第40話 戻ってきた帽子
「アブソレム!やっぱり顔にかけるのはやりすぎだったんじゃない?治せないの?」
アブソレムは話に加わらず、大きめの岩をテーブルにして飄々と何かを調合している。
「まあ待て。これから湖に入ればミントは流れるだろう」
「えっ?湖に入るの?」
もう入っても大丈夫なのだろうか。
わたしはじっと湖のほとりで佇んでいるルサールカを盗み見る。
風もないのに髪が美しくふわふわと漂っていて、体から発光しているのかと思うほど輝いている。
「もうルサールカは人を襲わない。だから潜って、底にいる人たちを助けてくる。この中で泳ぎができて、まだ体力のあるものはいるか」
アブソレムの問いかけに、ほとんどの兵士が立ち上がって近づいてきた。
「底にいるのは仲間だ。俺たちにやらせてくれ」
「泳ぎは得意だ」
皆口々に話しながら、アブソレムの指示の通りに鎧や靴を脱いでいく。
「あ、靴だけはその辺に固めておいてくれ」
「なんで?」
不思議な指示に、つい口を出してしまう。
「もしレプラコーンがいたら、靴を持っていかれる」
それだけ言うと兵士を引き連れて湖のほうへスタスタと進んで行ってしまった。
わたしは仕方なく、あとで詳しく教えてもらおうとメモを取るためにポケットからノートとペンを取り出す。
「あら?」
服がこれだけボロボロなのでノートが無事か不安だったが、どこにも傷や汚れがついていなかった。
不思議に思ってひっくり返してしげしげ眺めていると、横からトーマがじっとノートを見つめているのに気がついた。
「トーマ?」
「あっ、ごめん。じろじろ見て」
「いいけど、どうしたの?このノートが珍しい?」
ノートの表紙がよく見えるように胸の前で持つ。
「うん。すごい保護魔術がかかっているなと思って」
「保護魔術?」
そんなものがかかっていたのか。
そういえばノートの中身だけに気を取られていて、表紙をじっくり見たことはなかった。
柔らかい黒い革が貼られている、厚めのノートだ。
革には細い銀の糸で上部と下部だけにライン状に刺繍が施してある。
ところどころにものすごく小さいビーズのようなものが縫いこまれていた。
「なにか刺繍してあるわね?全く気がつかなかったわ」
「あれだけよく開いていて気がつかなかったの?」
トーマは呆れと驚きの中間のような声をあげた。
「だってほら、開いてしまうと外側は見られないでしょ?」
わたしは焦って言い訳をする。
トーマはフフッと笑ってノートの刺繍を指差した。
「ほらこれ、小さな色のついたガラス玉があるだろ。これに加護が込められているんだ」
よくよく見ると、ビーズは確かに5色使われている。
「僕が見て加護がわかるのは水色のクロス派のガラス玉だけだけど、きっと他の石にも各加護が込められているんじゃないかな」
「へえ、そうなのね。これって魔石とは違うもの?」
「うん。僕が見て5色全部の色がわかるから、魔石ではなくガラス玉だね。加工する時に加護を込めているんだろう」
わたしはノートを顔の高さに持ち上げてみる。
そんなすごいものだったなんて知らなかった。
保護魔術で劣化しないようになっているとは安心だ。大切に使おう。
わたしは「レプラコーン」とメモするためにノートを開く。
「多分1冊金貨3枚くらいするんじゃないかなぁ」
「き、金貨3枚!?」
トーマが何気無く付け加えた一言に、わたしは驚きすぎて叫んでしまった。
金貨1枚が確か日本円で10万円くらいだ。
ということは、これは1冊30万円?
安い中古車が買えるわ。
わたしが目を剥いてノートを見つめているのを見て、トーマが笑い出した。
「全加護の保護呪文という言い方ではピンと来てなかったのに、お金に換算すると分かるんだね」
アッハッハ、と笑いながら湖のほうへ歩いていくトーマを、わたしはノートをポカンと見つめたままフラフラと追いかけた。
湖のほとりにはアブソレムが立っており、兵士たちはたった今ザブザブと中に潜っていくところだった。
リュドやアルの姿もある。
泳げないらしい何人かの兵士は、底にいる人たちを受け取る係になったらしく、湖に足首だけ浸かる位置で待機していた。
「アブソレム!このノート、すごく高いらしいじゃない!」
わたしが着くなりそう言うと、アブソレムは眉をひそめてチラリとこちらを見た。
「君はいつも突拍子も無いことを言う」
「今、トーマに聞いたのよ!」
そう言ってトーマのほうを振り返ると、彼は手首のボタンを外しているところだった。
湖に入る気でいるらしい。
「トーマ。君は入ってはいけない」
アブソレムが止める。
「どうして?泳ぎは得意だよ」
「だめだ、出血があるものは入れない。湖には血の匂いで寄ってくる妖魔がいる」
それを聞いて、わたしとトーマはピタリと動きを止める。
「……それ、潜った人たちには伝えたの?」
「伝えたら誰も潜らなくなるではないか」
アブソレムの言葉に、わたしたちは青い顔を見合わせた。
泳げる兵士たちが皆湖の中に潜り見えなくなって、がやがやと騒がしかった森の中はしばしの間静けさを取り戻していた。
湖の淵にいるのはわたしとアブソレム、トーマ、そして少し離れたところに数名の泳げない兵士たち。それからずっと向こうの岩の上で、どこか遠くを見ているルサールカだけだった。
相変わらず森の中はシンとしていたが、たまに葉擦れの音や、何か小動物が枝を踏む音が聞こえた。先ほどまでは全くなかった、生き物の気配がそこここにあった。
「なんだか森が……変わったわね?」
わたしがアブソレムに向けてそう言うと、彼は少し頷いて「そのようだな」と返した。
「君たちがケルピーを凍らせたからだ。ケルピーは水を操る。そのせいで森中異常に湿度が高く、生き物が動けなかったんだろう」
そういうことか。
わたしはべたべたとまとわりつく不快感が、森に入った時よりもずっと減っていることに気がついた。
息苦しさもない。
ふと森を振り返ると、ザアッと向かい風が吹いた。風が戻ってきたらしい。
「今回のことは、ケルピーがいると予測できなかった、私の責任だ。申し訳なかった」
ふとアブソレムが独り言のように呟いた。
その目は湖に向けられていて、私とトーマのどちらに話しているのかわからない。
「いや、アブソレムのせいじゃないでしょう」
「そうだよ、君のせいじゃない」
トーマと声を揃えてそう断言する。
アブソレムは口元だけで少し微笑んで見せた。
「それに、君はアリスに、万が一凍ってしまっても助けると言っていたんだろ?僕らがその助言にどれだけ助……」
わたしはトーマの口を慌てて両手で押さえた。
頼むから、余計なことを言わないで!
「……なんだって?」
案の定、アブソレムが眉をピクリと上げて反応した。
わたしに口を押さえられているトーマも、信じられないとでも言いたげに目を見開いてこちらを凝視している。
わたしは諦めて、口を押さえている手をそろそろと下ろす。
下ろしかけたその手を掴んで、トーマが半ば怒鳴るように詰問した。
「アリス!君、もし凍ってしまってもアブソレムが助けるから大丈夫って、そう言ったよね!?」
「うう……」
普段温厚なトーマの剣幕に、わたしは叱られている犬のように縮こまった。
「そんなこと、言った覚えは一切ない」
アブソレムが追い打ちをかける。
「ええと……。あの時はそうするしかなかったのよ」
歯切れ悪く弁解すると、トーマとアブソレムは全く同じ仕草で盛大にため息をついた。
このふたり、意外と根っこは似ているのかもしれない。
「いいか。凍った人間は普通助けられない」
「そうだよ!アルの魔石を貰っていなかったら、どうなっていたか……!」
交互に注意され、わたしはどんどんと肩身が狭くなっていった。
少し離れたところにいる兵士たちが、何事かとこちらを覗き込んでいる。
「アルの魔石?そういえば、その話はまだ詳しく聞いていないな」
アブソレムがトーマに話しかける。
わたしはうまく話を逸らせそうで、ホッと胸をなでおろした。
「アリスはアルにもらった魔石を持っていて、それに助けられて氷から飛び出してきたんだ」
「アルにもらった魔石?見せてみなさい」
アブソレムの差し出した手に、半分に割れた緑色の魔石をポケットから取り出して乗せる。
彼はそれを摘み上げると、目を細くして月に照らし眺めた。
魔石は月の光を通してチラチラと光っている。
「ああ、なるほど。君の無事を祈る加護がかけられていたんだな」
「そうなの?」
わかった途端に興味をなくしたようで、フイと返してくれた魔石を両手で受け取り、またポケットへしまう。
「持って帰るのか?一度で加護は消える。それはもうただの石と同じだ」
「うーん。でもアルが加護をくれて、窮地を助けてくれた大事な石だから。部屋にでも飾るわ」
そう笑うと、そんなものか、とどうでもよさそうに返された。
「それでいちいち飾っていたら、どれだけ広い机でもそのうち足りなくなる」
「別にいいのよ。うるさいわね」
わたしたちが軽口を言い合っているのをトーマは何か言いたげな顔で黙って眺めていたが、ふと気がついたように声をあげた。
「あれ?アリス、帽子は?」
「えっ?」
パッと頭を触る。
確かにそこには帽子は乗っていない。
「大変!どこかに落としてしまったみたいだわ」
慌てて拾いに森に向かおうとするのを、アブソレムに止められた。
「探してやるから、ここにいなさい」
「でも、どこに落としたのか……。ケルピーが出る前までは、確かに被っていた気がするけど」
アブソレムは何も答えず、魔石袋から風の魔石を取り出す。
「いいから見ていなさい。君の周りには異常にトラブルが多いから、魔石の使い方をできるだけ目で見て、早く覚えたほうがいい」
魔石を軽く握った手を肩くらいの高さにあげて、小さな声で囁いた。
「風。アリスの帽子を探しなさい」
魔石はパキンと小さな乾いた音を出して割れ、そこから柔らかな透けた緑色の光が這い出るように溢れてきた。
ちょうどドライアイスから出る冷気のような動きだ。
光は途切れることなくどんどんと溢れでてくる。
まっすぐ森の中へ向かい、木々の間を縫うように進んでいた。
息を止めて光の行き先を見つめていると、ある瞬間から徐々に戻ってきていることに気がついた。
今度は弱い掃除機に吸い込まれているように、するすると魔石を持つアブソレムの手の中に光が戻って消えていく。
「どうやら見つけたようだな」
森の中から最後の光が戻ってきた時、その上には帽子が乗っていた。
「わあ、わたしの帽子!」
光に駆け寄って、帽子を受け取り傷がないかよく確認する。
早い段階で落ちたらしく、傷一つついていなかった。
「ありがとう、アブソレム!加護ってこんな風にも使えるのね」
「うん、やっぱり年季が違うな。アリスはもっと、風!とか火よ!って、叫んでいたもんね?」
トーマがからかうので、わたしは軽く睨みつける。
「要はイメージだ。これから色々と見て学んでいけば、もっとうまく使えるようになる。私だけでなく、色々な人が加護を使う場面をよく見て覚えていきなさい」
アブソレムの言葉に、わたしは帽子を抱きしめたままにっこり笑って勢いよく頷いた。
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