垣根の上のアリスと願いの魔石
@aoir-iskw
垣根の上
第1話 うさぎを追って
やっと書店に来られた。
ここ最近、ずっと残業続きだったから、今日も半ば諦めかけていた。
閉店前30分。すでに人がまばらになっている大型書店の書棚の前で、わたしは深呼吸した。
紙とインク、木と埃の匂いがする。
さて、今日は何を読もうかな。この前来た時はあの資格の本を買ったし、ああそうだ、取り寄せしていたあの参考書を忘れずに受け取って帰らないと。
膨大な本を前にして、にやにや笑いが隠せない。
なんて幸せなのだろう。まだ知らないことが、世の中にこんなにあるなんて!
わたしの名前は真賀田道。
いつも本ばかり読んでいるため、周囲の人たちに大変な読書家だと思われている。
でも本当に好きなのは、本ではなく、学ぶことだ。
人には知識欲というものがある。知りたい、理解したいという欲求だ。わたしはどうやら生まれつき、それが人よりもかなり旺盛らしい。
ただ、知識として蓄えて行くだけで満足してしまうので、何も身についていないところが情けない。
いくつもの資格を持っているのに、結局はなんの資格も必要としない、しがない事務員として働いているのがその証拠。
「もうあの会社で働きだして4年も経つのね」
書棚を眺めながら、独り言をつぶやく。
今の会社には新卒で入社した。事務員なら、残業もなくて学ぶ時間がたくさん確保できるだろうと思ったのに、とんだ計算ちがいだ。あれよあれよと言う間に年々仕事量が増え、今では書店に寄る暇もなかなかない。
「でも、これから転職活動するのもなぁ」
そう言ったわたしの目の端を、うさぎが横切った。
「え、ヘンリー?」
わたしは驚いて、持っていた本をすぐに棚に戻す。
いやいや、こんなところにヘンリーがいるはずがない。
ヘンリーはわたしの飼っている白うさぎだ。
フルネームはプロフェッサー・ヘンリー・アクランドという名前だが、長すぎていつも略されている。
驚くほど健康な彼とは、一緒に暮らしはじめてもう12年になる。
ヘンリーではないとしても、こんなところになんでうさぎがいるのだろう。誰かのペットが逃げ出したのだろうか?
うさぎはすぐ隣の棚を曲がっていったようだった。
思わず後を追って、棚の向こうを覗き込む。
「やっぱりうさぎだ…」
そこには確かに、まっしろのうさぎがいた。何かを探すようにキョロキョロしている。
とてもきれいな毛並みだ。少し明るすぎるくらいの店内の明かりが、毛艶にあたってチラチラと光っている。
あの耳の形、大きさ、ヘンリーにそっくりだ。
ヘンリーは顔が小さく、そのせいでうそのように耳が大きく見えるのだ。
彼は両親からの誕生日プレゼントだった。16歳の誕生日。
両親はその翌日に、交通事故にあって突然亡くなってしまった。
それからわたしの家族は、ずっと彼だけだ。
うさぎが最奥にある書棚に近づき、立ち止まったのを見てわたしはハッと我に返った。
店員さんを呼んでこようか。でも目を離した隙に、逃げてしまうかもしれない。
見つめたままそう悩んでいると、うさぎはピョンと立ち上がって書棚の本を一冊押した。
あ、立った、と思ったのもつかの間。
押された書棚は一瞬細かく震えたかと思うと、ぱっと姿を消してしまった。
その先にはただ真っ暗な穴が広がっている。
「え!?」
わたしはつい大声を上げてしまう。
その声に驚いたうさぎがパッとこっちを振り返り、慌てたように穴へ飛び込んだ。
「あぶない!!」
落ちると思い、思わず穴へ駆け寄って手を伸ばす。
その瞬間、視界がぐるんと回転し、書店の明るすぎる照明が目に入った。
眩しいと思ったときには、わたしはすでに穴の中へ真っ逆さまに落ちていた。
伸ばした指の先を、うさぎは一度だけ小さく蹴った。
「…の……えは?……」
緑色の光の中で、誰かが何かを言っている。
「…えるか?…なまえは?」
名前?名前をきいているの?わたしの名前は……。
あれ?わたし、落ちたはず…?
その瞬間ハッと気がつき、飛び起きた。
ここはどこだろう?いつもの書店にいたはずなのに?
「聞こえるか?君の名前は?」
緑色の光の中で、誰かがわたしの名前を聞いている。
その人の先にある窓からの光のせいで、逆光になっていて顔がよく見えない。
「名前…。わたしは、真賀田道です」
目をシパシパさせながらそう答える。
「マガタミチ?変わった名前だな。一体どこから来た?」
緑色の人が近付いてきた。光が少し遮られ、顔が見えるようになる。
髪が深い緑だ。長いストレートの髪を肩下くらいでゆるくまとめている。瞳の色は黄色。
なに、この色?なにかの仮装だろうか?
しかも、左目の下に植物の蔓のようなタトゥーが入っている。
「ええと、わたしは…書店にいて…」
そう言いながら周りを見回す。
少し見ただけで、ここが絶対にあの書店ではないと気がついた。
何かの店なのだろうか。壁には作り付けの棚が入っており、そこには所狭しに風変わりな小物が並んでいる。そしてその間を埋め尽くすように植物、植物、また植物……。
植物が多すぎて、窓からの光が葉に透けて緑色に見えたのだと気がついた。
ここは一体どこだろう?
「どうやって来たのだ?ここは鍵が開かないと入れなかったはずだが」
緑色の人はわたしの目の前まで来て、膝をついて座った。
どうやらわたしは乾燥した植物をぶちまけた上に座り込んでいるようだった。
ツンと、嗅いだことのない青臭い香りが鼻をつく。
「あの…わたし、うさぎを追いかけて、穴に落ちたんです」
スカートを整え、座り直してそう言う。
緑の人は意味がわからない、というような顔をしている。
そうだよね。言っているわたしも意味がわからない。
「ええと、ごめんなさい。わたしも状況がよくわからないのですが、あなたは誰ですか?」
緑の人は大きくため息をつくと、面倒くさそうに手に持っていたキセルをくわえて煙を吐き出し、口を開いた。
「私はアブソレム。魔法使いだ」
その言葉を聞いて、目の前がまたくらりと歪んだ気がした。
わたしは促されるまま、古い木のテーブルセットに座り、少し怪しげな緑色の人……アブソレムが淹れてくれたお茶を両手で包んでいる。
うさぎを追って、穴に落ちたはずなのに、どうしてこんなところにいるんだろう?
しかも、目の前にいるこの緑の長髪の男性は、自分を魔法使いだと言っている。
意味がわからなすぎて頭が痛くなってきた。
でも、それは彼も同じだったようだ。
「で、話をまとめると、君は本屋の棚から落ちて、ここにきたわけだな?」
キセルをふかしながら、目を閉じて眉間にしわを寄せている。
「はあ。大体そんなところですが、落ちたのは棚ではなく、棚が消えてできた穴の中です」
「さっぱりわからんな。頭をしたたかに打ったのか」
やれやれというように頭を振りながら、手だけでお茶を飲めと勧めてきた。
わたしは促されるままに、手の中にある変わった香りのするお茶を一口飲んでみる。
「…おいしい」
それは本当においしかった。
少し癖のある味だが、混乱してぐるぐる回っていた頭が、ゆっくりと止まるような感じがする。やっと一息つけた気がした。
「マジョラムが混ぜてある。気を晴らして落ち着かせる作用があるからな」
アブソレムはそう言うと、自分もキセルを置いてお茶を一口飲んだ。
そして少し目を閉じて考えてから、こちらを見る。
「ここに来た経緯は全くわからないが、害はないようだし、ひとまず良しとしよう。お茶を飲んだら出ていってもらう。君は何派だ?帰りは風の者を呼ぶか?」
またもや聞きなれない言葉が飛び出してきた。
「何派って…?風の者?それはなんですか?」
アブソレムはお茶をガチャンと机に置き、信じられないというように目を見開いた。
「何派って、君の神からの加護だよ。決まっているだろう?」
「はあ。あの、だからそれがわからないのですが…?」
しばらく呆然と目を見開いてわたしを見つめていたが、突然立ち上がったかと思うと何やら一抱えほどの木の板を持ってきた。
長方形で厚みがあり、周りぐるりと彫刻で装飾されている。
「これに手を置きなさい」
なんだろう、この板?手を置いても痛くないかな?
わたしはびくびくしながらゆっくりと手を板に置く。
少しひやりとした木の感触があるが、特になにも起こらない。
「あの…置きましたが」
おずおずとアブソレムの顔を見上げる。
何も言わないから心配になったのだが、当の本人は目を見開いてわたしの手を見つめている。
「…何も起こらないな」
そう呆けたように呟いている。
「そうですね。何か起こらなきゃダメでしたか?」
アブソレムはその問いには答えず、板を回収してまた椅子に座りなおした。
まだ少し顔に驚きが残っている。
「ウィローの板に触れて何も起こらないってことは、君は魔法使いだ」
「は?わたしが魔法使い?そんなわけないですよ」
ばかばかしい、と笑い飛ばすと、アブソレムがぎろりとこちらを睨んだ。
はい、すみません。おとなしくします…。
「君がどこから来たのかは一度置いておくが、ただ事でないことはわかった。神の加護も知らず、なによりその加護を持っていないとはな」
だから、その加護ってなんなのよ?
わたしがあまりにもポカンとしていたからだろう。アブソレムが紙とペンを持ってきた。
「いいか。簡単に説明するぞ」
彼の話を要約するとこうだ。
まず、この世界の人には大きく分けて5つの分派があるらしい。
それぞれに信仰する神があり、その神から加護として力をもらっているらしい。
その力は神によって違い、水、火、風、土、光の5種類。
あの板は手を置くと、加護の種類がわかるようなものだったらしい。
ファ、ファンタジーすぎる…。なにそれ。めちゃくちゃ詳しく知りたい。
わたしのワクワクした顔を見て、アブソレムがまたもやため息をついた。
「本当に初めて聞いたような顔をしているな」
「ええ。本当に初めて聞きました。私のいた世界とは、全く違う世界のようです」
頭をそんなに強く打ったのか、と哀れみの視線を感じる。
うう、この人全然信じてない。
「加護の種類は5つあるということですね。わかりました。それで、わたしのように加護のない人たちも大勢いるんですよね?」
アブソレムはまたキセルを手に持った。細く長く煙を吐いている。
「いや。ほとんどいない」
えっ。ほんとうに?大体の人がなんらかの力を持っているってことなのか。
羨ましい。どうせファンタジーなら、わたしも力が欲しかった。
そんな呑気なわたしの考えは、アブソレムの次の言葉を聞くやいなや、どこかに消えてしまった。
「大体ひと世代に数人現れるかどうかというところだな。私は会ったことがない」
キセルをふかしながら、わたしを横目で見て続ける。
「そしてこの世界は、すべての人が加護を持っていることを前提に作られている。加護がなければ生きていけないぞ」
突然吐き出された恐ろしい言葉に、背中にぞくりと冷たいものが走る。
「生きていけないって…どういうことですか?」
「いいか。個人の認証や家、仕事でさえ神の加護によって分けられている。加護を持たない君は、このままでは買い物もできず、食事もできず、宿にも泊まれず、もちろん仕事もできない。のたれ死ぬだけだ」
このままのたれ死ぬ!?そ、そんなの困る!
わたしは怖くなって椅子から立ち上がる。
「そ、それはどうしたらいいんですか!?助かる方法はないんですか!」
「助かる方法か。……全くない訳ではない」
立ち上がったわたしをじっと見つめた後、アブソレムはゆっくりとあの板の上に自分の手を置いた。
…何も起こらない。
またもや状況が飲み込めず、ポカンとしたわたしの顔を少し笑ってから、アブソレムは言った。
「私も加護のない者だ。加護のない者は、魔法使いになるしかない」
わたしはこうして、魔法使いの弟子になった。
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