其の五十六 割れ目の底
水の中にいるかと勘違いする程の湿気があるのに、俺の喉はカラカラになり、上顎と舌がくっついた。
「太一、お、俺……」
目の前に、自分が殺した兄がいる。
心拍数は馬鹿みたいに急上昇し、鼓動のあまりの激しさに、喉から内臓が出てくると錯覚した。あの時太一から噴き出した血の様に。
太一は、俺の変化に気付いた。嬉々とした笑みを浮かべ、更に一歩近付く。後退りたくとも、もうあと一歩で裂け目に踏み込んでしまう距離だ。
逃げ場は、もうない――。
こんな状況になっても、それでも生きる道を探す。兄を殺した事実も忘れ、のうのうと生き、花を抱くことばかり考え、自分の阿呆さ加減に嫌気が差した。
それなのに、俺は太一の愛情を受け取るのが嫌だったとそればかりだった。太一は、ずっとここから出たかったのだ。先程自分でもそう言っていたではないか。
俺が太一の墓場をここと定めたからだ。
太一を探そうともせず、全てから逃げ、あろうことか殺した太一として生きた。
馬鹿の極みだ。それで太一の分を生きている気にでもなっていたのだろうか。それが贖罪に足るとでも思ったのか。
太一が、一歩近寄る。
「……宗二、頼む。俺をここから出して、父さんと母さんのいるあの家に帰して欲しいんだ」
「太一……!」
太一の言葉を聞いた途端、あの時背筋が凍る様な思いでただ見つめるしかなかった光景が、脳裏に鮮やかに蘇った。
日光が照らす廊下。母さんと花の背中。
――母さんの手を握る、子供の手。
「う……っううう……!」
今度は、悲しみの涙が溢れた。これだって十分に酷いことは分かっている。自分の手で殺しておいて、太一の母親への愛慕を同情して泣くなど、人のすることではない。これも結局は俺の自己満足に過ぎず、泣いて反省する様を太一に見せることで太一が許してくれるのでは、と頭の片隅で小狡い俺が計算しているのかもしれなかった。
涙混じりの声で、太一が訴えかける。
「宗二、俺、もう目を覚ましたらここに戻ってるのは嫌だよ」
太一のそのひと言が、俺の背中をトンと押した。
◇
「宗二、あちこち尖ってるから気を付けて」
割れ目の上から、花の顔で太一が心配そうに声を掛ける。
「ん、分かった」
これまで太一に対し感じていた恐怖は、先程の太一の言葉で霧散した。太一が俺を追いかけ回している様に見えたのは、家に連れて帰ってもらいたいだけだったことが分かれば、怖いことはない。
それなのに、過去を湾曲して思い出し、太一の愛が重い怖いと嫌悪を示していた自分が、ただひたすら恥ずかしかった。
隙間は、俺の肩幅ぎりぎり程度しかない。深さは思ったよりもあり、下の方は雨水が流れるからかやや広くなってはいたが、差し込む陽の光が少なく先がよく見えない。
確かにこんな隙間があるなど、横から見ただけでは分からないだろう。だが、何故見つからなかったのか。山探しをしたなら、ここも探さなかったのか。
「ツ……!」
出っ張りに手を掛けると、見た目に反し鋭利だった様で、指の関節の内側がピッと切れた感覚があった。
「宗二、大丈夫!?」
「ちょっと切っただけだ、大丈夫」
見ると綺麗にスパッと切れて血が滲んでいるが、大した深さではない。
足場を探しつつ、再び下へと向かい始めた。
何故花に取り憑いたのか、花はこの先どうなるのか、何故花の身体を使って俺に抱かれようとしたのか、気になるところは沢山ある。
だが、今はそれは横に置いておくことにした。
太一がこの巨大な墓場で眠りにつくことが出来ずに彷徨いているのは、どう考えても俺の所為だからだ。
まずは、太一の身体をこの暗い裂け目から出してやろう。どういう状態になっているかは正直見るのが恐ろしかったが、家に帰りたいと泣く兄を置いていけるほど、自分を卑劣な奴にしたくはなかった。
――あと少し。
「わっ」
右足がずるりと滑り、身体中からブワッと冷や汗が出る。
すると、落ちた右足は、そのすぐ下にあったらしい割れ目の底に触れた。
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