其の六十 家路

 太陽はまだ真上近くにあり、キャップの布を通りしてその熱が頭皮へと伝わってくる。


「なあ、宗二」

「ん?」


 太一は、ゆっくりと俺の後ろを歩いていた。早く家に帰りたいのかと思って急ごうとしたら、「ゆっくり話しながら帰ろうよ」と言われてしまったのだ。


 打ち付ける様に頭上から降っていた蝉の声は、今は横から耳鳴りの様に響いてきている。だが、真下にいるよりは遥かにマシだ。


「……宗二、俺の為に嘘ついて欲しいんだけど」

「え? どういうこと?」


 行きの時の太一とは違い、随分と元気がない。よく見ると顔色も良くなく、青ざめて見えた。


「太一、具合悪いのか? 休憩するか」

「時間ないから、聞いて」


 時間がない。それはすなわち、太一はもう長いこと花の中に居続けることが出来ないという意味なのか。


 そもそも、生きている人間の中に入って自由気ままに意識も身体も乗っ取るなど、並大抵のことでは出来ないに違いない。太一は、それほどまでに家に帰りたくて、俺に聞いてもらいたくて花に乗り移ったのだ、と今ならすんなりと理解出来た。――それもこれも、俺が太一を避けていたからだ。


「……宗二、手、引っ張って」


 これまでの元気で腹が立つほど妖艶な太一のままだったら、断ったかもしれない。だが、太一の声はあまりにも弱々しく、辛そうだった。


「……ほら」

「へへ……」


 手を出すと、太一が握り返す。こんなに暑いのに、太一の手は驚く程冷えていて、内心ギョッとした。本当に身体がきついのだと、それで分かる。


 太一の手に力が入らないので、ぎゅっと握って手を引き歩いた。もう、嫌悪はなかった。あるのは、刻一刻と近付く半身との別れに対する哀愁だけだ。


「で、嘘ってなんだよ」


 繋いだ手の先を見ると、太一は弱々しく笑った。


「俺は、自分であそこに落ちた。父さんと母さんには、今朝そういう手紙を残してきたんだ。多分、もう今頃は読んでると思う。だから、くれぐれも宗二が俺を突き飛ばしたとか言わないでくれよ」

「え……」


 一瞬、太一が何を言っているのか理解出来ず、思考が彷徨う。


 俺は、父さんと母さんに真実を伝えようと思っていた。自分が太一を殺したのだと。それを忘れる為に、太一のフリをし続けたのだと。


 くすくす、と太一が呆れた笑いを浮かべる。


「馬鹿だな、だから宗二は融通が利かないって言われるんだよ」


 馬鹿だな、と口には出しておきながら、その顔には人を馬鹿にした様なものは一切なかった。見えたのは、仕方ないなあと慈しむものを見る、優しい目元だ。


 太一は、やっぱり兄なのだ。殆ど同じ時に生まれても、それでもずっと兄だったし、ずっと俺を守ろうとしていた。


 涙が出そうになり、急ぎ前を向く。


「おい、誰がいつそんなこと」

「くそ真面目でさ、頑固で。適当に誤魔化せばいいのに、正論ばっかりだろ」

「ぐ……」


 太一は可笑しそうに笑った。晴れ晴れとした笑い声だった。


「父さんと母さんを、これ以上悲しませないでよ」

「太一……」


 はあ、はあ、と太一が苦しそうな息をする。家までは、まだ少し距離がある。まだ消えるには早い。家に帰るって言ったじゃないか。太一をこの世から切り離してしまった俺に出来ることは、太一をきちんと家まで連れて帰ることだけなのに。


 泣かない様にと堪えた喉が、痛かった。


「太一、頑張れ。家に帰るんだろ。あと少し、頑張れよ……!」

「へへ……ようやく帰れる……」


 顔色を見ると、さっきよりも更に白くなっているじゃないか。


 おぶった方がいいか。そう考えていると、太一が真っ直ぐに俺を見つめた。


「ようやく宗二が優しい宗二に戻った」

「……太一」


 ぼろぼろと、太一が涙を流す。それはまるで人魚が泡になって溶けていくかの様な儚さがあり、それを見て、太一は本当にもう長らくは花の中にいられないのだと知った。


「俺のこと、忘れるほど嫌わないでよ……すごく悲しかったんだぞ」


 何も、言い返せなかった。


 そのまま、ただ太一の冷たい手を握り引っ張り続ける。滲む涙は、きっともらい泣きだ。自分の涙では、ない筈だ。今更悔やんだとて、過去は戻せないのだから。


「花が来てから、段々宗二は俺に冷たくなってさ……俺、それが嫌で嫌で、宗二にこっち向いてもらおうってすればする程、お前は俺のこと避ける様になってさ」


 ひっく、ひっくと泣きながら、いじけた様にぶちぶちと文句が次から次へと出てくる。前を向く俺の頬を、ツウ、と涙が伝った。


「俺も構って欲しかっただけなのに、だったら俺も花みたいに好きになってもらえればお前も構ってくれるかなって思ったのに、もっと冷たい目になって」

「――え」


 太一のその言葉に、ガン! と頭を殴られた様な衝撃を受けた。

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