボにはまる。

「ええと、誤解、なわけ?」

 内心を誤魔化すため仔犬に小首を傾げる。

「誤解です思いっきり。そりゃあ、高い外車乗りまわして豪遊してるひともいるけど、そんなの極々一部ですよ。むしろ同業者としてホントにそういうのやめて欲しいです。税金は普通に納めてるし、どの寺もどの宗派も経営が厳しいのが普通です。ウチも、オヤジはさすがにもう違うけど、兄貴も会社員と兼業してるし」

「そうなの?」

 お寺って、どこも檀家からお布施だったり寄付金だったりを巻き上げてるんだとばかり思ってた。言われてみれば、中学時代の上條のトランペット、学校の備品を使ってた。もちろんわたしも自分のホルンじゃなかったけど。

「このご時世、檀家さんも減りつつあるし、檀家数が百行かないようなウチみたいなところは、厳しいんです」

 しみじみと溜息をつく上條。檀家数が百というのは多い気がするけど、お寺さんからすれば溜息モノの数字なのか。

「上條くんが会社員してるのは、そういう事情があるからなの?」

「はい。なんて言いながらも、社会の不条理さを身をもって経験しろっていうのが、オヤジのモットーで必然的に」

「世間の荒波にぶちこまれたと」

「そのとおりです」

 上條は合掌して頭を下げてきた。似合う……、なんかお坊さんがいる。

 つい笑いそうになるのをこらえて訊いた。

「じゃあ、これからも会社員と兼業? していくつもりなんだ」

「うーん、どうでしょう。僕としては、僧侶一本でやってはいきたいんですけど」

「実家のお寺に居続けるっていうのは、次男には難しい、と?」

 テーブルに届いた串カツに手を伸ばしながら訊く。

「ええ。まあ、そんなとこです。どこかのそれなりなお寺さんのところに婿養子に入れば、僧侶だけでなんとかやっていけるとは思うんですけど」

 串カツにかぶりついたところで、一瞬記憶がぽんと飛んだ。

「……。婿入り? するの?」

 背筋がぞくっとした。自分のおかしな感情を押しこめるようにして、口の中のものを呑み込んだ。

「僧侶だけでやっていきたいのなら、そうしていくしかないのかなと。一応僕ももう29だし、いろいろ考えていく時期ではあるよなぁと」

「……」

 テーブルに、頼んでいた料理が次々と運ばれてくる。店員さんから皿を受け取りテーブルに置く上條が、全然知らない赤の他人に見えた。

「―――あ。すみません、みゃー先輩のほうが微妙なお年頃でしたのに」

 上條は呆然と言葉を失ったわたしに、誤解をしたようだった。

 わたしははっとなって、ビールに手を伸ばす。

「それって、彼氏もダンナもいないこと前提の発言よね」

「え? みゃー先輩、もしかして彼氏さんとか……、まさか結婚してるんですか?」

「なんで『もしかして』と『まさか』が付くのよ」

 失敬な。と言いたいけれど、上條の想像は当たっている。

「結婚指輪、してないじゃないですか」

 テーブルの上に乗せてあった左手薬指を指差す上條。

「神主とかお坊さんとかと結婚してるのかもよ?」

「ウチの兄貴、プライベートでは結婚指輪してますよ」

「へ」

 思いもかけない返答に、とぼけた声が漏れてしまう。

 お坊さんが結婚指輪? いいのそれって? 最近のお坊さんって、意外とオンオフの切り替えが淡白にできるものんだ……って言いきってもいいのかしら。

「で。実際のところはどうなんです?」

 食い下がる上條。この流れで誤魔化せるかと思ったんだけど、無理だった。

「ありがたいことに、中学の後輩と飲みに行くくらい『行って来いよ』って言ってくれる優しぃい旦那さまがおりますよ」

「―――」

 空気が凍る音がするのだとしたら、いままさにこの瞬間、ぴしって音がした。

 ひゅっと息を呑んだだけでなく、こぼれ落ちそうなくらいに目を見開いて上條は固まっていた。こんな豪快な反応が返ってくるとは、思わなかった。

「……」

「……」

 さすがに、固まる上條に、罪悪感がじわじわと湧き出てくる。

「……」

 沈黙が、痛い。お坊さんに嘘をつくって、精神的に拷問なのかも。

「……と、言いたいところだけど。ダンナも彼氏も幸か不幸かおりません。そんな暇あったら寝ております」

 どこまで続くか判らなかった沈黙に堪えかねて、早々に白旗をあげた。

 はああぁぁぁぁっ、と、盛大な溜息が、ぐったりと脱力した上條の口から吐き出された。一緒に魂まで出ていっちゃうんじゃないんだろうかってくらい、長い溜息だ。伊達に中学時代、トランペットやってないわね。

 でも。正直、ここまで思いっきり溜息をつかれるのは、癪に障ります。

「どうしてそこまで溜息つかれなきゃならないのかな」

「だって……。みゃー先輩にまで先を越されたのかと思って」

「わたしにまでって……、ていうか先を越されるって、まだ二十代がなに言ってるのよ」

「そうは言いますけど先輩。ここ最近まわりのヤツ、連鎖反応みたいにばたばたと結婚してって、ちょっと焦ってるんですよ」

 訊くと、大学のときの友人だったり修業僧時代の友人だったり、会社の同僚だったりが、今年に入ってから毎月のように結婚していっているのだと言う。

 うわぁ……。

「それはまた……、寿貧乏地獄なわけか……」

 同情の眼差しを禁じ得ない。二十代の終わりがけは、確かにわたしも寿の文字が鬱陶しくなって恨めしく思ったわ。

「ご愁傷さま……」

ふところ的にも気持ち的にも、青色吐息ですよ」

 と呟いた上條の手が、串カツに伸びた。大きな口が、それを食んでゆく。

「……。いまさらなこと言うけど、お店、ここにしちゃって良かった?」

「? なんでですか?」

 不思議そうな顔が返ってくる。

「なんでって、それ串カツだし。お肉とか食べて大丈夫だった? お坊さんは精進料理しか食べちゃダメなんじゃないの?」

 このお店を選んだのはわたしだ。仕事帰りによく職場のみんなと繰り出す居酒屋だった。居酒屋にしたと伝えたとき上條はなにも言わなかったけど、もしかしたらヤバかったのかもしれない。

 わたしの心配をよそに、上條はすっと澄んだ空気を纏う。

「植物であろうと動物であろうと、みな等しく命を持ってます。料理として出されたものを残さずありがたく頂く。この心持ちが大切なんです」

 わたしは、小皿に取り分けたままのサラダに目を落とす。

「つまり。ええと、野菜であっても、動物と同じ命であることに変わりはない、と」

「はい」

「だから、お肉もOK、と」

 がく、と、上條の肩が落ちる。

「誤解を生みそうな接続詞使わないでくださいよ。野菜を口にするのもお肉を口にするのも、同じだけの重さをはらんでいる、ということで」

「命は等しいから……?」

「はい」

 うぅむ。詭弁に丸め込まれているような気がしないでもないけど、高校のときに習った『生物せいぶつ』では、植物も動物も一緒に含まれてはいた。

 そういうことなんだろうか。

「完全なベジタリアンである必要はないということです。もちろん、宗派によっては違ってくるでしょうけど、少なくともウチでは、お野菜とお肉は同列に位置付けています。もちろん、食べる側のわたしたちと食べられる側も対等です。残すということは、食されるために差し出された命に対して失礼に当たります。残さずこれらの命を頂くことは、とても大切なことなんです」

 そう語る上條の眼差しはすごく深くて、話す声は柔らかで、聖職者としては言い訳にも取られかねない微妙な内容ではあっても、抵抗なくするりと胸に落ちてゆく。

 言われてみると、上條の食べ方はとても綺麗で、サラダの小皿を見てもドレッシングの汚れはほとんどない。出される料理に対して、まるで畏敬の念を抱いているかのよう。

「ご飯を残さず食べましょうっていうのは、考えてみたら昔から言われてたことよね」

「ですね」

 普通の顔をして、上條はそれを実践しているのか。

「だから、お肉もお魚もOKってことなのね」

「……なんかその言い方って語弊があるというか」

「深い意味はないのよ? 美味しいものを美味しく全部食べるってのは、食の基本よ。というわけで、上條くんがお肉食べられることを祝して、乾杯! ……ほら。乾杯しよ」

 残りが少なくなったジョッキを掲げ、上條のグラスに軽く当てる。

「はいはい、乾杯。……って、みゃー先輩、もしかしてもう酔ってるんですか?」

「なに言うの。生中一杯で酔うわけないでしょ、まだまだこれからよ」

 小さく上條を睨んでから、追加の注文をするために呼び出しボタンを押す。

 じっと、上條がこっちを見ている。

「……。なに?」

「いや。なんか、みゃー先輩」

「ハイ! お呼びでしょうか?」

「あ……、ジントニック、お願いします」

 丁度のところで店員さんがやって来たものだから、気にはなるものの注文をする。

「上條くんは? なに頼む?」

「え。えぇと、枝豆春巻きと、揚げ餃子を」

「かしこまりました」

 端末にぴぴっと入力を終えると、店員さんはにっこり笑顔を残して奥へと消えていった。

 ―――のを見はからい、ばっと上條に向き直る。

「わたしがなにって?」

「え。あぁ、あの。みゃー先輩、貫禄出たなぁと思いまして」

「……。それって、横方向にってこと? それとも態度的にってこと?」

「う。―――こ、後者、です……」

 自分で言って失言って気付いたんだろうな。「やべ」って感じに、上條の目元が引きった。ものすごく僅かに、一瞬だけど。

「そりゃあ9年看護師してるんだもの、貫禄くらいついてくれないと逆にまずいでしょう。上條は、いつからお坊さんしてたの?」

「26でウチの寺に戻ってきたから、四年目ですか」

「? 戻ってきた? どこから?」

僧堂そうどうで修行してたんです。大学出てすぐに」

 串カツの残りを食べつつ上條。

 また知らない単語が来たよ。

「ソウドウ」

「僧侶の僧にお堂の堂で僧堂です。住職になるために修行をするお寺って言えばいいのかな」

「え。お坊さんって、自動的に住職になれるとかじゃないの?」

 自分で言いながらも、お坊さんと住職の違いが判らない。そもそも、違いなんてのがあるの?

「みゃー先輩、眉間にしわ寄ってます」

 わたしの顔の真ん中を指差して、上條はくすりと笑みをこぼした。

「だって。お坊さんとか住職とか、同じような言葉でよく判らなくなってきちゃったんだもん」

「やめましょうか? 僧侶のこと聞いたって、小難しくなるだけでしょうし」

「うぅぅ。なんかここで有耶無耶にするのは悔しい気がする」

 自分の知らない世界が目の前に開けていて、なのにそこに足を踏み入れるだけの準備ができてなくて、泣く泣くきびすを返して背を向ける冒険者の気分。それが上條の職業に関わっているんだからなおのこと。先輩としての矜持が、放り投げるのを思いとどまらせようとしている。

 お待たせいたしましたと、ジントニックが運ばれてくる。

 少しだけ残っていたビールを飲み干して、ジントニックと入れ替えるように店員さんに空のジョッキを渡す。

 考えよう。ひとつひとつ考えていけばいいんだ。

 ジントニックの甘さを喉に流しながら、住職とはなんぞやと頭の中で分解させてゆく。

 住職……。お寺にいるひと……お坊さん。

 住職のイメージとしては、おじいちゃんってのがある。で、上條は副住職だって言ってた。副、って付くんだから、普通は住職よりも格は下よね。

 じゃあ、某公共放送が大晦日の夜遅くに毎年流しているゆく年くる年とかに出てくるお坊さんたちはどうなんだろう。みんな住職や副住職の肩書を持ってるんだろうか。

 平社員みたいなお坊さんがいてもいい気はするけど。

 あ、でも、さっき上條自分のこと『使いっ走りだ』って言ってたから、やっぱりみんな副住職なのかな。使いっ走りな副住職から住職になるために、僧堂に修行に行く、とか……?

「僧侶には、得度とくどを受ければ誰でもなれるんです。出家、ですね」

 ジントニックのグラスを摑んだままじっとそれを睨み据えていたわたしに、優しく説く声がかかった。

「得度」

 うん。これは聞いたことがある。何年か前、有名タレントがどっかのお寺で得度を受けたってテレビで言ってた。

「ですが、得度を受けただけでは住職にはなれません。しかるべき修業を経て、住職となるんです」

「その修行をする場所が、僧堂?」

「ええ。ですけど誰もが皆、住職となる必要はないんです。お寺を継ぐ必要がなければ、僧堂に行く必要もない」

「お寺を継いでいるひとのことを、住職って言うのね?」

「そうです。僕は小学校のときに得度は受けてたんで、本来だったらわざわざ僧堂に行かなくてもよかったんです。ウチを継ぐのは兄貴だから」

「うん」

 確か、上條のお兄さんは六歳くらい年上だったはず。

「ですけど僕は、なんて言えばいいのかな、仏の教えにもっと浸りたかった。ちょっとキザな言い方をすれば、この世界を仏の眼で見てみたいと思ったんです。もちろん住職になる必要はないんですけど、道を、しっかりと歩いてみたいというか」

「……」

 仏の眼。道を歩く。

 そんなことを真面目な顔して言う人間に、初めて会った。

 だけど、全然、おかしいって感じない。

 すごく、新鮮に感じる。

 お坊さんって、当たり前だけどお葬式でお経を唱えるだけじゃないんだ。

 仏の眼。

 仏の教え。

 彼岸は葬式仏教のへりであると言う、さっきの上條の言葉がよみがえってくる。

 そうよね。小学校のときに読んだ漫画の内容がかすかに残っているだけでしかないんだけど、御釈迦さまは生老病死を四つの門で見てなんとかかんとかってあった。

 仏教は、お葬式だけじゃないんだ。

 なんか。

 目からウロコが落ちていく気がする。目からウロコって、聖書の言葉だったと思うけど。

「ちょ。ドン引きしないでくださいよ」

 恥ずかしそうに片手で顔を覆う上條。大きな手。指が長い。あれでいつも合掌をしてるんだ。

 テーブルに、上條が頼んだものが運ばれてきた。

 照れを誤魔化すかのように、少し荒れたその手がお皿を真ん中へと持ってくる。

「ドン引きなんて。すごいって感じ入って。そうだよなって。仏教って、お葬式だけかと思ってたけどそうじゃないんだよなって」

 頭の中に手を突っ込まれて、一番奥底にある芯を引っ繰り返された思いだった。

 上條、すごいよ。

 仏の眼で世界を見ていくだなんて。

 わたしよりも年下なのに、わたしとは違うものを見ているんだ。

 素直に感動に浸っていると、上條は小さく笑みを浮かべた。

「……ありがとうございます。そんなわけで僕は、仏の道を知りたくて、修行してたんです。両親にはそれだけ負担をかけさせてしまいましたけど」

「修行って、すごく厳しいんでしょ? いつから僧堂に行ってたの?」

 揚げ餃子を小皿には取ったものの、まだ熱いからということもあって、箸をつけずに続けて訊く。

「大学出てすぐにです。軍隊並みに厳しいって言われますけど、それが修行なわけですし」

 ぼんやりとだけど噂で聞いたことある。どこかの有名なお寺では、体罰とかも平気であるって。上條の言う僧堂のことなのかは判らないんだけど。

「なんて偉そうなこと言ってますけど、正直入って数ヵ月は生きる屍状態で打ちのめされてましたけどね。ですけど、そこで見えてきたものは大きかったんで、いま思えば行ってよかったって強く感じます」

「のど元過ぎたし?」

「ですね」

 からりと表情を変えて笑む上條。『のど元過ぎれば、艱難辛苦かんなんしんく も糧になる』っていうのは、吹奏楽の顧問の口癖だった。

「懐かしいですね、ハヤカワ」

 例の口癖の持ち主の名が、早川という。数学の先生だ。当時四十代くらいだったから、きっともう定年したあたりだろうか。

「元気なのかな。いまでもなにかにつけて『のど元過ぎれば』って言ってるのかな。あ、そういえばこの前、ウチの病院で田島先生を見かけたよ」

「田島……、ああ、国語の?」

「うん。娘さんが出産したとかで、お見舞いに来てた」

「え。あの先生、そんな若い娘さんがいたんですか?」

 上條が驚くのも無理もない。わたしだって話を聞いてすごくびっくりしたもの。

 田島先生というのは、当時もうすぐ定年かというくらいの年齢の先生だった。病院の廊下で偶然すれ違って、お互いに「おお!」と中学時代の記憶がよみがえって話を少ししたんだけど、娘さんというのは再婚してできた娘さんらしい。

「再婚ですか。じゃああのとき小さい娘さんがいたってことなんですね」

「傍から見たら、おじいちゃんと孫よね」

「ただでさえ老けてましたもんね、田島先生って」

 くつくつと思い出して笑う上條。田島先生のバーコード頭は、本人には悪いけど失笑の嵐だったのだ。

「いまは、年相応って感じになってた。バーコードできないくらいに」

「って、普通にがっつりおじいちゃんってことじゃないですか。―――みゃー先輩はどうして看護師になろうって思ったんです? 数学全然ダメだったのに」

 追加注文を考えているのか、メニューを手に取りながら上條はさらっと訊いてきた。

「んー。高校のときに父親が病気になって、っていうよくあるパターン」

「あ……」

 施食会にひとりで出席していたこと、お墓に手を合わせていたのも見られていたから、それだけで察したのだろう。もしかすると、ウチの住職に話を聞かされたのかもしれない。

「数学が致命的だったからお医者さんにはなれなくて。って、どっちにしても経済的に無理なんだけどね」

「おつらかったですね」

 しみじみと言葉を落とす上條。

「上條。お坊さんのコメントになってる」

 親が亡くなってもう何年も経っているから、悲しい気持ちに打ちひしがれる時期は過ぎてしまっている。それがいいことなのか悪いことなのかまでは判らないけれど。

「あ。すみません、思わず」

「ふふ。そんな感じだった。で、次はなに頼む?」

 湿っぽくなりそうな空気をさっと払って、上條の広げたメニューに目を落とす。

 本当は、絶望的に孤独な自分の状況を見たくないだけなのかもしれない。だから、両親の話題を早く切り上げたいのかもしれない。

 そう思う一方で、お坊さんの上條なら、もしかすると気持ちの奥底にある虚しさを判ってくれるかもしれない。そう感じてもいる。そんな自分と向き合いたくなくて、だから、―――だからわたしは、なんでもないことのようにメニューを選んでゆくのだった。



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