僕の収集と、彼女の去就

アレノアザミ

第1話

 長い戦争が終わり、世界は穴だらけになった。

 戦争が終わってやることがなくなった僕は穴に潜り、過去の地層から遺物を掘り起こす生活を始めた。掘って出てくるものはほとんどが何の役にも立たないがらくただったけれど、まれに生きている遺物を掘り当てることもある。それは例えば《古井戸》だったり《蔦の絡まる洋風の東屋》だったり《石段に沿って連なる鳥居》だったりした。どれもが数百年前のものに違いない。戦災や時間の経過に耐え、今日までその形を留めているという意味で、それらは琥珀や化石に似ていた。遠い昔の誰かの記憶、その結晶。他の誰かから見れば役に立たない、がらくたと同じ。けれど僕は夢中になってそれらを集めた。集めて、テクスチャを剥ぎ取り、パッチワークのように縫い合わせる。昼も夜もない穴の中で、月日が経つのを忘れるほど作業に没頭し、ある日、ようやく満足して僕は手を止めた。小さな街が出来上がっていた。


 街をつくり終えた僕は、街の中を日夜あてどなく歩き回った。

《田んぼを突っ切る畦道》をしばらく歩くと、こんもりと緑の茂る小山が見えてくる。麓には《色褪せた鳥居》があり、そこから《苔むした石段》を上ると《小さな神社》がある。小山を黙殺して《緩いカーブを描く海沿いの道》から陸を目指す。《シャッターの下りた商店街》を抜け、急な坂道を上りきると《木造の分校》がぽつんと建っている。《白く乾燥した校庭》を横断し、《分校》の裏側に回って山に分け入っていくと、突然ぽっかりと開けた場所に出る。そこには《錆まみれの給水塔》があった。梯子をよじ登り、巨大なタンクの上に立つ。僕はここが特に気に入っていた。街のすべてが見渡せるし、はるか眼下には《海》が見える。寝転んで夜を待てば、何も遮るものもない、星々の瞬く夜空が視界を埋め尽くした。それが本物の星なのかどうか僕にはわからない。地上にいるときは、星なんて見たこともなかったのだ。


 街に人は僕ひとりで、まれに孤独のようなものを感じないでもなかった。そんなときは街はずれの《墓地》に行く。《墓地》には《少女たち》が眠っていた。《少女たち》の素性はわからない。奇抜な格好をしていたから、きっと昔の娼婦か何かだったのだろう。彼女たちはみな破損していて、短い唄や踊りの記録を再生することしかできなかった。それでもしばらくは愉しむことができた。

《墓地》は僕が掘り起こしたものではなく、もともと穴の中にあったものだ。温度のない穴の中で、ここだけは寒さがあった。街の外、虚無につながる穴の暗闇から冷気が漂ってくる。《少女たち》の墓を暴いている後ろめたさもあってか、《墓地》にいるときだけ、得体のしれない何かに見られているという感覚が消えなかった。そんな自分を慰めるために、またひとつ《少女》の墓を暴く。

《少女》が歌い、踊る。触れることはできない。言葉を交わすこともできない。

孤独ではなかったけれど、虚しかった。


 街をひとりで彷徨するのにも《少女たち》の墓を暴くのにも飽きた。

 彼女と出会ったのは、そんなある日のことだった。


 その日も僕は自分のつくったパッチワークの街を歩き回っていた。ほとんど義務のように。他に何をすればいいのかわからないのだ。ねぐらにしている《役場の放送室》を出て、《狭い路地の階段》を下り、普段あまり足の向かない《海》へ向かう。《港》のやたらと塀の高い背の低い家々の間を抜け、突き当たった《波止場》を横切って短い階段を下ると《小さな入り江》に出る。うつくしい場所なのだけれど、《海》はこの小さな街の最果てにあって、あの《墓地》と同じく何か制御できないものを感じる。だからいつもは遠くから眺めるだけだった。今日はたまたま、なんとなく足が向いただけだ。そこに彼女がいた。

 その少女は碧色にきらめく波打ち際に立っていた。大きな麦わら帽子で顔の半分を隠し、白いワンピースの裾を両手でわずかに持ち上げ、足首までを水に浸して。

最初、僕は地上から誰かが穴の中に侵入ってきたのかと思った。だが、そうでないことはすぐにわかった。その少女の格好は戦時中、資料で見た数百年前の人々のそれととてもよく似ていた。彼女もまた、あの《墓地》の《少女たち》と同じ、過去の誰かの記憶だ。何かのきっかけで再生された、古い記録だ。

「やあ」

 少女はそう言った。

 僕は言葉が出てこなかった。少女がこちらに語りかけている、ということを理解するのにしばらくかかった。そんなことはこれまで一度だってなかったし、なによりずいぶん長い間、僕は誰かと言葉を交わしていなかった。口がからからに渇いて声が出ない。

「きみがこの街の主?」

 僕はどうにか首を縦に動かした。彼女は生きている。意思の疎通ができる。少女はその場でうーんと伸びをして、言葉を続ける。

「なんだかずいぶん長いこと眠ってた気がする。身体も自分のものじゃないみたいな、変な感じ。そうか、いまここにいる私は、私であって私じゃないんだね」

 言いながら、少女は感触を確かめるように自分の二の腕を抓ったりしている。僕はいまだ混乱したまま、そんな彼女をじっと見つめる。

「記憶もこんがらがってて、自分の名前もうまく思い出せないんだ。それにこの街の景色。ひとつひとつは見覚えがある気がするんだけど、全体を見渡すとぜんぜん知らない街みたい。夢の中ってこんな感じじゃない?」

 そうかもしれない。声が出せたのかはわからない。

「でも夢じゃないっていうのはわかる。ここはきみの場所なんだね。ふうん……」

 少女は物思いに耽るように沈黙した。僕はどうすればいいのかわからず、ただ少女の次の言葉を待った。

「ねえ。こんな正体不明の私を、きみの街に入れてくれる?」

 断ることなど、僕にできるわけがなかった。それが伝わったのかどうか、少女は波に遊ばせていた足を水面から引き抜いて、砂の浜辺に降り立った。海の色を溶かしたようなサンダルと白い足が、目に眩しかった。


 少女の存在をうまく飲み込めないまま、けれどなんだかわくわくしながら、二人で街を歩く。少女はサンダルをぺたぺたといわせながら僕の後をついてくる。《シャッターの下りた商店街》をもの珍しそうに見て回ったかと思えば、山手にある《診療所》のあちこちヒビの入った白い建物を無言で感慨深げに眺める。見飽きた風景も、少女といるとひとつひとつに意味があるように見えてくる。少女は景色を見ながら、そこにないものを同時に見ていた。僕には見えないものを見ていた。僕には無意味なものでも、彼女にとっては意味があった。彼女が何かを探そうとする視線の先には、僕が好き勝手に切り貼りしたとき零れ落ちてしまった何かがあった。なんとなく、僕はそう思った。

 いつの間にか、僕は少女の後をついて歩いていた。《診療所》の脇をすり抜け、少女はほとんど藪のような道なき道をずんずんと歩いていく。やっとの思いで追っていくと、木漏れ日の落ちる小径に出た。舗装もされていない、地面がむき出しのその小径は、どうやら《小さな神社》に通じているらしかった。少女は迷わず神社の境内へと足を向ける。こんな道があるなんて、僕は知りもしなかった。

「私がいる影響かもね」

 歩きながら、独り言のように少女がつぶやく。言葉の意味はよくわからない。少女が観測すれば、この「間違った景色」は少女にとっての「正しい景色」となっていく、ということだろうか……。

 裏道から鼠の額のような境内に出て、社に向かって形ばかりの参拝——なにしろ二人とも金を持っていない——をしたあと、少女は賽銭箱に腰掛けた。なんとなく罰当たりな気もするけれど、少女は気にもしない。少女は風雨により腐食の進んだ鼠色の賽銭箱を撫でながら、ふと、

「あ、そうだ。宝だ」

 と言った。いったい何の話だろう?

「私の名前。宝っていうんだ」

 少女の声に少し遅れて蝉しぐれが聞こえだした。もしかしたらずっと聞こえていたのかもしれない。ここに来るまで蝉しぐれなんて一度も聞いたことがなかったのに、ひと際大きく耳に響くカナカナというもの悲しい音がひぐらしという蝉の鳴き声だということが、なぜか僕にはわかった。

「ほら、これ。この字見て思い出した。なんとなく似てない?」

 そう言って、自分の腰掛ける賽銭箱のぼやけた「賽」の字を指さして、宝は笑った。


 日没前、最後に宝を案内したのは《錆まみれの給水塔》だった。先に梯子を上り、手を貸して宝を引き上げ、二人でタンクの上に立つ。茜色に染まる僕の街を、少女は無言で眺める。間違いだらけの、ニセモノの街。僕はなんだか急に恥ずかしくなってきた。盗んできたものを持ち主に見せびらかしているような気分だった。そんな僕の気持ちを知る由もなく、少女は言う。

「素敵な場所だね」

 でもニセモノだ。

「ニセモノなんかじゃない。ここをきみが気に入ったのなら、ここはきみの場所だよ。私にとってもそう。ここは、私のいちばんのお気に入りの場所だったんだ。だから、きみがこの場所を選んでくれて嬉しいんだよ」

 そろそろ行くね、そう言って宝は梯子を下りた。《港》の方向へ駆けていくその後ろ姿に、僕はたまらず、また会えるか、と訊いた。うん、また。短く答え、宝は街と同じ色に溶けていった。

 日が落ちて、誰もいない街にぽつぽつと電灯が点る。いつの間にか蝉しぐれも止んでいた。僕はねぐらに帰って布団をかぶり、目を瞑る。そして宝と、《墓地》の《少女たち》のことを考える。宝は《少女たち》とは違う。手で触れることができる。僕は先ほどの感触を思い出す。冷たくもなく、温かくもない、少女の手。けれど、彼女に触れた僕の手はじんじんと熱を帯びていた。その熱は、僕が眠りの底に落ちるまで続いた。


 次の日も、その次の日も、僕は宝と二人で街を歩き回った。宝には《小さな入り江》に行けば会えた。歩きながら、宝はいろいろなことを教えてくれた。《港》へ行けば、家々の塀が家より高い理由を、《鎮守の森》へ行けば、夏の間に鳴きだす蝉の順番を、《バス停の待合所》へ行けば、ヒマをつぶすための指遊びを。毎日、日が暮れるまで、宝と僕は街を歩いて、いろいろな場所でいろいろな話をして、日が暮れたら互いの帰るべき場所へ帰った。

 その日も、宝は《小さな入り江》にいた。けれど宝は、僕が来ても《海》から出ようとはしなかった。最初に会ったときのように、いつまでも足首まで水に浸したまま。

少女は言った。

「そろそろ帰らなくちゃ」

 なぜ? まだ日暮れじゃない。

「ううん。そうじゃなくて、私がいた時代に帰らなくちゃいけないんだ。もうここには来られない」

 なぜ? どうして急にそんなこと言うんだ。

「戦争が始まるから」


 僕はどんな顔をしていただろう。彼女はどんな顔をしていただろう。《入り江》の向こう、水平線から昇った日の光が影をつくって、麦わら帽子を目深にかぶった少女の顔が、僕には見えなかった。

 戦争。宝の言う戦争は、僕の知っているのと同じ戦争に違いない。なぜならあの戦争は、僕の時代と、三百年前の過去——つまり宝の時代との戦争だったのだから。過去と未来が互いの領土を奪い合う。あれはそういう戦争だったのだから。この街のすべては過去から奪ったもの。少女の時代から収奪し、使うあてもなく放棄され、僕が拾ったもの。

「その戦争において、私はある役目を負ってる。ここにいる私は私じゃないけど、向こうではそんな、ほんのちょっとの余分も許されない——まあ、ろくでもないことになるんだろうな、っていうのはわかってるけど」

 それでも僕は言わずにはいられない。ここではもう戦争は終わったんだ。きみが帰る必要なんてない。戦争なんて馬鹿なやつらに任せて、ずっとここにいればいいじゃないか。

「ここじゃダメなんだ」

 なぜ?

「ここには海がないから」

 僕は驚いて《海》を見る。

 僕の目の前には《海》があった。朝の日を乱反射してきらめく、エメラルド色の水を無限に湛えたうつくしい《海》が。

「海っていうのはね」

 わずかに屈んで、その白い手で水を掬いとりながら、少女は僕に教えてくれる。

「海っていうのは、きれいなだけのものじゃないんだ。たとえば、潮の匂い。きみは嗅いだことある?」

 匂い? 海水に塩分が含まれているのは知ってるけど……。

「潮の匂いはじっさい嗅いでみないとわからない。うーん、上手く言えないけど……生き物が死んだような匂いがするんだよ。それに、塩分があるから、海のそばにずっといると肌がべたべたしてくるんだ」

 それだけ聞くと、とても良いものに思えないのだけど……。

「あはは、そうだね」

 少女は笑っている。麦わら帽子の向こうで。しかし、口調はいつになくきっぱりとしていた。

「でも、それが海なんだ。海は必ずどこかに汚濁を含んでいる。そうでない海は嘘だ」


 最後に本当の海を教えてくれた少女は、なんだかもういつ消えてしまってもおかしくないような気がした。でも僕は何も言えずにいる。少女をここに留める手段も、言葉も、理由も、もう僕には何もないのだ。僕に残されたのは、たったひとつ。本当の海へのどうしようもない憧れだけだった。

「あ、そうだ」

 宝は、何かとびっきりの悪戯を思いついたような口調で、こんなことを言った。

「私がここにいるのはダメでもさ……きみが私の時代に来るのはどう?」

 それはまさしく悪魔の囁きだった。僕に、僕の時代を裏切れと言っているのに等しいのだから。

「もしかしたら、私はきみが思っているような人間じゃないかもしれない。きみは見たくないものを見るかもしれない。それでもいいっていうなら」

だとしても、それはそんなに迷うことだろうか。ここには本当の海さえないのだ。

 それから少女は僕の耳に口を寄せ、世界を歪める秘密の方法を囁いた。それは、この街を、僕の安住の地を捨てるということ。僕が無視してきた、穴の奥に潜む虚無と対決するということ。途方もない年月がかかるかもしれないということ。僕にはほとんど何のメリットもない。ほとんど、たったひとつを除いて。

 約束はできない。でも、やってみる。僕は少女に頷いた。

 少女は口角を吊り上げ、わざとらしくニヤリと笑ってみせてから、かぶっていた麦わら帽子をとって僕の頭にかぶせる。首の途中で切り落とした、傷口のような短い髪が露わになった。

 潮騒が鳴った。

少女はニセモノの朝日を浴びてニセモノの《海》へと入っていく。ざぶざぶと波をかき分けて、胸まで《海》に浸かったところで一度、こちらを振り返った。


「過去で待ってる」

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