第34話 あの鼻毛の話はもう結構

 暗い気持ちになっていても、マヨネーズは喜ばない。


 私は、自分の価値については一旦横に置いておくことにした。


 だって、王太子の婚約者という私の価値はなくなったが、それはあらかじめ分かっていたことだし、私は未だ公爵令嬢ではある。ただし、我が家の場合は跡取りがすでに決まっている以上、私には金銭的価値も大してない。そんなの、こうなる前から分かっていたことに過ぎない。


 だから、今私に残されているのは、マヨネーズに対するパッションだけなのだ。であれば、私はこれを二人の手を借りて必ずや完成させ、私に価値がないなどともう言わせない位、マヨネーズの第一人者になってやる。そして、強大なマヨネーズ帝国を作り上げるのだ。


「ナタ、あそこの店は品揃えがよさそうだぞ」


 レオンが私を振り返る。レオンが笑顔だったから、私も笑顔になった。


「色々試したいわよね。少量ずつ買えると嬉しいんだけど」

「だな。出来ればあまり油の臭みがないものを選んだ方がいいんじゃないか?」

「レオン、いいアイデアね。それ、採用するわ!」


 沢山買っても、記録係のホルガーがいないと、収集がつかないのは目に見えている。私達は、とりあえず覚えていられる程度の種類の油とお酢を購入し、家路を急いだ。


 一度、町人のふりをしたナッシュとすれ違うと、彼は視線だけで、今は周りに誰もいないことを教えてくれた。今日は、どうやらまいたらしい。すると、レオンが私を振り返った。


「なあナタ」

「なに?」


 レオンは、少し言いにくそうだ。


「その、もしもだぞ?」


 もごもご、とレオンの歯切れは悪い。でも、私の手を握る力は強いままだ。今度は一体何を言おうとしているのか。今日のレオンは、何だか様子がおかしいぞ。


「なによ、はっきりしないわねえ」

「いやな、怒るなよ? もしもの話だから」

「だからなに?」


 私がレオンを見上げると、レオンの眉は八の字に垂れ下がっている。なんなんだ、一体。私はこの雰囲気の居心地の悪さに、身体がもぞもぞしてしまった。


 レオンが、ボソリと言った。


「もし、アルフレッドにもう一度やり直さないかと言われたら、ナタはその……戻るのか?」

「はあっ!?」


 レオンに言われた瞬間、私の頭に血が昇った。力任せにレオンの手を振り払うと、手を自分の胸の前に引き寄せる。


「信じられない! レオン、貴方は私のことを何だと思ってるのよ!」


 私のいきなりの剣幕けんまくに、レオンは驚きを隠せない様だ。目を大きく開いて、ワタワタと慌てだした。手を掴もうとし、それが胸の前にあるのに気付くと、慌てて肩を抱いて隠すように私を引き寄せる。私を上から覗き込むと、急いで言い訳をし始めた。


「いや、ナタがそうするんじゃないかなんて思ってないぞ! ただ、もし戻りたいと思っているんだったら、俺にはそれを止める権利はないのか……と思ってだな」


 私は、レオンの質問の意味が分からず、しばらくぽかんとレオンを見上げていた。


「……ナタ?」


 はっ。思考停止していた。私は頭をぶるぶると横に振ると、キッとレオンを睨みつけた。


「レオンもホルガーも勘違いしているようだからこの際はっきり言っておくけど!」

「今ホルガーはいないぞ」

「うるさいわね! とりあえずレオンが代表して聞けばいいのよ!」

「わ、分かった。分かったから、一旦端に寄ろう。な?」


 レオンは左右をキョロキョロと見ると、私を道の端に誘導した。家屋の壁際にやってくると、私はレオンにきっぱりと言い放つ。


「私とアルフレッドの間に、恋愛感情は一切なかったの! ある筈がないでしょ! だからそもそもやり直すとかはないの!」

「……そうなのか?」


 レオンは、意外そうな表情だ。そもそもどうしてそう考えたのか、そっちの方が気になった。私はふう、と息を吐くと、呆れ顔でレオンに言った。


「恋愛感情が微塵みじんでもあったら、あんな断罪みたいな婚約破棄を演出すると思う?」

「……あれは、むしろ元々恋愛感情があったからじゃないのか? 少なくとも、俺はそう思っていたが」


 レオンが、鼻の頭をポリポリと掻く。


「はあ!? あの鼻毛にそんな繊細な感情がある訳ないでしょ! レオンの勘違いよ、勘違い!」


 私は、人通りの多い通りにいるというのに、ついぽろっと禁句である鼻毛のワードを出してしまった。案の定、レオンがそれに反応する。少し目を笑わせながら。


「あの鼻毛……お前もなかなか言うな」

「はっ! しまった! 誰かに聞かれたら私の首が危ないわっ」


 私が慌てて首を手で隠すと、ぶはっとレオンが笑った。


「いやな、好きの裏返しは嫌いって言うじゃないか。アルフレッドのお前に対するやりようは、愛を得られなかったが為の憎しみからくる腹いせかと思ってたんだ」

「腹いせぇ? 悪いけど、生まれてこの方あの人に好きとか愛してるとか、ひと言だって言ってもらったことはないわよ?」


 あいつが私に対し持っていたのは、支配欲だけだ。アンジェリカ嬢に出会い、彼女に一目惚れする迄の間、あいつには恋愛感情なんてそもそも存在しなかったと断言出来る。あいつには、私を含め、他人は全部自分に平伏すものだと思っている節があったから。


「……一度もなかったのか?」


 レオンが、少しあわれむそうな目で尋ねた。そういう目は、そこそこストレートにみじめになるから、是非ともめてもらいたい。


「ないわよ。ある訳ないでしょ」


 が、レオンはしつこく食い下がる。


「自分の嫁さんになる相手だぞ? 好みでなくとも、好きになろうという努力くらいはしないものか?」


 どうしたどうした、何故そこまでアルフレッドが私を好きだったと思いたいのだろうか。理解不能だ。


「努力ねえ」


 私は鼻で笑った。とある日のアルフレッドのあの行為が、アルフレッドの努力の結果だったというなら、それこそあいつは人間として終わっている。あの日を境に、アルフレッドの私に対する態度は取り返しのつかないレベルにまでなってしまったが、それはもう過ぎた話だ。


 だが、それはレオンには関係のない話だ。そして、こればかりはホルガーにも言っていない。普段温厚なホルガーでも、さすがに切れてしまうのでは。そうしたら、王都から追い出されてしまうのでは、という不安から、言えなかった。


 結局は、私がホルガーを連れて自ら王都を出て行く形になってしまったので、結果は一緒だったが。


「とにかく、そんな話はそもそもあり得ないし、私ももうあんな窮屈な生活は二度とごめんだわ。――これで答えになってるかしら?」


 私がふん、と鼻息を吐きながらそう言うと、レオンが凛々しい顔に、ホッとしたとでもいう様な、なんとも言えない笑みを浮かべた。


「ああ、答えになった。――良かったよ」

「え?」

「良かったって言ったんだ」


 レオンは私の肩を抱いたまま、家へと再び向かい出した。


「……なんでよ」

「だって、そうしたら恨まれずに済むじゃないか」

「はい?」


 レオンの言っている言葉は、短すぎてよく分からない。私が片眉を上げていると、レオンは楽しそうにハハッと笑ったのだった。

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