其の六 子供

 散々泣いた後は少し気恥ずかしくなり、縁側で蚊取り線香と共に寝転がっていると、花がやって来た。


「宗ちゃん、てまた呼んでいい?」

「……ん」


 花は縁側に座ると、足をぷらぷらとさせる。


「蚊に刺されるぞ」

「黒いからあんまり刺されない」

「何その都市伝説」

「どこの都市?」


 花はふふ、と笑った。花の斜め後ろから、華奢な背中を見上げる。縁側の先は、雑草が生えた、多分うちの敷地だと思う空き地が広がっている。その先を少し下ると、今日泳いだ、というよりは水浴びをした川があった。


 視界の先は真っ暗で、向こう岸の森は真っ黒な影にしか見えないが、その上空には、見事な天の川が流れている。時折寝惚けた蝉が少しだけ鳴くのが、憐れみを誘った。


「……ねえ、何かを思い出したりした?」


 花が、背中を向けたまま尋ねる。こっちを見ればいいのにと思いながら、花の背中を見つめ続けた。細い、小さい背中。ぎゅっと力を入れて抱き締めたら、ぽきりと折れてしまいそうだ。


「思い出したって、何を?」

「……あの日のこと」

「……分かんねえ」


 俺は、素直に答えた。先程から、転がりながらずっと記憶を辿ってはいたのだ。俺の子供の頃の記憶は、よく考えたら普通に宗二自身の物だった。だが、太一の記憶だと言っても殆ど齟齬そごがなかった為、今まで疑問に思わなかったのだろう。


 それ程に、俺と太一は同一だった。常に一緒にいて、殆ど離れることはなかった。


「……学校の皆も、このことは知ってるんだよな?」


 登校を再開した際の、奇特なもの、或いは不可解なものを見る様な級友達の目つき。それはそうだろう、双子の片割れが登校してきた途端、死んだ方を名乗り始めたのだから。


「小学校の子は、まあね。でも子供の時のことだから、皆すぐに気にしなくなってたと思うよ」

「そっか……」


 距離を置かれたと思ったのも、これが原因だっただろう。ずっと引っかかっていたことがすとんと腑に落ちたはいいが、今度は今更宗二としてどう生活をしていけばいいのか。


 高校でも、俺は太一で通っている。宗二に戻すとなると、またあの変なものを見る目で見られるのかと思うと、憂鬱ゆううつだった。


 でもそれよりも、もっと大事なことがあった。


「俺、ずっと七年間も太一のことを思い出してやらなかったんだな……酷い弟だよ」

「宗ちゃん……」


 ようやく、花が振り返った。手を伸ばせば、床に付いた花の手に届きそうだ。


「太一、俺のこと怒ってないかな」


 自嘲気味に、笑う。太一は明るい奴だったが、同時に感情の起伏も激しく、気に入らないことがあるとすぐに怒って手を出すタイプの子供だった。多分、俺が気弱でちょっとからかわれても笑って誤魔化すのを見て、代わりに怒ってくれていたんだろう。


 段々、思い出してきた。クラスメイトに足を引っ掛けられて転んで泣いたら、太一は躊躇せずそいつに殴りかかった。そいつの方が圧倒的に体格がよかったので、太一の方がボロボロになって顔中青あざだらけになったが、喧嘩は勝った。相手は泣いて逃げたけど、太一は一度も泣かず、勝った! と勝ち誇っていた。


 太一は、そういう奴だった。


「……怒ってないよ、きっと。だっていっちゃん、宗ちゃんのこと大好きだったもん」

「そうだっけ」


 正直、よく覚えていない。やはりあの事件前後の記憶があやふやだが、もう七年も前の、しかも子供の頃の記憶だ。全てをちゃんと思い出すのは、もしかしたら不可能に近いのかもしれなかった。


 でも、あの頃の花のことはちゃんと覚えていた。今とは違って真っ白な肌にストレートの黒髪が、始めから気になって仕方なかった。気弱そうな怯えた様な目が、俺の顔を見つけるとふわ、と笑うのが大好きだった。


 そうだ、何でこんな大事なことを忘れていたんだろう。


 俺は、花のことが好きだった。


 だけど、太一は花のことはあまり好きそうじゃなかった。あいつすぐ泣くから嫌い、なんて本人に聞こえる様に言っていたことを思い出す。それでまた花が泣くものだから、太一を軽く注意し、花を泣き止ませようと躍起になったことも思い出した。


 そうだ、一度、たまたまポケットに入っていた飴をあげたら、花は宗ちゃんのポッケは魔法のポッケだ、と言って泣き止んで笑ったんだ。だからそれ以来、いつもポケットに飴を大量に忍ばせる様になった。太一が怒ってふん、と先に行ってしまうタイミングを見計らって、二人だけの秘密だと言って渡すと、花はいつも嬉しそうに笑ってくれた。


「花」

「うん?」

「あの飴って、全部食ったの?」


 そこそこ大量に渡していた記憶がある。俺の言葉に、花は嬉しそうに笑った。


「宗ちゃん、ああ、本当に宗ちゃんだ……!」


 そして、また泣き出してしまった。


「え、ちょっと花」


 慌ててポケットを漁るが、勿論飴なんて入っている訳がない。そもそも、甘い物は元々好きじゃない。あの飴は、母さんが箱買いしていた隠しお菓子在庫から拝借していたものだったけど、そういえばばれなかったのか。


 色んな記憶と疑問が、頭の中に同時に流れる。


 急いで起き上がると、飴の代わりに花の手を上から握った。


「あ……飴の代わり」


 すると、泣き顔の花が俺に飛びついてきた。え⁉ えええ⁉ やばい全然ゴボウじゃない、何だよこの柔らかさ! 俺は興奮しつつも冷静を装うべく、花の背中をトントンした。さすがに抱き締め返すのは、恥ずかし過ぎてまだ出来なかったから。


「宗ちゃん……! おかえり、おかえり……!」


 花が泣きじゃくる。


「ずっと会いたかったよ……!」


 俺の目頭が熱くなる。ああ、花はこんなにも俺のことを待っててくれたのだ。なのに俺って奴は、太一に成りすまして自分だけ太一の死に向き合わないで逃げた。


「花、ごめん、ごめんな。俺、これから頑張って何があったかも思い出すからさ……!」


 そう言った瞬間、俺にしがみついていた花の手が、ピクリと動いた。


「……無理に思い出さなくて、いいよ」

「え? でもそうしないと太一も浮かばれないし……」

「忘れてても、いいんだよ」

「え? 花?」


 花が何故そんなことを言い出したのかが分からず、いつの間にか花の髪にうずめていた顔を上げた、その時。


 暗闇に浮かぶ雑草の波の中に、日に焼けた子供のふくらはぎが二本、見えた。家から漏れる明かりが照らす範囲しかそれは見えず、膝から上は黒い影にしか見えない。だが、あれは確かに子供だ。こんな時間に、川の近くなんて危ないぞ。その子供が川の方に行かないか心配になって、目を離せなくなった。


「花、子供がいる」

「え?」


 花が振り返ろうとすると、細い足は踵を返し、闇の中へと消えていった。


「子供? どこ?」

「いや、今走って行っちまった。川の方はさすがに危ないけど、大丈夫かな」


 縁側の下に投げてあった便所スリッパに近いサンダルを履くと、先程子供がいた場所まで行ってみた。辺りを見渡すが、暗くてよく見えない。水の音は聞こえないから、多分川の方には行ってない筈だ。


「いた?」


 花が聞いてきたので、首を横に振る。


「もういない。この辺、あんな年のガキいたっけな?」


 この辺りの高齢化の進み具合は、町の方よりもかなり顕著だ。小学校も、俺達の頃よりも更に子供が減って、今じゃ統合に統合を重ね、ただでさえ遠かった小学校が片道一時間だとかいう話も聞いている。


「夏休み期間だから、どこかのおうちに帰省で来てるのかもよ」

「ああ、まあ自然だけはたっぷりだもんなここ。子供が遊びに来るにはいいかもな」


 それにしても、まだ八時過ぎとはいえ、子供が一人で彷徨くなんて不用心過ぎる。


「まあ、次に見かけたら注意しとくか」

「宗ちゃんって本当そういうの放っておけないたちだよね」


 花が、涙の渇ききらない顔のまま、くすりと笑った。

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