ニーハの別荘 1

 学院の寮がいよいよお休みで閉まるということになり、私はマクゼガルド家のニーハの別荘で働くことになった。

 ニーハというところは、高原にあることもあって、少し気温が帝都より低い。

 日差しが強いから外だと『涼しい』という感覚ではないけれど、日陰に入るととても心地よい。

 ワス湖は、それほど大きな湖ではなくて、一周するのに徒歩だと半日くらいの大きさらしい。

 泳いで渡るにはかなり遠いけれど、対岸の景色はそれなりに見える。

 マクゼガルド家の別荘は、湖畔の一等地にあって、かなり大きいものだった。周囲にもいくつか別荘がみえる。

 皇族や貴族もここに別荘を構えていて、夜に内々の社交なども会ったりするらしい。

 社交、と言っても、夜会のような華やかなものではないみたいだけれど、なにぶん、エリザベス情報なので、本当に地味でささやかなものかどうかは、ちょっとわからない。

「わっ。夏使用のお仕着せ、とってもかわいいですね」

「ええ。アリサさんにはとてもよくお似合いです」

 別荘についた私は、一緒に来たフローラ・マナベルにお仕着せを出してもらい、早速着替えたのだけれど。

 さわやかな水色のワンピースに白のフリルのはいったエプロンを重ねたお仕着せは、相変わらずとてもセンスがいい。

 そして可愛いけれどとても動きやすい造りになっていて、洗いやすい丈夫な生地だ。

「髪もまとめたほうがいいですね。その方が動きやすいでしょうから」

「はい」

 私は白い紐をもらって、髪を一つにまとめて縛り上げる。

「アリサさんには、朝、厨房を手伝っていただきます」

「朝だけですか?」

「学生のアリサさんは勉学の時間も必要でしょう。それにいつもエリザベスさまはこちらにおいでになると退屈しておられるので、お話し相手になっていただければと思います」

 それはエリザベスにも言われたけれど。

「あの、本当にそれでいいんでしょうか」

「気にすることはないのです。ただ、給金はやや少な目と伺っております。本当はアリサさんはエリザベスさまのご友人ですから、客人として扱うべきだと公爵夫人はお考えなのですが、ルークさまが反対なさいましたので」

「そうですか」

 ふっと笑みが浮かぶ。

 さすがルークだ。

 客人なんて扱いを受けたら、どう振舞えばいいかパニックになりそうだし、そもそも、ここに来ることをためらったと思う。

 お金が欲しいというより(もちろんお金は欲しいけれど)私は、ここにいても良い『理由』が欲しいのだ。

 エリザベスの友人というだけで客人として扱っていただけるのは、とても光栄なことだけれど、こんな見返りが欲しくて友人になったわけではない。

 少しそのことをマナベルに話すと、『面倒な方ですね』と言われてしまった。

 確かに面倒なのかもしれない。

 でも、いま私にのばされている優しい手を当たり前と思ってしまったら。

 きっと、もっと欲しくなる。

 欲しくなれば、無理やりにでも奪い取ろうとするかもしれない。

 そんなことはないと思いたいけれど、『公爵令嬢は月に憂う』のアリサ・トラウは、そうだった。

 地味にいやらしく、エリザベスの悪評を流し、皇太子グレイの周りにつきまとう。

 皇太子の愛が欲しかったというよりは、その地位と力が欲しくて。

 今のエリザベスとグレイは、小説よりもずっと関係は良好とはいえ、ほんのちょっとしたことで、妙な噂が流れてしまうのは、既に経験済みだ。

 原作の強制力というのがあるのかどうかはわからないけれど、油断は大敵。

 はからずも最初の予定と違って、マクゼガルド家の兄妹と親しくなって、こうしてお世話になっているからこそ余計に、エリザベスが幸せになれるように私も頑張りたいと思う。

「アリサ、用意はできた?」

「はい?」

 エリザベスが部屋の扉をノックして顔をのぞかした。

 エリザベスは真っ白なドレスにピンクのリボンのついた白い大きなツバのある帽子をもっている。

 相変わらず、絵本のお姫様みたいだ。

 お仕着せに着がえはしたものの、今日はもう昼過ぎだ。今の話では私、仕事がないってことでいいのだろうか。

「いってらっしゃいまし。湖畔のお散歩はとても気持ちがいいものです」

「はい」

 マナベルに送り出されて、私はエリザベスとともに出かけることにした。

「この近所を案内するわね」

 田舎に来た解放感か、エリザベスはいつもより弾んでいるようだ。

 外に出ると、カジュアルなラフな白いシャツにスラックスをはいたルークがいた。

「遅いぞ」

「あら、お兄さまも行かれるのですか?」

 ぷくっとエリザベスは不満顔を作った。

「今日は、アリサと私でデートするつもりでしたのに」

「お前たちだけで出かけるのは危ない」

 ルークはエリザベスの抗議を受け付ける気はないらしい。

「どのみち、夜、いくらでも二人で話せばいいだろう? どうせすることないんだし」

「それは……そうですけれど」

 エリザベスは納得いかないらしい。ひょっとしたら、何か話したいことがあったのかもしれない。

 それとも、どこか二人だけで行きたい場所とか。

 エリザベスのような貴族のお嬢さんの場合、ある程度自由に外を歩けるってことはないから、行ってみたいところがあってもおかしくない。

 ルークと一緒が嫌というなら、なんか女の子だけの秘密にしておきたい『何か』だろう。

「しかたありません。今日のところはお兄さまも一緒に参りましょう。全くお兄さまは、心配性なのですから」

 仕方ないというようにエリザベスは苦笑した。

「まずは、レイシアの神殿に」

「わかった」

 エリザベスに頷いて、ルークが私たちの前を先導する。

 湖畔の道は木立が湖沿いに生えていて、日陰になっていた。

 山から湖に吹く風がとてもさわやかだ。

「レイシアの神殿は、あの先にあるの。小さなところで、神官さまも一人しかいないけれど」

 レイシアは水の神。湖畔にあるのはとても自然だ。

「風の神オーフェの神殿も湖の向こうにある」

 ルークが湖の方を指さした。

 対岸は平地が少ないらしく、山がとても近く見える。

「それほど人口の多い村ではないから、神殿はどれも小さい」

「一番大きいのは、ムナザ神殿ね。ムナザの山の神を祀っているの。この辺は、特に山の恵みを感じている土地だから」

「へえ。山の神ですか」

 ムナザ山の固有の神さまだから、神殿があるのも信仰があるのもここだけなのだそうだ。

 この世界は風水地火の四神が一番のメジャーどころではあるのだけれど、他にもたくさんの神さまがいる。

 風水地火がメインなのは、魔術の基礎がその四つから構成されているという側面が大きい。

「アリサ、あれを見ろ」

 ルークの指をさしたのは薄い霧だった。まるで湖面にを這うようである。

「あれはただの霧ではなくて、かなり高濃度なエーテルの塊だ。朝や夕方になると、この辺り全体がアレに囲まれる。特に何があるというわけではないが」

「えっと。それがナーザントさまのおっしゃっていた?」

「まあな。むろんもともとこの辺りはエーテル濃度が濃いのだけれど、目に見えてわかる、というのが人気なんだ」

 ルークが頷く。

「ひんやりして、きもちがいいのよ」

 ニコリとエリザベスが笑う。

「普通の霧とは違うのですか?」

「えっと」

 エリザベスが首をかしげる。

「エリザベスが知っている『霧』は比較的高濃度でね」

 ルークが口をはさむ。

「マクゼガルド家の屋敷も、この別荘地も領地も全部、割と濃度が高い」

「うちは、ほら、水と氷の加護を持つ家だから」

「ああ、なるほど」

「夕方になれば、霧はこのあたり全体に広がるから、その時に感じればいい」

「はい」

 なんだかとても楽しみだ。

 ルークは俗説っていっていたけれど、魔力量が増えるような気がするほど不思議な感触がするのかなって思うと、ドキドキする。

 やがて、小さな神殿が見えてきた。

 先日ルークと訪れた神殿と比べると随分と小さい。湖畔にひっそりと建っているって感じだ。

 古びてはいるけれど、きちんと手入れはされている。

「エリザベスさまとルークさまは、こちらによく来られるのですか?」

「え?」

 エリザベスが驚いたように、私の顔を見た。

「アリサ、いまなんて?」

「えっと。こちらのレイシアの神殿によく来られるのかと」

 聞き取れなかったのだろうか。

「そっちではないわ」

「え?」

 いったいエリザベスが何を聞きたいのかわからず首をかしげる。

「まあ」

 エリザベスは面白いことを見つけたという顔をする。

「私の知らないうちに、何かあったのね。今晩ゆっくり教えてもらうわね、アリサ」

「エリザベスさま?」

 何のことだかさっぱりわからずに、助けを求めてルークの方を見ると、ルークは私から顔を背けてしまった。

「お兄さまって、本当に隅に置けないんだから」

 ふふっとエリザベスは笑みを浮かべたのだった。

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