教室に戻って、数学の授業が始まる。

 私はエリザベスたちから遠い席だから、ハッキリ二人の会話まで聞こえたりはしないから、確証はないけれど、雑談とかはしていないように見えた。

 もっとも二人は真面目な優等生。私語を慎んでいるだけかもしれない。

 私も見守る約束はしたものの、授業をそっちのけにすることは出来ないので、時折視線を送るだけにとどめる。

 授業が終わってホームルームの時間になったが、二人は話をする様子はない。

 時折、それぞれ相手を見る様子はあるけれど、視線が交わることはないように見えた。

 えっと。これって、絶賛両片思い中なのかな。いや、そもそも婚約者なんだから、片思いってのも変な話なんだけれど、お互い、会話が足りていないような印象だ。

 原作情報によれば、そろそろエリザベスの誕生日が近いはず。

 誕生日のお祝いの夜会がマクゼガルド家で行われて、皇太子も招待されるはずだ。エリザベスは皇太子からドレスと宝石を贈られるのだけれど、お祝いカードはなくって。エリザベスは、嬉しいと思いながらも、そのプレゼントが義務的なものなのではないかと不安になる。当日、会場に皇太子はやってきたものの、皇帝妃急病の知らせを受けて、挨拶もそこそこに城に帰ってしまう。

 エリザベスとしては、婚約者として扱っては貰ったものの、欲しかった言葉を何ももらえなかったという哀しいイベント。

 ちなみに、帝妃の急病は、はっきりわからないけれど、急性の胃腸炎か何かだと思う。

 大事には至らずに、後日、回復して、エリザベスに謝罪のプレゼントを贈るシーンがあった。

 そうだ。あのイベントの段階では、まだ二人の想いはすれ違い中。そのあと、私が皇太子に接近して、どんどんすれ違いが拍車をかけていくのだ。

 ということは。今の段階で、すれ違いを解消してしまえば、私が関与しなくてもエリザベスの物語はハッピーエンドになるのでは?

 しかし、どうしたら二人の想いをつなげることができるのだろう。

 すれ違いのきっかけというものははっきりしていなくて、たぶん、思春期ゆえの照れとコミュニケーション不足なのだと思う。同じクラスで隣の席なのに、コミュニケーションが取れないってどういうことなのよ、とは思う。

 とはいえ。まだ観察を初めて一日目。まだ、エリザベスの誕生日までには少し時間があったはずだ。何かその間に考えよう。

 『公爵令嬢は月に憂う』は、エリザベス中心に話が進むので、それ以外の人物が何を考え、脇で何が起こっているのかというのは、あまり書かれていない。

 だから、私と組んで、魔術の授業をしたとかそんなシーンはなかった。なかったからと言って、この世界が原作と違うとも言い切れない。

 私にとっては印象的だったけれど、エリザベス視点では些細な事だろうし、今後の何かに関わるようなこともないだろう。

 今私が、ルークに頼まれて二人を観察しているのも、原作にはなかったけれど、物語の裏で行われていた可能性は否定できないのだ。

 それにしてもホームルームが終わっても、二人は一言二言会話を交わしただけ。

 これだけ見ていれば、ルークが二人の様子に不安になるのはなんとなくわかる。

 大丈夫です。二人はラブラブです! って、材料は一つもない。二人が想いあっているはずだと思っていてさえ、安心できない感じだ。

 とりあえず、観察一日目は、よくわからないって結論ということにしようと諦める。

 そのまま部室へ向かうことにした。

 歴史研究部は、部室棟の三階なので、階段を上ると、なぜか部室の前の廊下に人が並んでいた。

 一年生の女生徒ばかりが三名ほど。

 なんだろうと思う。

「ちょっと、あなた。並びなさいよ」

「え?」

 部室に入ろうとしたら、先頭の女性に呼び止められた。

「何の列なのですか?」

「入部手続きの列よ。順番、守って頂けないかしら」

 女性は、息を荒くして私に注意する。

「……あの、それであれば、私は既に入部しておりまして」

「はぁん? あなた一年生でしょ?」

 一年生だとおかしいのだろうか。すでに入部は先月から始まっているのだ。一年生が既に入部しているという発想はないらしい。

 なんか説明するのも面倒だし、並んだ方がいいかなーなんて思っていたら、おそらくこの列の原因の人物が階段を上ってきた。

「わぁ」

 目にハートが浮かぶという状態を、初めて見たかもしれない。

 並んだ女子たち全員が、うっとりとルークを見つめる。

 まあ、気持ちはわかる。私もじっと見ていると動悸と息切れがしてくるから。

「何やってんだ?」

 ルークが不思議そうに首をかしげた。

「あの」

「入部手続きの順番を待っているのです! マクゼガルドさま。いつもお世話になっております。メクゼ伯爵家のナーサです!」

 先ほどの女性が声をあげた。

 あれ? ルークは私に話しかけたわけじゃなかったんだ。自意識過剰だった。お知りあいなら当然かもしれない。

 私は口を閉じる。

「ふーん。そうか。で、何故お前はそんなところにいる?」

 ルークは片眉を上げ、私の方を見る。

「その子は、さっき来たばかりで」

 女性が私の代わりに説明すると、ルークは冷ややかな目で女性を睨みつけた。

 自分が睨まれたわけじゃないけれど、怖い目だ。ちょっと彼女が可哀想になる。

「それで?」

 これは私に聞いているのだろうか。

「その、私はまだ入部していないと思われたみたいでして」

 私はおそるおそる説明する。説明することで、彼女の立場を悪くしたら申し訳ないなあとは思うけれど、事実は事実なので仕方ない。

「ふーん。部紹介から一か月もたってから入部に来る奴の方が不自然なのにな。ま。突然入部希望者が来たのは、生徒会からの広報のせいだろうが」

 ルークは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「広報って?」

「知らんのか? 各部の役員名簿だ。食堂の掲示板に張ってあっただろう?」

「……そうでしたっけ?」

 全く記憶にない。そういえば、掲示板があったような気がする。まったく見てなかった。

 私、食べることに集中しすぎかもしれない。

「まあいいか。とりあえず、中に入ろう、

「……え?」

 ルークは扉を開いて、私の手を引く。

 ちょっと、いろいろ頭がフリーズしてしまった。入部待ちの女生徒からの視線が背中にささって痛い。

 扉が閉まると、ルークは手を離して、いたずらっぽく笑う。完全に意図してやったことだとわかるけど、名前呼びと手を握られたことの破壊力がすごすぎて、息ができない。

 部室には、カンダスの前で手続きをしている女性がいた。

 ルークが入ってくると同時に、女性はルークを見ている。入部の動機はとてもよく分かった。

「随分と入部希望者が来たもんだな、外にも三人待っていた」

「いえ、それでも今年は去年よりは少ないですよ」

 カンダスが苦笑する。

「誰かさんが、表に出たがらなかったので助かったかもしれません。この程度なら、トラウ嬢の言うとおり、気長にこの部活を紹介できそうです」

「廃部にならずに済みそうよ」

 くすりと笑ったのは、メイシン。

「それは良かったと思うのですけれど」

 私は小さくため息をつく。

「よし。新入部員はカンダスに任せて、はこっちへ来い」

 ルークが書棚の方で私を呼ぶ。

 部員全員の視線が私に集まる。戸惑う私とは対照的に、ルークは普通の顔をしていた。

「早く来ないか」

「はい」

 返事をしたものの納得がいかない。

「なんて顔しているんだ?」

「マクゼガルドさま、私を虫除けにするのはやめてください」

 一応、他の人には聞こえないように、小さく抗議する。ルークの気持ちもわからなくはないけど、ちょっと私には荷が重い。

「虫除け?」

 ルークは驚いたようだ。たぶん、今までそんな抗議をされたことがないのだろう。

「相変わらず面白いな、お前は。そんなつもりじゃないから」

 そんなつもりじゃないとはどういう意味なのだろう。貴族でない私では、虫除けにすらなれないってことなのかもしれない。

 貴族の令嬢の名を呼ぶのは、よほど親しい間柄でないといけないと聞く。

 でも、私は貴族じゃない。そういえば、ラーズリも私を簡単に名前で呼んだ。貴族ではない私の名前は、きっと意識する必要もないほど軽いものなのだ。

 そう思ったら、胸の奥が急に重く感じる。名前を呼ばれて特別扱いをされたのは事実だけれど、その特別は、大切という意味の特別ではないのだ。

 わかっているけれど、辛い。でも、その辛さは隠すべきものだ。

「私が刺されたらマクゼガルドさまのせいですからね」

 私は平静を装い抗議する。

「大袈裟だなあ」

 にこりとルークが笑う。

「まあ、いいですけどね。変な噂が出て困るのは、マクゼガルドさまの方ですから」

 原作にはそんなシーンは描かれていなかったけれど、婚約者のいないルークの周りに女性が群がるのは当然だ。彼が私に親しみを持ってくれているのは、婚約者の候補にすらならないからだ。

 私はそれを忘れてはいけない。忘れてしまったら、きっと私は原作のアリサと同じ道を辿る。

 そんな気がした。

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