魔獣医とわたし 灰の世界に緑の言ノ葉

三角くるみ/富士見L文庫

  ――ニニ。


 ささやくような声で名前を呼ばれた気がして、長身の男とふたり、灰色の世界を歩いていた少女は勢いよく背後を振り返った。


 ――ニニ。


 その声が、いま、ここにはいない姉のものであるように思え、ニニは滅紫色けしむらさきいろのコートに包まれた背中を震わせる。毛先が頬をくすぐるほど短い、癖の強い髪がふわりと揺れた。

 見つめる方向にはだれの姿もない。風にそよぐ緑青ろくしょうの草地が広がっているばかりだ。あちらこちらに覗く黒緑や濃色こきいろは近づくものすべてを引きずりこむ深い沼で、ときおり浮かぶ得体の知れない大きな泡がいかにも不気味である。


  ――ニニ。


 消え入りそうにはかなく、なのに強く心を揺さぶる悲しげな声。それが、自分にしか聞こえない幻なのだと気がついて、ニニはため息とともに天を仰いだ。

 明るい灰色の空が目に入る。

 この世界にの光は届かない。晴れた日でも、空は淡い灰色のままだ。悪天候の日は、夜のように真っ暗な空から酸性の雨や雪が降り、稲光が走り雷鳴がとどろく。ちなみに昼夜の区別と同じように、季節の移り変わりも曖昧だという。ニニと主人ムシューが暮らしているこのあたりでは、肌寒いくらいの気温がずっと続くらしい。


「……姉さん」


 ニニは思わず声に出してつぶやいた。

 そばかすの目立つやや幼げな顔立ちからありふれた色合いの髪と瞳まで、双子といってもおかしくないほどよく似ていた姉。ふたつしかとしの違わない彼女は、二月ふたつきほど前、ニニと一緒に死んだ。

 死んだ。

 そう、たしかに死んだはずだった。

 立ち止まってしまったニニに合わせ、彼女の隣を歩いていた男も足を止めている。


「どうかしたか、ニニ」


 黒いマントに身を包んだ男が静かな声で問いかけた。ニニは彼を見上げ、すぐに、いいえ、と答えた。


「なんでもありません、主人ムシュー

「……その呼び方はどうしても変えられないものなのか」


 ゆるい癖のある長めの黒髪の下から、綺麗きれい常磐色ときわいろ双眸そうぼうがニニを見つめていた。瞳孔は黄金色で縦に長く伸びている。それだけを見れば獣の瞳そのものだ。とはいえ、主人ムシューの眼差しはいつでもとても穏やかなので、ニニはちっともおそろしいとは思わなかった。

 肌は白くなめらかで、顔立ちは地味ながらもすっきりと整っており、立ち姿も美しい。お伽噺とぎばなしに語られている王子様はきっとこんな感じなんだろうなあ、とはじめて会ったときからずっと思っていることを、また思う。


「でも、主人ムシュー主人ムシューですから」


 彼の名はダンタリオンという。だが、ニニが主人ムシューをそう呼んだのは、彼と契約を交わしたとき、ただ一度きりだ。

 ダンタリオンは軽いため息をついた。そもそも使い魔とあるじのあいだにある主従のおきてを変えることはできないのだから、なにを言っても無駄だと気づいたらしい。まあいい、と彼は続けた。


「それで? 姉の姿でも見えたのか? やっぱりおまえについてきていたのか?」


 なんだ、ちゃんと聞こえていたんじゃない、とニニは思った。それなら遠回しに尋ねる必要なんてないのに。


「いいえ、違います。でも、ネリの声が聞こえたような気がしたから ……」


 ふうん、とダンタリオンは双眸を細めた。ニニが見ているのと同じ方角へ眼差しを向け、首を横に振った。


「ここは寂しいところだからな。人間の娘ならもう少しにぎやかなところを好むだろう」


 妹と比べるとずいぶんおとなしかったネリは、人の多い場所が苦手だった。だが、そのことを伝える前にダンタリオンが歩き出してしまったので、ニニは慌てて彼を追いかける。


「月光草の群生地はすぐそこだ。露が消えないうちに摘みはじめたい」


 はい、とニニは短い返事をした。

 ネリ、と胸の内でどこにいるとも知れない姉に呼びかける。姉さん、いまどこにいるの。一度でいいから、わたしの名前を呼んでちょうだい。その声が聞こえたら、すぐに迎えにいってあげる。だってわたしはそのためにこんなところまでやってきたんだから。

 ダンタリオンの一歩はニニにとっての二歩である。あるじの倍も足を動かし、たどり着いたのは周囲にひとつの沼も見当たらない、乾いた草地だった。ちょうどニニの膝丈くらいの緑青の中に白緑びゃおくろく青鈍あおにびの葉が混じる、不思議な一帯だ。


「この白っぽく見える草が月光草だ。よく乾かして細かくくとよい薬になる。色が濃いのは薬には使えないから摘まないように気をつけて」


 ダンタリオンはそう言いながら長い指先で白緑の葉を摘み取った。ぷつ、というかすかな音とともに根元から引き抜かれたそれは、空中にキラキラと細かな光を散らした。


「綺麗 ……」

「この光が月光草の名の由来だ。さ、籠がいっぱいになるまで摘んでおくれ」


 ダンタリオンの手には、いつのまにかひと抱えもある大きな籠が握られている。ニニが籠を受け取ると、いいかい、と彼は言った。


「摘み方にはコツがある。こうして指先で茎をたどって ……」


 男の指先が草の根元を探り、ひとつめの節のすぐ上あたりに力をこめると、月光草はおもしろいようにするりと抜けた。ニニは小さくうなずいてから、近くの白緑に手を伸ばす。


「こうですか?」


 山育ちのニニにとって草木から恵みをわけてもらうことはごく自然な営みだ。この世界に来てまだそう日はっていないが、見慣れない草を摘み取ることにも抵抗はない。


「そう。上手だね」


 あるじに褒められて気をよくしたニニは、姉への恋しさなどすっかり忘れて、次々と月光草に手を伸ばす。摘み取った草を気まぐれに振れば、キラキラとした輝きが風に乗って流れていく。なんだか楽しいような気分にさえなってきた。

 少しずつ移動しながら夢中で草を摘んでいると、不意に鋭い声で名を呼ばれた。


「戻りなさい。そのまま進むと戻れなくなるよ」


 そう言われて足許あしもとを見れば、靴がわずかに土の中に沈んでいる。深い草に覆われて見えなかっただけで、すぐ近くに沼があるのだろう。ダンタリオンが声をかけてくれなければ、気がつかないまままりこむところだった。

 ニニはゆっくりとあとずさり、心配そうな顔をしているあるじのそばまで戻る。


「気をつけなさい。このあいだも言ったけど、もっと周りをよく見て行動するように」


 ここは僕の庭とは違うんだから、とダンタリオンは言った。強い口調ではなかったが、身を案じられての叱責は心に響く。ニニは素直に謝罪した。


「申し訳ありません」

「謝ることはない。気をつけてくれれば、それでいいんだ」


 ダンタリオンはうっすらと笑う。ニニはなんだか気恥ずかしくなって、彼の視線から逃れるために慌ててその場にしゃがみこんだ。

 足許の月光草に手を伸ばしながら、おかしなものね、とニニは思った。血のつながった父親にさえこんなに優しくしてもらった覚えはない。なくてあたりまえだったぬくもりを、ごく自然に与えてくれるこのひとがじつは悪魔だなんて、いったいだれが信じるだろう。

 しかし、どれだけ信じがたくとも、ダンタリオンは悪魔だ。

 はじめて会ったときに彼自身がそう言っていたし、そのあとニニの身に起きた数々の奇跡は、彼の言葉が正しくなければ絶対にありえないことばかりだ。

 摘み取った月光草を籠に入れ、ニニはゆっくりと立ち上がった。ダンタリオンはすぐそばにいたが、草を摘んでいるのか視線を落としていてニニのほうを向いてはいなかった。

 頬に風を受けながら、あらためて周囲を見渡した。

 灰色だ、とニニは思う。

 はじめてこの世界へやってきたときからその印象は変わらない。もといた場所と同じように草は緑にしげり、花は色とりどりに咲くことを知っても、なぜか変わらないままだった。



 この灰色の世界は魔界という。

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