第18話 池のほとりの東屋
食堂のドアの前の廊下に、マーサはポツンと立っていた。
「あら?入らないんですか?」
わたしが聞いても、微笑むだけで何も言わない。
ドアを背にして立っているから、もしかしたら誰も入らないように見張っているのかもしれない。わたしが近づくと、マーサは何も言わないままスッと一歩下がった。
マーサを気にしつつも、食堂のドアを開けて中に入る。
そこにはすでに誰もおらず、庭へ通じる扉が開けっ放しになっている。
「アブソレム?」
わたしは声をかけながら庭へ出た。
真昼の太陽が庭一面を明るく照らしている。季節は春だとはいえ、日向にいると少し暑く感じるほどだ。
庭は相変わらず入り組んでいて、木々や蔓が邪魔をして視界が悪い。
少し歩いて探していると、池のほとりの小さな東屋にふたりを見つけた。
昨夜、アルと妖精を呼び出したオルダーの木の、池を挟んでちょうど反対側だ。
「アブソレム」
わたしが近くまで行って声をかけると、アブソレムが手招きをした。
こちらに来いということか。
東屋とこちら側の間には湖から水が引いてある畑が広がっていて、飛び越えらないこともないが少し濡れてしまいそうだ。
どうしようかとウロウロしていると、アブソレムが東屋の奥を指差した。
どうやらぐるりと回れば向こう側に渡れるらしい。
わたしは回り道しようと振り返り、何気なく足元の畑を見る。
するとそこには信じられない光景が広がっていた。
「きゃあああ!」
あまりの衝撃に叫ぶと、東屋にいるアブソレムが血相を変えて立ち上がり、畑を飛び越えた。
「一体どうした!?」
彼はわたしの肩を掴んで聞いた。青い顔をして焦っている。
「こ……これ、ワサビじゃない!?」
わたしの言葉が予想外だったようで、アブソレムは見たこともない顔になった。
この人、こんなポカンとすることもあるのか。
「これ、ワサビよね!?ワサビだ!まさかワサビがあるだなんて!」
興奮してわたしはワサビ畑に座り込む。スカートが濡れるがお構いなしだ。
「これ、今夜のお肉と一緒に食べましょう!!」
ワサビをひとつ畑から引っこ抜き、嬉しさのあまり高々と上げた。
ずっとパンとチーズだったもの!
ワサビがあれば、ずっと幅が広がるわよ!
わたしが希望に満ち溢れていると、アブソレムの呆れ返った顔が視界の端に入り、ハッと気がついた。
アブソレム、服がびしょびしょじゃない。
「……アリス」
わたしの肩を掴んでいる彼の手がワナワナ震え出して、やっと自分がしでかしたことに気がついた。
「ご、ごめんなさい……。わたし、ワサビを見つけて嬉しくて……」
ああもう、怒られる。そう思った瞬間、東屋のほうから大きな笑い声が聞こえた。
「あっはっはっは、アブソレム、君!びしょ濡れではないか!」
声の方を見ると、トーマがお腹を抱えて大笑いしている。
ベンチの前に立っているところを見ると、トーマもわたしの叫び声に反応して立ち上がっていたらしい。
「トーマ、笑い事ではない」
トーマの笑い声に、怒る気が失せたらしい。
アブソレムは服の裾を軽く絞りながら東屋のほうへ歩き出した。
わたしもワサビを大事に持ったまま、後ろについていく。
東屋はそこまで大きなものではなかった。
全て薄い色の木で作られていて、屋根には何種類かの蔦が張っている。
敷地は正方形で、屋根は三角だ。なんとなく、絵本に出てきそうな見た目だと思った。
向かい合わせにベンチが作り付けてあり、中央には小さなテーブルがあった。
壁はなく柱だけで、中に入ると風が通って気持ちがいい。
少し小高いところにあるせいだろう。見渡しも良いみたいだ。
「いやあ、あんなに慌てる君が見られるなんて、今日はいい日だよ」
トーマは笑い終えたようだ。笑いすぎて目元に浮かんだ涙を指でぬぐっている。
片方のベンチの真ん中に、足を組んで掛けていた。
さきほどの店内とは全く別人に見えるほど、リラックスしているようだ。
「うるさい」
アブソレムがトーマの向かいに座った。
ただの不機嫌に見えるが、ちょっと照れている気もする。
わたしはトーマとアブソレムがそれぞれベンチの真ん中に座っているため、どこに座ったらいいのか迷ったが、アブソレム側のベンチに少し離れて座ることにした。
「どうも、お騒がせしまして」
わたしは肩をすくめてそう言う。
今気がついたが、わたしも相当びしょびしょだ。ワサビ畑に座り込んだのだから当たり前か。
「いいねえ。ここは本当に退屈しないよ」
トーマが大きく伸びをして、天を仰いだ。
「僕も魔法使いだったらよかったのになあ」
「言うほど良いものではない」
アブソレムはすっかりいつものペースに戻っていた。キセルに火を入れて深く吸い込んでいる。
「それでも、城よりはマシだろ?あーあ、ずっとここにいたいよ」
わたしが店内との態度の違いに驚いていると、トーマが面白そうに笑いながら言った。
「僕ね、弱音を吐きにここに来ているんだ」
「それと愚痴もな」
アブソレムもにやりと笑いながらそう付け加える。
どうやら2人はかなり仲がいいらしい。
「僕がアブソレムとこうやって2人で話せるように、サンテ・ポルタに来るときだけ、マーサがついてきてくれる」
あ、なるほどそういうことなのか。
どうして侍女を連れているのかの疑問がここで解消された。
「マーサは元々僕の乳母だったから、ここのことはアブソレムとマーサしか知らない秘密なんだ。今日からアリスも仲間だね」
それからもトーマは随分と弱音を吐いた。
城は退屈で、みんなが敵に見えるし、完璧な王子の芝居をしなくてはいけないのは疲れる、といった具合だ。
アブソレムはキセルを吸いながら、返事もろくにしなかった。中立の立場を保たないといけないためだと頭では分かってはいたが、こうも無視が続くとドキドキしてしまう。
しかしトーマは全く気にしていないようだった。
本当にただ話せればそれでいいのだろう。
「そういえば、今年はいい知恵の日になりそうなんだ。招待しようか?」
トーマの言葉にアブソレムは初めてピクリと反応した。
「そうなのか?」
「うん。なかなか期待できそうな場所が見つかったらしい」
確か、知恵の日ってハシバミ竜を狩る日のことだったよね?
ということは、今のセリフの意味は、ハシバミ竜がいそうな場所を見つけた、ということかな。
「できれば行きたい。まだ素材はあるが、この機にアリスに見せたい」
アブソレムがわたしを横目で見ながらそう言った。
わたしは校外学習チャンスを手にいれて、心の中でガッツポーズをとる。
「そうか。アリスは初めてなんだね。いつからここにいるの?前来た時にはいなかったよね」
「あ、え、わたし?」
突然自分に話が振られ、ドキッとした。
「つい最近だ」
昨日から、とわたしが言うよりも早く、アブソレムが口を挟んだ。
どうやら昨日からだということは言わないほうがいいらしい。
「そうなんだ、前はどこにいたの?うちの国では噂を聞かなかったから、ペルシア国とか?」
わたしは繰り出された「うちの国」という言い方に衝撃を受ける。
そうか、王子さまは自分の国のことを、「うちの国」って言うのね……。
「ちょっとアリスは訳ありでな。その辺りの話はまだすべきではないだろう」
アブソレムが話を濁した。
トーマがふうん、と言って、身を乗り出してこちらをじっと見る。
「でも、ただでさえ魔法使いを欲してるペルシア国が、魔女を離すわけがないか。君は興味深いなぁ」
わたしは下手に何か答えたら墓穴を掘ってしまいそうで、何も言わずに曖昧に笑った。
「これは突っついても何も出てこなさそうだ」
トーマはあははと笑いながらベンチに体を戻した。
どうやら諦めてくれたらしい。わたしはバレないようにほっと息を吐いた。
「しかし、ここにきて魔女とはね。父上に知られたらさぞ大騒ぎするだろうな」
「ああ、目に浮かぶな」
これはサムージャが言っていた、結婚相手に関する話のようだ。
わたしはできるだけ存在を消せるよう、小さくなって黙っていることにした。
「もうほとんど相手は決まってたんだけど、振り出しに戻っちゃうかな?」
「例の名家か」
「そうそう。まあ僕に選択肢があるわけでもないから、どうだっていい」
トーマは興味なさげにそう言う。
自分の結婚なのに、選択肢が一切ないのか。わたしは少し不憫に思った。
「だから先に謝っておくよ。遅かれ早かれ僕のことで君には迷惑をかけそうだ」
トーマは頭の後ろで手を組んで、サンテ・ポルタの方をぼんやり眺めながら言った。
「僕から一言だけアドバイス。誰かにどこかへ来いと呼ばれても、絶対アブソレムと一緒に行くようにね。彼が一緒じゃないと行かないとはっきり断るんだよ」
わたしはそうなる状況がうまく想像できずに、口を開けてトーマとアブソレムを交互に見た。
「アブソレムが一緒なら、君はきっと大丈夫だ」
トーマは最後にそう言うと、ゆっくりと立ち上がってもう一度大きく伸びをした。
ドアの前で待っていたマーサとともに、わたしたちは店へ戻った。
執事のリュドたちは、出て行ったときと全く変わらない姿勢でそこにいた。
この人たち、もしかして機械なのかしら?
「それではアブソレム。今年もヘーゼルをありがとう」
アブソレムが渡したヘーゼルの入った木箱を、ストラがひとりでよろけながら持っている。
あれ、相当重いはずよ。ストラが不憫。
「また招待状を送る」
そう言って踵を返したトーマは、どこからどう見ても一国の王子様に戻っていた。
わたしはその背中を見送りながら、あの東屋でのトーマの笑顔を思い出していた。
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