第7話

 銀座のカフェの窓際のテーブルに武田晴絵は腰掛けていた。コーヒーを一口飲み終えてカップをテープルの受け皿に置くと同時にドアの開く音がした。五十嵐時夫が晴絵の座っているテーブルに向かって歩いてきた。

「随分早く来ていたんだね」

「銀座に来た時にはいつも必ず寄る・・・お気に入りの雑貨店が今日は休みだったの。他に特に寄りたいところがなかったからここに来ちゃった」

ホールスタッフの女の子が水を運んできた。

「何になさいますか?」

「それじゃコーヒー」

時夫は腰を下ろしながら言った。店のスタッフが見えなくなると同時に時夫は話し始めた。

「晴絵のご両親って素敵な人たちだね。本当に感動しちゃった」

「平凡な会社員の父親と専業主婦の母親ですけど」

「僕には会わせてあげる両親がいなくて・・なんかすまないような気がする」

「でも時夫って偉いよね。大学生の時にご両親が交通事故でなくなったんでしょう。それだけでも大変なのに大学を卒業して、就職までしているなんて」

「相手が一方的に悪い事故だったので、十分な賠償があったので、経済的には困らなかったんだ」

「でも兄弟もいなかったんだからひとりでずっと寂しかったでしょう」

「まあ慣れてくるとなんてことなくなってしまうものだよ。お陰で、会社で人に会うことが楽しくなって、会社に行くことが苦痛じゃなくなった」

「気の持ちようというか・・・考え方によって生活も変わるのね」

店員が彼らのテーブルのところに向かって歩いてきた。彼女は時夫のところにコーヒーをおいた。時夫はミルクを少しだけコーヒーに注いだ後、コーヒーカップを口元まで持っていき、一口のんだ。その仕草を見ながら、晴絵は続けて言った。

「時夫の家ってすごいのね。初めて見た時びっくりしたわ。私の両親もとても驚くと思うわ」

「実はね、5年前に僕はあることがきっかけで新しいゲームソフトのアイデアを考えたんだ。それが会社の全面的なバックアップで開発・販売まで決まり、いい作品ができたんだ。そしてそれが大当たりしたんだ。そしてその作品に対する会社からの報酬がかなりなもので驚いたよ。この若さでこんな豪邸のような家を建てることができるようになるなんて夢にも思っていなかったよ」

「そのゲームソフトの名前は?」

「ミラートリップ」

「えーあのゲーム、時夫が作ったの・・・。時夫はネクストフューチャーの社員なの!」

晴絵は驚きのあまり手に持っていたコーヒーカップから少しコーヒーをこぼしてしまった。


 時夫と晴絵の新婚生活は、幸せな夢のような毎日の中でいつの間にか1年が過ぎてしまった。会社の中である程度の自由裁量の時間が与えられて余裕をもって新しい企画が考えられるようになった時夫は、会社の中でも充実した日々を送ることができるようになった。大手出版会社でデザインの仕事をしていた晴絵は、主婦の仕事を中心にした生活を送りたいという願いから会社を退職してフリーのデザイナーになって、自分の好きな仕事だけを引き受けてするような贅沢な生活を送れるようになっていた。時夫はこれまで得られたものが自分の能力をはるかに超えたものでものであると思っており、これ以上のものを望むことなど全く考えていなかった。彼は今の生活水準をこのまま続けることができるとしたらそれはもう夢のようなことであり、今の生活水準よりもっと下がったとして全く問題はないと思っていた。たとえ今の家を手放してもっとこぢんまりとした家に引っ越したとしても問題はなかった。出世とかは全然考えていなかったので、定刻にいつも仕事を切り上げて早々と帰宅することにしていた。何よりまず晴絵との時間を第一にしたかった。


 時夫はいつものように定刻に仕事を終えて、家に向かっていった。その日は結婚記念日であったのでケーキと薔薇の花を途中で買って家に向かっていた。時夫は右手にケーキの入った箱を持ち、左手に薔薇の花束を持って玄関の前に立った。時夫は花束を右手にケーキの箱を左手に持ち替えた。花束を右手の脇で抱えると、右手の人差し指でインターフォーンのボタンを押した。いつもはすぐにインターンフォーンに答えて、時夫であることを確認したらすぐに玄関のドアを開けるのだが、その日はいつもと違っていつまでたってもインターフォーンに答える様子がない。時夫は花束を右手の脇に抱えながら右手の手のひらをズボンの右ポケットに入れて玄関の鍵を取り出した。ドアの鍵穴に鍵を差し込んで鍵を時計と反対周りに回した。懐かしい音がした。結婚してから始めた聞いた音であった。

玄関の扉を開けると、ダイニングキッチンの方から明かりが漏れているのがわかった。時夫は明かりの方へ向かって進んで言った。ダイニングキッチンの中を見るなり時夫は心臓が止まるほどの衝撃を受けた。時夫の目に飛び込んできたのは横向きに倒れている晴絵の姿であった。花束とケーキの箱を投げ捨てるようにおいて、携帯を取り出し救急車を呼んだ。


時夫は晴絵の病状の説明を受けるために担当医の前に座った。

「このようなことは以前ありましたか」

「ええ3年ほど前にありました」

時夫は歩道で晴絵が倒れた時のことを思い出した。

「その時特に何も問題はないということだったんですが」

医師はコンピューターのディスプレーを指さした。そこには晴絵の脳のCTスキャナの画像が映しだされていた。

「その時は多分あまりにも小さくて発見されなかったと思うんですが。今、このようにはっきりと写っています。それほど大きい腫瘍ではないのですが、問題なのは1つ2つではないということです。かなりの数の腫瘍がみつかりました。手術は無理ですし、治療の手段もありません」

「あとどれくらいなんですか」

「もって数カ月というところです」

「本人に言ったほうがいいんですか」

「お任せします。告知するということに決まったらお二人にもっと詳しく説明します」

翌日二人は医師から詳しい説明を聞いた。家に帰ったから二人は言葉をかわさずに一晩中泣いた。

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