第3話
土曜日の午後、音楽スタジオで、裕一は自分のエレキ・ギターのチューニングを終えて、簡単なフレーズを弾き始めた。岡田太郎はドラムで一通りのリズムパターンを弾いていた。佐川正は入念にエレキ・ベースのチューニングをしていた。青山亜香里はアンプから出力されるキーボードからの音量を調整した後、得意なフレーズを弾き始めた。
「じゃ、みんないいかな」
裕一は演奏をやめて仲間に向かって声をかけた。
裕一の声が聞こえると他の3人は一斉に演奏をやめた。
「前回配った『きみへの思い』のバンドスコアだけど、間奏の部分を書き換えてきたんだ。前のスコアで練習してきたと思うんだけれど。最近思いがけなくクラシックのコンサートに行って、とても感動した曲があってね。どうしても今回取り入れたくなって書き換えてきたんだ。まず見てくれない?」
他の3人にそれぞれのパートの楽譜を渡しながら裕一は言った。
「わあ、こういう楽譜を見ると学生の時、クラシックのヴァイオリンソロの伴奏をしたことがあるから、そのときのことを思い出すわ」
渡された楽譜を見ながら亜香里が言った。
「ジャズのフレーズみたいだね」
譜面台に譜面を置いて、ベース・ギターで最初のフレーズを弾いた後、正は言った。
彼らはしばらくの間間奏の部分をそれぞれ練習していた。
他の3人がフレーズをほぼ覚えたのをそれとなく感じた裕一は言った。
「それじゃ合わせてみるよ。いいかな?」
裕一のオリジナル曲『君への思い』は裕一のアカペラから始まる。裕一のアカペラの歌声に、正のベース・ギターの音が静かに加わっていく。Aメロが終わってBメロに入ると同時に亜香里のキーボードの演奏が加わっていった。サビの部分で太郎のドラムが加わった。サビが終わって裕一のギターで間奏が始まった。間奏の中間部分で裕一のギターのみの演奏となった。裕一がイメージしているものは、最近コンサートで聴いた無伴奏ヴァイオリンソロの演奏、バッハの『パルティータ』であった。裕一は自分だけの演奏になった瞬間、エフェクターのペダルを踏んで、すでにインプットしておいた音源、限りなくヴァイオリンの音質に近づけた音源を呼び出して演奏した。裕一の右脳の中ではパルティータを奏でるヴァイオリンの響きが、完全な形で再現されていた。裕一の左脳はその響きを極限に近い形で、ギターで再現しようとした。間奏の後サビが始まり、AメロBメロと続きAメロで曲は終わった。
「裕一のロックなオリジナルの曲が、間奏の途中でクラッシクのヴァイオリンのソロ曲に聞こえたけど・・・何かすごくクールだったわ」
キーボードで間奏の出だしの部分を少し弾いてから亜香里が言った。
「ジャズバンドでウッドベースを弾いていた時のことだけど、バッハの『G線上のアリア』のアレンジで弾いたフレーズを思い出すよ」
正はその時のフレーズを思い出したように、触りだけ弾きながら言った。
「とうとうライブは一週間後になってしまったけど、平日の夜に何回か練習したいと思うんだけど大丈夫かな?」
アンプのボリュームをゼロにして、スイッチを切ったあと裕一が言った。
「あたしは店長に辞表を叩きつけて、今失業中だから毎日でも大丈夫よ」
電源を切ってジャックを抜いたキーボードに、カバーを被せながら亜香里が言った。
「僕は一週間ずっと午後有給休暇にしたから大丈夫だよ」
ドラムをケースに収めながら太郎が言った。
「僕は微妙だけれど、頑張ってみんなに合わせるよ」
エレキ・ベースを仕舞ったソフトケースを、肩に掛けながら正が言った。
「最後に今録音した『君への思い』を聞いて終わりにしようか」
裕一はオーディオのレコーダーのプレイボタンを押した。スピーカーから裕一のアカペラの歌声が聞こえてきた。正のベース・ギターの音が静かに加わっていく。太郎のドラムの音が曲を盛り上げていった。
太陽が月の光に気づかないように
僕の輝きに気づいてくれない
青空が無数の星のきらめきに気づかないように
僕の差し出す宝石に気づいてくれない
刻んだ時が
海辺の砂だったとしても
君の心には
何も残らなかった
一瞬だけでいい
君の存在を感じていたい
一瞬だけでいい
君の指に触れていたい
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