第21話 ハンターレオン
「では、レオンくん、実験を開始して下さい」
掃除をしている間に平常心を取り戻した私は、レオンに実験の再開を告げた。
綺麗に洗って拭かれたボウルには、先程私が割った卵がふたつ分入っている。調理台には、グラスに入った食用油。
レオンが、私の合図と共に卵の
「ナタ、そろそろいいんじゃないか?」
「どれどれ」
レオンが、いい感じに溶かされた卵を見せた。うん、白身と黄身の差はもう殆ど分からない。私はひとつ頷くと、今度は紙とペンを持って待機しているホルガーに言った。
「じゃあ、100ミリリットルから入れるわよ」
「はい、卵ふたつに対して油100ミリリットル、と」
驚くなかれ、なんとこの世界の単位は前世の世界と全く一緒だ。作中で単位について触れていた箇所はなかったと思うが、どうも作者の頭の中では同一に設定されていたらしい。雑なんだか便利なんだかがよく分からないが、他にもこういう現象はちょいちょい散見された。
私は計量カップの半分まで入っている油をどぼんと卵に入れた。
「レオン、撹拌よ!」
「おう」
レオンがかき混ぜ始める。がしかし、一向に混じり合わない。
「油の量が多かったのかしら?」
私はボウルの中を覗き込みつつ、首を傾げた。レオンが物凄い速度で
「分離してる……」
分離、つまり混ざっていない。こういう場合は、どうしたらいいんだろうか?
「レオン、分離したらどうすればいいか知ってる?」
「俺が知ってる訳ないだろ」
「そりゃそうか」
私が考え込むと、ホルガーが提案してきた。
「油が多いなら、とりあえず一回網でこしてみたら?」
「そのアイデア、いただくわ!」
私は指をパチンと鳴らすと、調理台の下の棚をパカっと開けてこし器を探す。ザルタイプの、前世で見た物よりは大分荒い穴の物があった。
私は新しいボウルを用意し、こし器をセットして、レオンに声を掛ける。
「レオン、ここの中にドバッと入れて頂戴な」
「へいへい」
呆れた風に笑いながら、レオンがボウルを傾けた。ドボボボボッと、こし器を持つ私の手に油と卵で出来た液体がかかる。……ギットギトだ。半分はボウルの外に落ち、調理台から伝って私のエプロンを濡らした。前言撤回、やれば出来る子じゃないかもしれない。
「……レオン?」
私の声色に、にやけていたレオンの表情が引き締まった。すっとした顎のラインは男らしくて眼福なのだが、今はその頬をゲンコツで殴ってやりたいと思った。今すぐ。ナウ。
「あ……いや、悪い。わざとじゃないんだ」
私のお気に入りだったピンクのリボンが付いた靴が、油まみれになっている。これを履いて帰るのか?
「どうしたんだナタ……うわっ! すぐに拭こう!」
手に紙を持ったまま私の様子を見に来たホルガーが、大慌てで雑巾を掴み裏の井戸へと走って行った。
レオンはと言うと、おっかなびっくりな態度で、そーっと私の顔色を窺っている。
「な、泣くなよ?」
「……泣かないわよ」
本当は泣きそうだったが、先程もう泣かないと自分で決めたばかりだ。だから、私は唇をぎゅっと噛んで必死に堪えた。
レオンはわざとじゃない、それが分かっているだけに、やるせない。こんな靴を履いてきた自分にも、腹が立った。
レオンはボウルを調理台の上に置くと、台拭きを掴んで私の油まみれの手を取り、拭き始めた。ホルガーよりも大きく固い手だ。
思ったよりも優しく私の手に触れているレオンが、ボソリと呟く。
「ちっさい手……。手首なんか、掴んだだけで折れそうだな」
「間違っても折らないでよ?」
「馬鹿、折るかよ! 人を何だと思ってるんだ、全く!」
昨日往来のど真ん中で大立ち回りをして、人攫いの男の腕をパキッと折っていた人が、何かを言っている。少し落ち着いてきた私は、レオンの焦りがちょっとおかしくて、クスリと笑った。
そんな私を見て、レオンの顔にも笑みが浮かんだ。ホッとした様な、安堵の表情だった。こんな顔も出来たらしい。そして、私のエプロンを見て言った。
「エプロンも脱いだ方がいいな」
エプロンからは、まだ油と卵がぼたぼたと落ちている。確かにこれは早く脱がないと、内側の服にも染みてきてしまいそうだ。私は脱ぐべく腰の後ろに手を回し結び目を解こうとしたが、手がギットギトでうまく取れない。
と、レオンが私の背後に回り、結び目をするっと解いた。そして何を思ったか、そのままエプロンの裾を持ち上げくるくると折り畳み、首に掛かっていた紐を外す為か、私の首に手を触れたじゃないか。
私は思わずゾクゾクッとして、つい変な声を出してしまった。
「うひゃんっ!」
私は首が弱いのだ。メイドに髪の毛を梳かしてもらうだけで、毎度ゾワゾワしてしまう程度には。
触れた手をビクッとさせていたレオンが、驚いた様に言った。
「……なんつー声を出してんだよ」
後ろから覗き込むレオンを顔を上に逸らして見ると、頬がほんのりピンクに染まっているじゃないか。私は慌てて言い訳を始めた。
「く、首は駄目なの!」
私がぬめぬめの手で首を押さえると、レオンがその手を上から握って引き剥がしにかかる。ちょっとちょっと、何をしている。それになんて馬鹿力だ。精一杯抵抗していた私の手が、ぐぐぐっとレオンの胸に押しつけられてしまった。
ちょっと意図がよく分からない。
「へえ……駄目ねえ。でも、我慢しないと脱がしてやれないぞ」
レオンが、明らかに面白がっている口調で言った。なんか、目つきが怪しくはないか? あれ? もしかして私、狙われてる? いやまさか、それはないだろう。人を
でもこの距離は仮にも淑女としてはあまりよろしくないし、それにレオンに触れている手からレオンの身体の固さが分かってしまい、どうしてもドキドキしてしまう。畜生、こんな奴に高鳴るなんて、どうなってんだ私の心臓は。
なので、私は出来得る限りの他人行儀の、キンキンな氷入りの水くらいに冷めた声で言った。
「え、いや結構です、自分でやりますから」
だが、レオンは聞いちゃいなかった。
「なあ、首に触れたらまたさっきみたいな声が出るのか?」
声がワクワクしている。なんでワクワクするんだ、この男。私は焦った。
レオンは私の手を腕で押さえつけ、その手を私の首に伸ばしてきた。私は更に焦った。あんな情けない声を、この男にはもう聞かせたくない。何だか負けた気になるから、ダメ、絶対。
「ちょっと、聞かせてくれよ」
耳元で囁く様に言う声と共に、息がかかる。ぞわわわっと鳥肌が立った。
「ひやああああんっ」
「ぶはっ」
耳元で、レオンが吹く。私はあまりの恥ずかしさに、顔だけでなく耳も首まで赤くなるのが分かった。暑い。
「レオン! からかうのはやめて頂戴!」
私が怒った途端、レオンが二つ折りに折れて笑い始めた。でも手もエプロンも離してくれない。いい加減、離して欲しかった。恥ずかしくて死にそうだ。
「くはっ! おっもしれえ!」
なんて奴だ。それにしてもホルガーが一向に戻って来ない。一体何をしているんだろう。こんな時こそ、助けて欲しいのに。私はホルガーが消えた方向をちらっと見たが、やはり戻ってこない。あいつめ。
「あ、あんたね! 人に生卵ぶつけるわ腕に油垂らすわ、そろそろいい加減に……!」
「ナタ」
レオンの声のトーンが、急に変わった。思わず心臓が飛び跳ねる。イケメンによるイケボイスの急な真面目な声色は、どんな女子だって思わずどきっとしてしまうものだ。
「俺は、お前に興味が湧いた」
レオンが、とんでもないことを言った。
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