第二章 昨非今是(6)
逃げるではなく、斬ることを選んだ。
それが総ての答えであるような気がして、自分が自分でなくなってしまった錯覚に陥る。
伊織は、腰に差したままだった脇差の鞘を手に取った。
白い下げ緒のついた、艶のある黒鞘。
「──土方さん」
結局、頼れる人は他にない。
この脇差を押しつけた土方に、なぜだか会いたいと思った。
「土方さんじゃなくてすみませんね」
すぐ近くで声がして、伊織は反射的にそちらを見る。
「沖田、さん……」
真正面に、沖田が微笑んでいた。
伊織と目が合うと、沖田は悠々と近寄り、おもむろにその隣に腰をおろす。
「探し疲れちゃいましたよー。一日中町を歩き回って、もうへとへとです」
沖田が柔和に笑いかけると、伊織は不意に身体の芯が熱くなるのを感じ、わっと泣き伏した。
「帰りたいっ!! こんなところっ、来たくて来たんじゃないのに……っ!! どうして私だけ、こんな目に遭うの!?」
飾らない、正直な気持ちが自然に口をついて出てくる。
「元の時代に帰りたい……っ!!」
いくら幕末という時代や新選組という組織に魅力を感じていても、それは平和な時代にいてこそのものだった。
実際に身を置いてみれば、これほど空恐ろしいことはない。
こんなところへ来てしまうくらいなら、あの時あのまま死んでいれば、とさえ思ってしまう。
「……帰りたければ、帰ったらいいでしょう」
今笑っていたと思った沖田の、冷たく突き放す声が返った。
心のどこかで、慰めてもらえるものと思っていた伊織は、顔を上げて沖田を睨みつける。
「それを言うのっ!? 帰りたくても帰れないのに! だからこんなに辛いんじゃない!」
「舞台から飛び降りたら帰れるかもしれないって、言ってたじゃないですか」
「言ったよ! だけどっ、必ず帰れるって保証はどこにもない! それでどうして飛び降りることが出来るっていうんですか!?」
声を荒げながら、後から後から涙が出た。
なのに、沖田は泰然と構えて、慰めを言うどころかますます冷ややかに伊織を見る。
「本当に帰りたいと思うのなら、あなたはもうとっくに飛び降りていたはずです。ここにはいたくない、何が何でも帰りたいと思うのなら、ね」
「───!」
何かを言い返そうとして口を開き、噤んだ。同時に、涙までもが止まってしまった。
沖田の言うのは、正論だ。
「ねぇ、高宮さん。本当に、帰りたいんですか? それとも、ただ死ぬのが怖いだけですか?」
伊織は無言のまま俯いた。
帰りたいに決まっている。だから清水寺まで来たのだ。
死ぬのは怖い。だから飛び降りることが出来なかったのだ。
そのどちらも、伊織の本心であることに違いなかった。
「……死ぬのが怖いから、人を斬るのが怖いから……、だから帰りたいんです。私はあなた方とは違うんです、おかしいですか」
ようやっと言い返し、憮然とする。
「私にはよくわからないなぁ。高宮さんは未来から来たと言っていたけど、未来も過去もないような気がしますよ。同じ日本じゃないですか」
言って、沖田はひとつ息をつく。
「未来の人が怖いことは、今この時世に生きる人だって怖いんだと思いますけど……。違いますか?」
違わない。古今東西、生きている者にとって、死は怖いものに違いない。
「それに、まだ分からないんですか? あなたは」
沖田の口調が、不意に普段ののんびりとした雰囲気を取り戻した。
それに少し安堵を覚えて、伊織は顔を上げ沖田の目を見つめる。
「……土方さんは、あなたを守ろうとしてくれてるんですよ?」
「守る?」
伊織はにわかに眉を顰めた。
「そう。こういう世の中ですからね、どこにいても安全だとは言い切れませんから。特に、あなたのように様々な情報を持っていれば、必ず面倒に巻き込まれる」
「言ってる意味が、よくわからない」
「だから、隊士でなく小姓にしたんだと思うんです。自分の手元で守るためにね」
伊織はますます困惑した。
沖田の言う通りなら、何故監察の見習いなどさせるのか。守ってくれるつもりなら、どうしてわざわざ隊務に同行させるのか。
「なんで小姓に刀なんか持たせるんですか。そのせいで私は……、人に斬りつけてしまったんじゃないですか!」
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