常世異聞録

日浦 かなた

第1話

「ああ、暑いな……」

 うだるような暑さに少々うんざりしながら、桂木 透真は駅前の小さな広場に設置されているデジタル温度計に目を向けた。

 デジタル温度計には午前十時現在で三十三度。透真の母親の実家があるこの伊川町は盆地にあるので、暑さ寒さの差が激しいのは彼も承知してはいる。が、いくら八月上旬とはいえ、この時間帯の気温としてはあまりにも高い。

「それにしても伯父さん、来るのが遅いな。もう約束の時間、三十分も過ぎてるのに」

 透真は今日から一週間、母親の実家に宿泊することになっていた。九時半に母親の兄――透真の伯父がこの伊川駅に迎えに来てくれることになっている。しかし、約束の時間からもう三十分経過しているといのに、遅れるという連絡の電話すらかかってこない。

 仕方がないので、何か飲み物でも買ってこようと近くにある自販機に足を向けようとした時、透真の目の前に見覚えのある濃いブルーの車が停車した。運転席から窓を開けて顔をだしたのは、件の伯父だった。

「遅くなって済まないね、透真くん。父さんがなかなか朝食を摂ってくれなくてね。大丈夫だったかい?」

「伯父さん、気にしないでください。俺は大丈夫です。ついさっきまで、日陰にいましたから」

「でも、暑かっただろう? 早く車の中に入りなさい。中は涼しいから」

 伯父に促され、透真は車の後部座席に乗り込んだ。伯父は透真が乗り込んだのを確認して車を発進させる。二人を乗せた車はひと気のほとんどない伊川駅を出て、目的地へと向かって走り出す。


 駅を出てから十分ほど走ると、窓の外を流れていく風景が建物の群れから田畑に変わっていく。所々田畑の真ん中を切り取るように、家や墓が建っている。

「本当にすいません。いきなり泊まりたいだなんて言ってしまって。でも、他に行く所が思い浮かばなかったんです」

「いいんだよ、透真くん。気にすることは何ひとつないからね。しばらくゆっくりしていきなさい。私は君の味方だからね」

 伯父は優しい口調でそう言った。味方がいてくれるということは、透真としてはとてもありがたいことだった。

「何度も説得してみたんですけど、父さんは聞く耳を持ってくれませんでした。どうやら自分と同じ道を歩ませたいみたいで。俺は教師なんて向いていないし、もっと他にやりたいことがあるのに……どうしよう……」

「あの人は頑固なところがある人だからなぁ。透真くんには透真くんの人生がある。押しつけ過ぎるのも、よくないよね」

 透真は現在、家族――特に父親との関係に悩んでいた。

 小学生の頃、透真は家族旅行で行ったチェコの美術館で観たミュシャの「スラブ叙事詩」に魅了されイラストレーターを志すようになった。そして中学三年生の時に、将来イラストレーターになりたいから美術科のある高校に行きたいと家族に打ち明けたところ、父親に猛反対されてしまった。結局透真の希望は通らず普通科の高校に通い、そこの美術部に入って絵を描いている。それ以降父親との関係は冷え切っており、ここ一年はろくに会話もしていない。

 桂木家は昔から教育関係の仕事をしている者が多く、曾祖父の代からは全員が教師をしている。祖父母も父親の兄弟姉妹も、透真のいとこや七歳年上の兄も。だから当然、透真も教師になりたいと思っていると父親は信じて疑わなかったのだろう。

 しかし、人にものを教えるのが苦手な透真にとって、教師が一番向いていない職業だと思っている。だから父親に何度言われようとも、教師になるつもりはなかった。

 昨日、進路のことで父親と大喧嘩をした。しばらく家族とは距離を置こうと決意し、透真は逃げるようにこの町にやって来た。どこに行くかは言っていない。告げ口されても困るので、友人にもこのことは秘密にしている。

 突然、ジーンズのポケットに入れていたスマートフォンが震えだす。慌ててポケットから取り出してみると、父親からの着信。これで何度目になるか分からない。家を出る時、家族からの電話やメールなどは全て無視することに決めていた。電話を取らずに放置していると、程なくしてスマートフォンの震えは止まった。

「電話、出なくてもいいの?」

「いいんです。ここにいるうちは、出ないって決めているんです」

「そうか……ああ、もうすぐ家に着くからね。お疲れ様」

 視線をスマートフォンの待ち受け画面から窓の外に移す。車はいつの間にか、母の実家のすぐ近くまで来ていた。


「透真、いらっしゃい! 元気にしてたかしら?」

「久しぶりね、透真! お正月の時以来かしら?」

 家の中に入るなり、まったく同じ顔が二つ並んで透真を出迎えた。この双子の姉妹、名前を上条 朝美、上条 夕美といい、母方の従妹である。朝美が姉で、夕美が妹。いとこたちの中では唯一、透真の心許せる存在であった。

「二人とも、久しぶり。元気にしてた?」

「うん、まぁね。元気だったわよ」

「私たちは元気だけが取り柄だからね! 元気を取ったら何もなくなるわ」

 そう言いながらも、二人の表情はどこか冴えない。正月に会った時よりも、さらに暗い顔をしている。

 どうしたのかと理由を尋ねようと透真が口を開こうとした瞬間。荒々しい足音がこちらに向かってきた。朝美と夕美の表情が固くなった。

 姉妹の背後から姿を現した足音の主は、三人の祖父だった。その形相は凄まじく、まるで鬼のよう。

「この役立たずどもめ、一体いつまでそうしているつもりなんだ! 早く昼食の準備をせんか! 誰のお陰で飯が食えていると思っているんだ? 誰のお陰でこの家に住めると思っているんだ? え?」

「でも、今日の昼食は私たちが作る番じゃないです……お継母さんの番ですよ」

「そうです、違うわよ、おじいちゃん」

 朝美も夕美も異を唱えるが、祖父は聞く耳を持たなかった。更に大声を張り上げて、二人を威嚇する。

「うるさい、口答えするんじゃない! とにかくさっさと準備しろ、いいな!」

 うなだれる姉妹に向かって、祖父は更に罵声を浴びせる。

 透真が止めに入ろうとした時だった。険しい表情をした伯父が、家の中に入ってきた。

「父さん、大声でそんな事を言わないでくれ。近所迷惑だぞ! やめろと何回言ったら分かるんだ? 朝美たちも困っているし、それに透真くんも来ているんだぞ。恥ずかしいとは思わないのか?」

「ふん、別に恥ずかしいこととは思わんがね。本当のことじゃないか。泣けば済むと思っておる……これだから、女は役に立たんのだ」

「父さん!」

 伯父が祖父を一喝すると、祖父は不服そうに鼻を鳴らし、自分の部屋へと引き返していく。その場に何とも言えない、気まずい空気が流れる。

 かつての祖父はあんな風に差別的な発言をするような人ではなかった。三年前に祖母が亡くなってから、少しずつおかしな発言をするようになったが、ここまで酷いものは初めてだった。

「済まないね、透真くん。こんなところを見せてしまって申し訳ない」

「いえ……」

「ほら、とにかく上がって上がって」

「叔母さんの部屋、綺麗にしてあるから。いる間はそこを使ってね」

「うん、ありがとう。しばらくの間、お世話になります」


 昼食時になってもなお、祖父は朝美たち姉妹をなじり続けていた。そのほとんどは食事の味付けについてだったが、時折彼女たちに差別的な言葉を投げかける。

「女に学歴なんて必要ない。朝美も夕美も高校なんてさっさと辞めて嫁に行け。勉強よりも家事を覚えろ。この家に女は嫁以外いらないからな」

 時代遅れの言葉ばかりが祖父の口から放たれる。

「今はそういう時代じゃないだろう。ふざけたことを言うのは止めてくれ、父さん。朝美、夕美、お前たちは気にしなくてもいいからな」

「そうですよ。今はもうそんな時代じゃありません。止めてくださいませんか、お義父さん。二人とも気にしなくてもいいからね」

 心ない言葉を姉妹にぶつける祖父に意見する伯父と伯母。実はこの伯母は、姉妹の本当の母親ではない。六年前に彼女たちの本当の母親が亡くなった一年後、伯父が再婚した際に上条家に嫁いできた人だった。程なくして男の子を出産したが、血の繋がらない姉妹を我が子同様に慈しんでいる。

「ふん、嫁のくせに何を偉そうに意見しているんだ。お前が男を産んでいなければ、即刻叩き出しているところだからな」

「父さん、いい加減にしてくれないか!」

 今度は伯父が怒鳴る番だった。あまりの剣幕に、思わず透真の箸が止まる。幼い従弟――優太はあまりの怖さに泣き出してしまった。姉妹が必死に彼をあやす。

 祖父は持っていた箸を朝美たちの方に投げつけると、不機嫌そうに立ち上がり、無言で自分の部屋に帰っていく。

「……本当にごめんなさいね、透真くん。来て早々に嫌な思いをさせてしまって」

「気にしないでください。ばあちゃんが亡くなって、寂しいのかもしれないし……もっと他に理由はあるかもしれないけど」

「そうね……お義母さんが亡くなられてから少しずつああいう風になられたんだけど、ここ最近、それがもっと酷くなってしまって」

「本当にどうしたものか……」

 気まずい空気のまま、昼食は終了した。


 昼食後、透真は姉妹に誘われて外出することにした。正直なところ、あのまま家にいると息が詰まりそうだったので、二人の提案はありがたかった。

「酷かったでしょ。ずっとあんな感じなのよ、おじいちゃん」

「前からあんな感じだったのは透真も知ってるでしょ? それに加えて、最近は暴力も振るうようになったの」

 祖母が亡くなってから、女性に対して辛く当たるようになったのは透真も知っている。しかし、暴力まで振るうようになったのは初耳だった。姉妹によると、気に入らないことがあると幼い優太にまで手を上げるという。

「それ、どうにかならないの?」

 二人は力なく首を横に振る。既に諦めているかのようだった。

「どうにかなるんだったら、とっくに手を打ってるわよ」

「ずっとあのままなのかしら。だとしたら、私、もう耐えられる自信がない……透真がうらやましいわ」

それ以降は会話らしい会話もないまま、三人は目的地に向かって歩き続けた。

 目的地が近くなってきたとき、朝美が思い出したように口を開く。

「そういえば二人は覚えている? おばあちゃんが昔、してくれた話。ほら……常世町のこと」

 常世町。

 若かりし頃の祖母が迷い込んだという場所。人ならざる者――妖怪たちが暮らしているという、小さな町。この町について、透真は上条家に来る度に話を聞かされていた。

「常世町? ああ、覚えているよ。妖怪がうじゃうじゃいるっていう町だよな。今の俺たちくらいの時に迷い込んだって、耳にタコが出来るくらい聞かされた」

「あれって、おばあちゃんが作ったおとぎ話なんじゃないの? もの凄く現実離れしているし、私は信じてないけど……」

「それにしてはあまりにも生々しいと思わない? 本当に体験したみたいな、私はそんな風に感じるの」

 確かに作り話にしては生々しいと透真も感じた。まるで、現実にあったことのように思われる。狐の妖怪が作ってくれたという、おはぎがとても美味しかった話や、狛犬と猫又の縄張り争いの話。いつもその巻き添えをくらってしまう旧鼠というネズミの妖怪。

 そんな町があるのかどうか。その真偽を確かめる術はどこにもないし、唯一知っている祖母はもうこの世にはいない。

 透真が視線を上げると、目的地はもう目の前だった。


 三人がやって来たのは、上条家から歩いて十分のところにある小さな神社。小高い丘の上にあり、そこからは町が一望できた。神社の名前は常世稲荷神社。

 この常世稲荷神社にはその名の通り稲荷神が祀られている。階段の手前にはそれを象徴するかのように大きな狐の石像が左右に一体ずつ向かい合わせで鎮座しており、神社へ続く階段には等間隔で朱塗りの鳥居がかかっている。今は亡き祖母によると、ここは江戸時代より昔からある由緒正しい神社であるらしい。

 透真がまだ小学生だった頃、夏休みに帰省すると決まってここで姉妹やその友人たちと遊んだ。リストラされたせいで命を絶ったサラリーマンの幽霊が出ると聞いて、彼女らと一緒になって肝試しをしたことがある。

「ここに来るのも久しぶりだな。小学生の時以来か」

「うん。中学校に上がったあたりから、ここには来なくなっちゃったもんね。勉強が忙しくて」

「ずっとうちで夏休みの課題をやってたもんね。なかなか終わらなくて、父さんに手伝ってもらってたのを覚えてるよ。私」

「よく覚えてるな、そんなこと。何年前のことだよ」

 他愛もないことを話しながら、三人は神社へと続く階段を登り切る。

 神社と言っても大きなものではなく、小さな社がひとつと社務所があるだけ。

 普段なら必ず誰かいるはずだろうに、社務所には人の気配がしなかった。出かけているのかもしれないと、三人は特に気に留めることはなかった。

 まだ陽の高い時間帯だからだろう、子どもたちの姿はどこにもない。聞こえてくる音といえば、風が木の葉を揺らす音と境内を取り囲むように生えている木々から発せられる蝉の鳴き声のみ。

 この時間帯はじっとしていても汗が噴き出すほど暑いのに、何故かここだけはひんやりとした空気に包まれている。透真は何時の間にか自らの汗が引いていることに気がついた。

「ここは涼しいんだな……。さっきまであんなに汗をかいていたのに、もう汗が引いてる」

「あれ、本当だ。汗で湿ってたシャツがもう乾いてる。不思議だわ。一体どうしてなのかしら?」

「木々が日差しを遮っているっていっても、限度があるわよね。なんだかここだけ、夏じゃないみたい。ちょうど、秋の初めくらい」

 朝美のいう通りだった。とても真夏の昼間とは思えないような涼しさだった。いくら木々に取り囲まれていたとしても、ここまでは涼しくはならないだろう。

「まぁ、涼しい方が過ごしやすくていいわ。なんだか釈然としないけどね」

 夕美はそう言いながら社務所のそばに無造作に置かれている木製のベンチに腰掛ける。透真と朝美もそれに続く。

 透真は持ってきたスケッチブックを開き、社のスケッチを始めた。姉妹はそのそばで愚痴をこぼす。

「私ね……実をいうと、あの時おじいちゃんのことをいよいよ殺してやろうかと思ったの。もう我慢の限界だわ。父さんの言うことも聞かなくなってきてるし」

「私も。包丁持ち出して刺し殺してやろうかと思った。何年もあんなこと言われて、気が狂いそうだよ。優太がいなかったら、本当に殺してた」

「何が女に学歴はいらないよ! 時代錯誤も甚だしいっての。いつの時代の話なのよ」

「さっさと結婚して家を出ろって、有り得ないでしょ! 今どき馬鹿でもそんなこと考えないし、言わないわよ!」

 姉妹は積もりに積もった恨みつらみをぶちまける。

「……二人にもそう思うことがあるんだね、俺もあるよ。さっきも言ったけどね、次は躊躇わないかもしれない」

「お互い大変だよね、本当に……」

 視線をスケッチブックに向けたまま、透真は頷く。

「俺も毎日のように、絵を描くなんてどうかしている。そんなことは馬鹿のすることだって言われ続けてきた。教職についてきたわが一族の経歴に傷を付ける気かって」

「何よ、それ。叔父さん、酷すぎじゃない? あんまりだよ」

「何をしたいかは透真の自由じゃないの? 生き方を強制するなんて……そんないわれはないわ!」

 自分のために怒ってくれる人たちがいる――透真にとっては心強い存在だった。


 自宅の縁側に腰かけ、三毛崎 八千代はまどろんでいた。日差しや暑さは家をぐるりと囲む竹林が遮ってくれているので、そこまで気にはならない。

 しかし、吹いてくる風に僅かな違和感を覚えた。いつもカラリと乾いているはずの風が今日に限って重く、瘴気を孕んでいる。

「……おや? 変なモンがこの町に紛れ込んじまったようだね。しかも、複数体ときている」

 ドロリとした、纏わりつくような瘴気。これは〝マヨイ〟と呼ばれる妖怪で、人間の積もりに積もった負の心が生み出すという。

「大河、大河! 昼寝なんてしていないで、ちょっとこっちにおいでな」

 彼女は背後の和室で寝転んでいる孫の名前を呼ぶ。

「……何だよ、ばあちゃん。せっかく気持ちよく昼寝してたっていうのにさぁ。起こさないでくれよ」

「つべこべ言うんじゃないよ。マヨイが出たんだよ、しかも複数体。ほら、さっさと起きて総菜屋にいる根津に伝えてきな。〝マヨイが出ました〟って」

 〝マヨイ〟と聞いて大河は震え上がった。

 あれはかなり厄介な妖怪で、倒すのにはかなり骨が折れる。一体でも面倒だというのに、複数体いるという。しかし、大河にはマヨイ独特の纏わりつくような、嫌な気配は感じ取れなかった。いつもと何ら変わらない。

「マヨイ? 気配なんてしないけど。ばあちゃん大丈夫? とうとうボケちゃった?」

「何を馬鹿なことを言ってるんだい、お前は! 私は耄碌なんかしちゃいないよ。生まれたばかりのマヨイは気配が弱いって言っただろう。ほら、さっさと行きな! 時間を無駄にはできないよ」

 八千代に一喝され、大河はのろのろと立ち上がる。

「分かったよ、行けばいいんだろ。行けば……なんで父さんや母さんに頼まないんだよ……俺じゃ役不足だってのに」

「口答えしない! さっさと行きな!」

 大河はぶつぶつと文句を垂れながら、家を出て行く。出て行ったのを確認すると、八千代は庭に向き直り、再びまどろんだ。

 ここは常世町。人間たちの住む世界とは微妙にズレた場所に存在している、妖怪だけが住む世界。普通、二つの世界が交わることはない。だから人間たちは、この町のことなど全く知らない。

 しかし、マヨイが生まれた時のみ二つの世界は交わる。理由はマヨイを生み出した人間にしかマヨイは退治できない。マヨイが消滅しなければ、双方の世界に甚大な被害を及ぼしてしまう。だからどうしても交わらざるを得ないのだ。

 大河たち猫又一族の住む家は町の東北にある小高い丘の上に建っていた。ここから目的地である伏見総菜屋までは歩いて十五分ほどの距離である。しかし今は緊急事態。のんびり歩いている暇はなかった。大河は玄関脇に停めてあった自転車に跨って、伏見総菜屋へと急ぐ。

 家の前の坂を下ると大河は右に折れ、住宅街の中を進む。

 通常、この時間帯は住人達の多くは妖気を貯めるために家にいることが多い。だが、今日に限ってはたくさんの住人が家の外に出ていた。何人かで寄り集まって、ヒソヒソと話し合っている。その表情は一様に暗い。

 大河が自転車で集団のそばを通り過ぎる度、マヨイという単語が聞こえてくる。

 家にいた時は気がつかなかったが、確かに今はマヨイの気配がする。ドロリと身体に纏わりつくような、嫌な気配。風に乗ってやって来る瘴気のあまりの強さに、大河は吐き気を覚えた。

「すげぇ瘴気だ……やっぱり複数体いるからかな。ああ、気持ち悪い。吐きそう」

 吐き気をどうにか堪えながら、大河はペダルを強く踏んで先に進む。目指す伏見総菜屋はもうすぐそこ。


 伏見総菜屋は常世町商店街の中ほどに店を構えている。この小さな店を営んでいるのは、空狐と呼ばれる徳の高い妖狐一族の三兄妹。彼らの作る総菜はどれも絶品と町では評判だった。

 昼食を買い求める客が引いたので、三兄妹は店の奥にある休憩用の座敷で遅めの昼食を取っていた。店の手伝いをしている根津も、一緒に食卓を囲んでいる。

「今日はやけに変な風が吹くとは思いませんか? 何だか、とても嫌な予感がします」

 三兄妹の次男、伏見 涼音は肉じゃがを口に運びながら、兄と妹、そして根津に同意を求める。

「確かに気持ち悪い風が吹いているな。何だか胃がムカムカしてきた」

「本当ね、吐き気がしてくるわ……。せっかくのご飯が食べられないじゃないの」

 涼音の双子の兄・彩瀬と末妹の桐子は箸を止める。あまり食が進まないらしい。

「もしかしたら、マヨイが来たのかもしれんな……多分、複数体いる」

 根津の放った一言に、三兄妹は顔を見合わせた。彼らの細い両目は驚きのあまり見開かれている。涼音の手から箸がこぼれ落ち、乾いた音を立てて卓を転がっていく。

 それとほぼ同時に店の戸が勢いよく開く音がして、休憩室に青い顔をした大河がなだれ込んできた。

「大河?! アンタ、いきなりどうしたの?」

 大河はここまで急いで来たので、額からは汗が吹き出し、肩で息をしている。

「大変だ……マヨイが出たぞ。しかも複数体らしい。ばあちゃんが根津さんに知らせろって。だから、急いでここまで来たんだよ」

 彼はその場に倒れこんだまま、どうにか言葉を絞り出す。普段からかなりのマイペースな彼がここまで慌てることはかなり稀なことで、滅多にあることではない。前回マヨイが出た時でさえ、のんびりしていたのだから。

「八千代ばあさんが確かにそう言ってたんだな? マヨイが出たって」

「ばあちゃんが嘘つくわけないのはみんな知ってるだろ、本当だよ。根津さんには悪いけどさ、これからマヨイを生み出した人間たちを迎えに行ってもらわなきゃいけない」

 彩瀬が差し出した麦茶の入ったグラスを受け取りながら大河は言うと、麦茶を一気に飲み干す。

「気にすることはないよ、大河くん。案内するのは私たち一族の責務だからね。複数体は初めてのことだから難儀するかもしれないけど……それじゃあ、行ってくるよ」

「根津さんすいません。お願いします」

 根津は立ち上がり、店を出て店の前においてある出前用のスクーターに跨って、目的地に向かって去っていく。向かった先はこの町と人間の世界を繋ぐ唯一の門、常世稲荷神社。

 彼はマヨイを生み出した人間を常世町に案内するのを専門としている旧鼠一族の出身。彼が父から役目を受け継いでからというもの、両の手では数えきれないくらいの人間がこの町を訪れている。それでも、複数体のマヨイが出たのはこれが初めてのことだった。

 スケッチが半分ほど出来た頃。両脇に座っていた姉妹が突然、素っ頓狂な声を上げた。スケッチに没頭していた透真は二人の甲高い声で現実に引き戻される。

 ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる姉妹のせいで、スケッチに集中出来ない。仕方なく、透真はスケッチを中断した。

「何? 二人ともどうしたの、そんなに騒いだりして?」

「透真、あんた何のん気なこと言ってんのよ! アレが見えないの?」

「だから何だよ、アレって……」

 朝美が指さした方に視線を動かす。

 そこにいたのはネズミだった。しかし、ネズミというにはあまりにも大きい。下手をすると小型犬くらいの大きさはあるかもしれない。

 驚きのあまり、透真は言葉が出てこなかった。スケッチブックが手の中から滑り落ち、足もとに落ちる。

「何、アレ? どこから出てきたの?」

「それが分からないの。いきなり湧いて出てきたのよ、アレ」

「そんな、噓だろ? 何もないところから出てくるわけないって、あんなのが」

 何もないところから湧いて出てくるなんて、そんなことは普通、有り得ない。透真はそう思いたかったが、姉妹が自分に嘘をつくとは思えなかった。

 当のネズミはというと、三人が凝視しているにもかかわらず、気にする様子もなく社の裏手の方へと向かっていく。

 社の裏手にはまた別の階段があり、町の北側に通じている。このエリアには小・中・高校が固まっており、近くには図書館もある。姉妹は高校へ行く際の近道として、毎日ここを通っているという。

「ねぇ、透真。アレがどこに行くか、気にならない?」

 姉妹が目を細めて笑う。これは何かを企んでいる時の笑みだ。悪戯や悪だくみをする時、決まって彼女たちはこんな顔をするのだ。

「アレの後をつけてみようよ。なんだか気になるし。ね?」

 たとえ透真がついていくのを拒否したとしても、二人はあの馬鹿でかいネズミを追いかけるだろう。そして捕まえて……その先は考えるまでもない。飼いたいと言うかテレビ番組に珍獣がいるとでも投稿するだろう。心配なので、一緒に行くしかない。

「行くよ、行けばいいんだろう? 二人ともしょうがないな、本当に」

「決まりね! 見失わないうちに追いかけましょう」

 三人はネズミの後を追って、社の裏手に向かった。

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