0 黄昏の海
なにもかも、あのときと同じだ。
ちよは目を見開き、ほとんど何も考えなかった。
「ひどいことをしないでっ」
少女の前に飛び出し、男と対峙する。
自分よりも大きな男が腕を振り上げている、その動きだけで思わずびくついてしまう。
オーヴァ―ドになっても、戦う力のないちよはいつもだって守られてばかりだ。けれど、恐ろしいからって逃げていい理由にはならない。
震える両手を伸ばして、動こうとしてくれない両足を叱咤して男と睨み合う。
よく研いだナイフのように鋭い男だ。疲れのある目尻が少しばかり不愉快そうに細めて、振り上げた腕が下ろされる。
拳を防ぐことなんて考えなかったちよは息を飲んだ。
「ちよになにするんだよ、おっさん」
こんなとき、いつだってすくい上げてくれる声が割って入った。
かすみは、ふらつきながら男の腕にしがみついて動きを止めてくれたのにちよも前から飛びついて加勢した。
「はやく、にげてっ」
祈るような声でちよは叫んだ。
「はやく、にげるのっ。立て、自分の足で逃げてっ」
助け起こすことも、手をひいて逃げてあげることも今の自分にも、かすみにもできない。
男の動きをとめて、逃げる猶予を与えることぐらいはできる。
少女と目が合う。
ぼんやりとなにも感じない瞳が、はじめて青く染まる。
潮騒みたいな瞳から、自然と泡が零れ落ちる。いくつもいくつも。涙の理由は少女自身にもわかっていないようだ。信じられないものを見るみたいに、ただただ、ちよとかすみを見つめている。
「早く逃げろっ」
「いって」
かすみとちよが渾身の力で引き留めても男をずっとは縛り付けれないことは明白だ。必死で二人は少女に向けて叫んでいた。
少女はふるふると小さく首を横にふった。それは立てないのか、逃げられないのか、どちらかはわからないが、少女は動かない。
じっれたちよが苛立ちを覚えて怒声をあげようとしたとき、かすみが悲鳴をあげた。
見ると片腕の従者がかすみの腕を――両腕を改造して、かなりの重みがある少女をいたもたやすく片腕で引きずり離すと乱暴に床にたたきつけ、さらに無造作に踏みつけた。
もう片方の空いている手でちよの首を掴んで力いっぱい壁に叩きつける。
骨の軋み、肉が裂ける痛みが二人を襲い、悲鳴もあげられない。
「・・・・・・隊長」
男が静かに声をかけると、赤い従者が首だけ動かした。
一瞬だけ迷うように視線を巡らせた男が頷き、泣き続ける少女に近づいていく。
少女はびくりと震え、ひきつった表情で男を見つめて首を横にふった。
「う、うっ・・・・・・」
俯いて泣き続ける少女の涙が淡く輝き、広がり始める。
透明な、けれどあたたかな海のような膜をまとって広がり、車内を包む。
「この力だ、この力があればっ」
男が興奮と陶酔の声を倒れ伏したかすみとちよは聞いていた。
自分たちを包む不思議とあたたかで、けれどどこか悲しいワーディング。
つつまれたちよとかすみは不思議なことに気が付いた。
まだリザレクトをしていないのに、肉体の痛みがひいていく。
ちよは目を見張った。
かすみの腹にある傷がほとんど消えている。
どうして、と思うよりも早く、背にあった車両のドアが開いた。
飛び出してきたのは赤い弾丸――女だ。彼女はためらいなく、従者に近づき、猟銃をほぼ0距離射撃で放とうとする。その一撃を察して従者が身を捻ってかわす。恐ろしいほどの身体能力だ。
従者というものは主の血で作られたものだというが、しかし、これではあまりにも強すぎる。
従者は咄嗟とはいえ、ちよを離さず、腕の脇で女の銃を封じ、あろうことか片足で女の腹を蹴った。
襲撃を受けて女が呻くが、その顔が勝ち気に笑った。
女はすぐさまに猟銃を捨て掌打を従者の脇腹に放ち、素早い動きで片足を軸にして大ぶりの蹴り放った。
見事にそれが決まり従者が倒れるのにちよはようやく解放されて地面に転がり咳き込んだ。
「復活だっ」
回復したかすみは先まで動きを封じられていたとは思えないほど俊敏な動きで身を低くして攻撃の態勢にはいる。
俊敏なかすみの攻撃スタイルはボクシング――一撃が鉄のためかなり重い。
かすみは素早くステップを踏んで従者に殴りかかる。一撃を従者はいなすが二発目は入った。そのまま顎を狙った三発目のとき、かすみは足払いを受けて姿勢を崩す。
従者は深追いせず、すぐに後ろにいる男の元に下がった。
男の手には血で作られたナイフが握られ、すでに戦闘の態勢にはいっている。
数では圧倒的に有利なはずなのに、どうしてか、勝てる気がしない――ちよとかすみは恐怖にも似た感覚に陥っていた。
それは突如として現れた女もだろう。彼女は険しい顔で戦闘態勢を解くことはない。
一触即発のぴりぴりとした空気を破る音がした。
かつん。
鉄を打ち付ける音に全員の視線がそちら――奥にあるドアには、軍服を彷彿とさせる制服姿のメガネをかけた知的な女と、それに抱えられた若い青年が入ってきた。
「・・・・・・マルコ班」
赤毛の女が囁いたのに対峙する男の顔もまた険しくなる。
かつん。
抱えられた青年が片手に持つ杖をくるくると操り、狭い壁を叩いた。
まるで品定めするような動きのあと、青年は目を細めて口を開いた。
「とんだ地獄だな。マスターレギオン」
「・・・・・・その顔、見覚えがある。貴様は・・・・・・椿十九か」
「なんだ。まだ覚えているやつがいたのか」
嘲笑うように椿は口にしたあと、自分をさも大切なもののように抱える女の肩を叩いた。それに女が少しばかり躊躇がちに椿を床に下ろした。
かつん。
「きゃあ、椿さま、どうしますか? しゅらばです。しゅらばですぅ」
「きぃ、やかましいぞ」
「うー、だって、だってぇ」
舌足らずな少女の声が甲高く響く。この場の狂気も恐怖もなにもかも振り払うほどの陽気さだ。
椿が一歩前に進み出ると、首を傾げた。
「まさか逃げられると思っているのか」
「悪いがここで捕まるわけにはいかない。私はまだ目的を果たしていない」
「・・・・・・ほぉ、目的か。聞かせてもらいたいものだな」
「時間稼ぎなら悪いが付き合う気はない」
男――マスターレギオンが口にして素早く手のなかのナイフを溶かした。
どろりとした血が床に広がる。
それが集まり、一つの塊となる。
巨人--狭い室内では上半身を床から生やし、人とは似つかない球体の頭に、片腕には大きな大剣を持っている。こんな室内で振り回せばそれこそ一瞬にしてこの場にいる全員を真っ二つに斬る芸当ができるだろう。
「でかいな」
ぽつりと椿が漏らし、再び床を杖で叩いた。
「お前の獲物だ。喰らえ、侘助」
めきっと音をたてて天上がはずれ--否、溶けたのだ。無数の小さな蟲が鉄を食い破り、そこから巨大なムカデの頭が出てくる。
ムカデは迷うことなく巨人に襲いかかる。大きく振るわれる剣を受け、火花を散らし、食い殺そうと巻き付いていく。
「アイシェ、保護を。きぃ、侘助の力を強めろ」
力強い声の命令にアイシェが飛び出し、ちよを引き寄せた。完璧な動きで片手に持つ拳銃がマスターレギオンを狙い、きぃと呼ばれた幼い少女が手を叩く。
つばき、つばき、くるいのつばき
それはむしのため
歌に合わせて巨人に巻き付くムカデの力が増していく。
無我夢中で暴れ狂う巨人の剣が飛ぶのに、かすみと赤毛の女は後ろにさがった。
「無駄だ、ムカデは一度捕らえた獲物は離さない。そして僕はお前を逃がすつもりはない」
かつん、杖が床を叩く。
「・・・・・・強さは健在ということか」
マスターレギオンが顔を険しくさせた。
「しかし、邪魔はさせん」
その声を受けて控えていた片腕の従者が動いた。
大きく振り上げた手にあるのは血で作った剣。
矢のごとく飛んで椿の杖を持つ左胸から肩を突き刺した。
「あ、いゃああああ、つばきさまぁ」
きぃが悲鳴にムカデの動きが止まった。その隙を突いて巨人が腕をのばしてムカデを引き剥がしにかかる。
椿という命令塔を失いムカデときぃ、そしてアイシェの動きが鈍った。
アイシェはちよと少女を抱えたまま椿に意識を奪われた隙をついて、マスターレギオンは片足をあげて向けられた拳銃を弾き飛ばし、腕を伸ばす。
飛び出したのはかすみだ。
彼女の素早い拳をマスターレギオンは躱しながらバックステップを踏む。そのかわりに飛び出した片腕の従者が容赦のない拳でかすみを牽制した。見事なタイミングだ。
が
赤が咲いた。
赤毛の女はマスターレギオンに狙いを定め、弾丸のように懐に飛ぶ。
彼女の懐にある拳銃が狙いを定めるが、マスターレギオンの手が弾き狙いを狂わせる。まるで踊っているように相手の動きを読み、手を伸ばし、狙い、食らいついて、躱し、弾き、絡みつく。
マスターレギオンの足が女の足をひっかけて、態勢が崩れる。
「っ!」
無防備に後ろによろけた赤毛の女の身をひいたのも、また否定したマスターレギオンだった。
首からさげたドックタグのついたチェーンを掴んで、引きずり寄せる。
「返せっ」
激情の声を赤毛の女は冷たくせせら笑い、態勢は悪いが両足で床を蹴ると、マスターレギオンの腹に向けて飛び蹴りを食らわせた。
チェーンが弾け、首の薄皮が切れて、血が散る。
女の手が伸びて、宙に浮いたドックタグを掴む。
「あ」
女が次に見たのは予想以上の反撃によって後ろに倒れたマスターレギオンが、手に作った真っ赤な剣を車両のドアの隙間に突き立て、脆い部分が破壊する。
開いたドアの――底なし沼へと自らすすんで墜ちていくマスターレギオンの姿。
追い詰められたといって自棄になったという風でもない、黒く淀んだ瞳は執拗さを孕んでいた。
逃げられる!
オーヴァ―ドなのだから、簡単に死ぬことはない。
女のなかで何かが弾け、声がする。
――本当に?
頭のなかにノイズが走る。
「だめぇ!」
女が悲鳴に近い声をあげ、腕を伸ばし、駆け寄った。
開いたドアから差し込む紅色は血によく似ていた。
そのなかにマスターレギオンが溺れていくのを必死で、とどめようとする。
しかし、マスターレギオンは手を伸ばすこともなく、昏いなかに落ちていく。
走り続ける車両の周囲はちょうど山のなかにさしかかっていた。
目に染みる緑をたたえた木々、民家がぽつぽつと見えるばかりだ。
一瞬の黄昏が暮れて、果てしない闇が広がる。
マスターレギオンを浚われてしまったのに、赤い髪を風に弄ばれたまま女はその場に力なく座り込む。
「マスター、あいつなら生きてますよ」
「・・・・・・また、取り逃がしちゃったわね」
一拍遅れて自分の身を飾り、支えてくれる相棒の慰める声に女は力ない声で返事を返した。
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