天からの贈り物

振矢瑠以洲

第1話

 会場はほとんど満席に近い程人々でうめつくされていた。僕たちが住んでいる街からそう遠くない所に、これほどすばらしい音楽ホールがあることに、今まで気がつか なかったことはあまりにも不思議なことに思えた。このホールは、可成り有名な建築家が関わっているらしく、とても斬新なデザインであった。奇抜な天井と壁のデザインにもかかわらず音響効果にすぐれているホールであるらしい。最近読んだ音楽雑誌や建築関係の雑誌で評論家たちが称賛しているのを読んだことがある。

 ホールの何とも言えぬ雰囲気に酔い痴れている間に、時間は過ぎてしまったらしく演奏開始の時間となっていた。拍手の音と共に一人の青年がステージに姿を現した。あつらえたばかりのダークスーツをまとって、観客に向かって深々とおじぎをした。やがて拍手が止むとすぐにピアノの椅子に腰掛けた。

 椅子に腰掛けるとすぐに彼の両手が、ピアノの鍵盤の上で水を得た魚のように軽快に動き始めた。ショパンのバラード一番の曲がホール全体に響きわたった。観客全員がスタインウェイのピアノから流れてくる音楽に、吸い寄せられていくのを感じることができる。曲の中間部にきたとき、観客全員が、彼が創造したショパンの世界へと引きずり込まれているのを感じることが出来た。ショパンのバラード一番という難解な曲を楽譜通り弾くことは全く問題ではなかった。彼は楽譜からショパンの意図することを読みとることができ、ショパンと会話することができた。ショパンがその中で到達することが出来なかった世界を一瞬だけ垣間見ることが出来て、それをあたかも永遠につなぐかのような世界を創り出していた。この世界の中で演じられていたバラード一番は、まるで別の曲であるかのように新鮮に響いていた。曲が終わりに近づいたとき、観客はこの永遠のような時間の中にいつまでもとどまっていたいと思うのであった。

 曲が終わったとき観客の誰もが、バラード一番という長い一曲があっというまに終わってしまったように感じるのであった。しかし、同時に永遠とも思えるような時間の中にいたというような、不思議な余韻に浸っているのであった。

 今まで聞いたこともないようなものすごい拍手の音が、会場全体に響きわたっていた。すでに立ち上がっていた彼は観客に向かって深々とおじぎをしていた。

 彼は僕が世界で一番尊敬している兄の城泉響太郎である。彼と僕は二人だけの兄弟であるが、彼と僕は小さい時から可成り違っていた。兄は多くの面で僕よりも秀でていた。僕たちの両親は同じ音大で出会ったのであるが4年生の時に限界を感じて二人ともプロの音楽家の道を諦めてしまった。二人とも小中の教員試験を受けて教員として生計を立てていくことに決めたのである。しかし、彼らの音楽への夢と情熱は消えることはなかった。兄の響太郎とその弟である僕、恵太郎へと向けられたのである。彼らは僕たちをプロのピアニストにさせようと思ったらしく、物心ついた頃から何人かのプロのピアニストにレッスンを受けさせた。ピアノのレッスンの世界でも相性というのがあるらしく、可能な限り出来るだけ多くのピアニストからレッスンを受けさせ、相性のいい教師を探していたらしいのである。さて、いざレッスンが始まってみると、どの教師とも兄は相性が合っていたのである。さほど名の知れていないピアニストであってもやはりプロともなれば、何か一つでも人並み以上のその人にしかないものを持っているらしい。兄の吸収力というものは凄いものであり、それらを事ごとく吸収してしまうのである。このような生徒に出会った教師は大変である。自分の持っている能力以上のものを発揮するのである。しかし、僕はといえば、全く別次元である。なにしろ楽譜通りに弾けないのである。いくら練習してもダメなのである。このような生徒に出会った教師は悲惨である。真面目な教師は却って自信を失ってしまうのである。小さい時から何事においても兄の方が僕より優れていた。音楽以外のどの教科においても兄は優秀な成績を収めていた。そのため彼は県で1,2位を争う進学校へと進学した。自宅から電車通学で少々時間がかかるので、初めはあまり乗り気ではなかったが中学の教師や両親からの強い勧めに根負けして渋々ながら受検することとなった。後で聞いた話であるが兄はトップで合格したらしい。僕は地元の高校を受験した。その高校は地元でも人気がなく毎年定員割れになることが当たり前となっていた。僕の住む町で唯一の高校であるのだが地元の中学の受検希望者が毎年減っているという。でも僕はこの高校でも合格率が50%くらいだと言われていた。そのため合格した時はとても嬉しかった。

 いつの間にか兄は残りの数曲を弾き終えていた。会場が割れんばかりの激しい拍手の音と歓声によって僕は我に返った。一瞬真っ白になったような感じでまわりを見まわした。観客は後から後から立ち上がって拍手をしていた。僕の右隣に座っていた両親も立ち上がっていた。二人とも涙ぐんでいた。拍手と歓声はいつまでも止むことがなかった。

 兄は今年、高校生音楽コンクール全国大会のピアノ部門で優勝した。それを記念してのコンサートが僕たちの住む町で企画された。チャリティコンサートということでチケットが販売されたが瞬く間に完売してしまったという。幸い僕と両親は家族ということで前もってチケットを渡されていた。兄は当初芸大へ進学することを考えていたが、そこで勉強するべきことは何もないと言われていた。なにしろ芸大からピアノのレッスンをするために来ていたすべての教師からすべてのものを吸収してしまっていたのでそこへ進学する意味がないと言われていた。そのためオーストリアかドイツの音楽学校に留学することを考えていた。でもそれは技術を修得するためではなく人間関係を築くためであったという。

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