第26話 ナッシュ・チェスター

 ナッシュ・チェスターと名乗った金髪の軽そうなレオンの従者は、私の腕に出来た擦り傷に気付くと、慌てた様にポケットからハンカチを取り出して当てた。


「ちょっとナタ様! 駄目じゃないですか、怪我なんてしちゃ!」


 そして何故かこちらを責める。ちょっと意味が分からない。ハンカチについた血を確認すると、バケツにハンカチをジャブンと付けて絞った。それをまた私の腕に当て、血を拭き取っていく。


「あ、あの、大丈夫だから」

「何が大丈夫なもんですか! 困るんですよね、折角レオン様が珍しく興味を示したご令嬢がこうも容易たやすく怪我なんてされちゃあ。いやあでもこれでうまくいったら僕もいよいよ立場向上かなあ、なんて。えへへっ」

「きょ、興味を示した?」


 私が盛大に顔を引きつらせながら聞き返すと、ナッシュが何を言ってるんだという顔になった。


「ナタ様、昨日言われてましたよね? 『俺はお前に興味が湧いた』って。うっひゃあ! いい男が言うとああいうくっさい台詞も決まるもんなんですねえ! 僕には一生真似出来ないや!」

「ええと……」


 従者にくさい台詞と言われる主人も憐れだが、いや待て、その前にこいつ、何故私がレオンに言われた言葉を知っているんだろうか。


「貴方……聞いてたの?」


 私があり得ないものを見る目つきでナッシュを見ると、ナッシュはえへへっと頭を掻いた。いや、笑いごとじゃないだろう、これは。


「いやあ、たまたまっすよ、たまたま! いつも聞き耳を立ててる訳じゃないし、近くを彷徨うろついてると怒られるから、遠くからちょっと口の動きを読んだだけで! てことは、合ってたんですね!? やったあ! 独学でも読唇術どくしんじゅつを頑張って覚えた甲斐がありましたよ!」


 なんて従者だ。いやいやいや。私がドン引きしていると、ナッシュは家の裏口の方をちらっと見て口に人差し指を当ててウインクをした。


「ナタ様、僕に会ったことはご内密に。まあ困った時は僕の名前を呼んで下さい、レオン様のお相手なら、僕一所懸命お助けしますから」

「え? は!? ちょっとっ」

「僕の立場向上の為に、是非とも宜しくお願いしますね! では!」

「はああっ!?」


 ナッシュは、言いたいことだけブワーッと言うと、他の家の隙間にするりと姿を消してしまった。


「ええ……?」


 嵐の様に現れて去って行ったナッシュに私が唖然として立ち尽くしていると、裏口のドアからホルガーが出て来た。ああ、だからナッシュは一瞬で去ったのだと理解したが、いやどうするんだこのハンカチ。私は私の腕に貼り付いたままだったハンカチを咄嗟に後ろに隠した。


「ナタ、戻ってくるのが遅いから心配したよ」


 過保護全開のホルガーが、私の顔を見てほっとした表情を見せる。


「とりあえずレオンはベッドに移動させておいたから。何か、昨日あの後空きっ腹でワインを二本も空けちゃったみたいで、お腹空いたってうるさいんだよ。ナタの玉子料理が食べたいってずっと言ってて。参っちゃうよなあ」


 迷惑そうにそう言うが、それでも決して仲のよくないレオンをベッドまで運んであげる辺り、やはりホルガーはお人好しなのだろう。そして、私に料理を作って欲しいと伝えにくるところも。


 何だか、こうしてホルガーをずっと付き合わせていることに対し、段々と罪悪感を覚え始めてしまった。かといって、ここでホルガーを王都に返しては、私のマヨネーズ作りが頓挫とんざするのが目に見えている。


「ホルガー!」

「え? なになに?」


 ホルガーが柔和な笑顔を見せる。私はその笑顔に向かって、真剣に伝えた。


「私、きっと最高のマヨネーズを作ってみせるから!」

「お、おお?」


 そこで引くな、我が従兄弟よ。折角人が感謝しているというのに。


「それに、私がいつまでもホルガーを独占してたら、世の令嬢達に叱られちゃうしね!」


 出来得る限りの笑顔になってみせると、ホルガーが少し首を傾げつつふわりと笑った。


「――独占、一生してていいぞ」

「へ?」

「あっナタ、靴が脱げてるじゃないか!」


 ホルガーが慌てて転がっていた私の靴を拾うと、私の前に片膝を付き、私の足をうやうやしく持つと、足裏の砂をぱっぱっと手で払った。先程ぐきっと捻った時に脱げていた様だ。ホルガーは靴をそっと履かせると、まるでお姫様に忠誠を誓う騎士の様に私を見上げた。


「俺は、アルフレッドがナタを解放してくれて、すごく喜んでるから」

「解放って……まあ、王宮は窮屈で牢獄みたいだったのは確かね」


 私がホルガーの言葉にあは、と笑うと、ホルガーはにっこりとしたまま立ち上がって膝をぱんぱんとはたいた。


「もう、あんなところ二度と行くなよ?」

「言われなくったって行かないわよ!」

「ナタの姿を、一生あいつから隠さないと。ナタはどんどん綺麗になってるから、あいつが変な気を起こしたら困るしな」


 あいつ。アルフレッドのことだ。あれは私に会ったところで触手を動かす筈もないが、ホルガーは過保護だけあって随分と心配性だ。それだけ、私の流した涙がショックだったのだろう。


「にしても、ホルガーも私相手にお世辞を言ってもしょうがないでしょうが。そういうのは、ちゃんと自分のいいひとに言わないとよ?」


 私がそう言ってケラケラと笑うと、ホルガーは私の手から水差しを取り、私の背中をそっと押した。家に戻ろうということらしい。


「ナタは、俺がお世辞を言ってるとずっと思ってたのか?」

「そりゃあそうでしょう。アルフレッドの生誕祭に行く時だって、何だっけ? そこそこなお世辞を」

「緑の瞳が吸い込まれそうな程綺麗?」


 私はドアを潜って家の中に入った。


「そうそう、それ! いくら使用人達の前だからって、笑っちゃったわよ!」

「俺は、お世辞を言ったつもりはないぞ」

「またまたあ! いやあね、ホルガーったら!」


 私が笑ってそう言うと、ホルガーが眉毛を八の字にしながら笑った。


「ナタは俺の宝物なのに、宝物を愛でないでどうするんだよ」

「えー……と?」


 何だか、ホルガーの言動はちとおかしくないか? 私達はいとこ同士だし、ホルガーは私の幼馴染でもあって、まあイケメンだけど、どちらかと言われなくても心の友で。


「わっ私にとってもホルガーは一生の宝物よ!?」


 ちょっとどもってしまったが、ホルガーなくしてこれまで生きてこれなかったのは事実だ。私はそう言うと、もうこの話はおしまいにするべく、台所へと急いだ。お腹を空かせたレオンの為に、まずは玉子スープを作ろう、そうしよう。


 台所の棚にあったコップを持って、ホルガーが言った。


「じゃあ、俺はレオンに水を飲ませてくるから」

「うん、よろしく!」


 若干気まずいと思いながらも、私は無理に笑顔を作ってホルガーを送り出した。エプロンを身に付け、気持ちを切り替えよう。マヨネーズ道に、よこしまな感情など不要。必要なのは、マヨネーズ愛、ただそれだけなのだから。


 私はぎゅっと口を一文字に結ぶと、鍋を取り出したのだった。

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