恐ハラ(こわはら)悪意と呪い
kitajin
第1話 2mのおんなとメンチの切りあいから殴り合いに発展した話
毎夜、自宅の近所の公園で、練習後のクールダウンを兼ねてのランニングしているのは、リングネームをTAKAHIROというボクサーである。
明日に迫った日本タイトルマッチに向け、減量も順調で、体調も万全である。
日本で一番層の厚いスーパーバンタム級のボクサーである彼は、現在二十四歳。ただいま七連勝中で、念願の日本チャンピオンに挑戦となった。
喧嘩には自信があったが、まさか、ここまで来れるとは本人も思っていなかった。地方の弱小ジムで、オーナーもトレーナーも中途半端な指導者であり、本気でチャンピオンを育てようという気もなく、どちらかと言えば、素人会員を集めて、ダイエット教室を開いたほうが儲かるというようなタイプだ。
そんな状況で、喧嘩に強いだけの男が、ボクシングをはじめて数年で日本チャンピオン挑戦という快挙に、本人も周りも戸惑いもし、また喜んでいるという次第だ。
さて、本名、孝弘が自分の実力以上の成績を残せているのには理由があると、自身でそう思い込んでいた。
それは、ジムの帰り、毎日同じ時間に公園でトレーニングすることが日課の彼が、公園の脇を通過する電車の中に、彼女を目撃するようになったからだ。
人は、珍しいもの、変わったものを見ると幸運である、と思う傾向があるように、彼もまた、通過する電車の中に、彼女を見たことを幸運と思うようになった。
毎夜、同じ時刻の電車に乗ったOL風ファッションに身を包んだ彼女は、ドアの丸いガラス窓に頭がはみ出て見えないほどの巨躯で、ゆうに身長2mは超えていると推測できる。
日本の片田舎に2mを超える女性がいること自体、珍しいことで、最初見たときは見間違いだと思ったくらいだ。しかし、彼女は毎夜、同じ時刻に通過する電車の同じ場所に立って、外を眺めているのだ。
彼女を目撃するようになってから、孝弘は目下、七連勝中とあり、最初はふざけた気持ちで思っていたことが今では、本気に考えるようになっていた。
「彼女は幸運の女神だ」と。
しかし、ここのところ、彼女を見れていない。
タイトルマッチが近づくにつれ、だんだんと彼女が見れないことが気になるようになり、練習に訪れていた公園で、いつしか電車の通過するのを待つために練習するようになっていた。
そして、タイトルマッチが行われる前夜、最後の望みをかけて電車を待ったが、しかし、いつも時間、いつもの場所に彼女の姿はなかった。
「どうしたの?なんで怒っているの?」
みさきが、孝弘の顔を覗き込んだ。
「別に怒ってないよ。ただ、落ち着かないだけだ」
孝弘はみさきが用意した減量中のメニューを食べ終え、ソファーに座り、黙り込んでいた。
「明日だもんね、よく頑張ったね」
みさきは孝弘の首に腕を絡ませ、抱きついてきた。しかし、孝弘はそれを邪険に払いのけ、ソファーから立ち上がる。
「やめろよ、試合前はダメだって言ってるだろう」
「別にそういうつもりじゃないよ。ただ……」
「……走ってくる」
「またあ?もう十二時になるよ。あした試合でしょ?」
「だからだ」
みさきの心配顔を無視して、孝弘はウェアに着替えて外に飛び出していく。
アパートから例の公園まで、数百メートル。孝弘の足なら一、二分でついてしまう。寝静まった町の中に電車の通過する音が響いてくる。
孝弘は反射的に、駆け出した。
線路を走る細長い列車の明かりが、前方を通過していくのが見えた。孝弘は2.0の視力を凝らし、電車の窓枠を見つめる。しかし、通過する電車の中に彼女の姿はない。
(ダメか……)
孝弘は本気で落胆した。
完全なジンクス、思い込みに過ぎないと他人からすれば笑いばなしだろう。しかし、孝弘にとっては試合前に、2mのおんなを見れないことが、まるで勝敗を左右してしまうくらい
突然、公園の街頭が消えて、闇が辺りを包んだ。消灯の時刻のようだ。
重苦しい空気が、プレッシャーのようにのしかかり、孝弘は一歩も動けなかった。「フッ、負けるかよ」
つぶやきが、風に飛ばされていく。
相手は十八歳の天才と言われたボクサー。無敗で瞬く間に日本チャンピオンになった逸材だ。
一方、孝弘はボクサーとしては決して若くない二十四歳。戦績は十二戦十勝、二敗という中途半端な戦績だ。下馬評では圧倒的にチャンピオン有利となっている。
しかもチャンピオンはこの試合を最後に、世界に挑戦するため、タイトルを返上するという。つまり、孝弘の試合は世界に向けての調整のようなものなのだ。
(ふざけてやがる)
だが、どんな不平不満も勝つこと以外に報われない世界だ。
実力差も周り以上に感じている。だから、どうしても、勝利の女神の力が必要なのだ。
そのとき、風の中に電車がレールを走る音を聞いた。
ふと見ると、遠くの方から闇の中を二つのヘッドライトが流れてくるのが見えた。
時刻は日付を跨いで、終電は通り過ぎたはずだ。あり得ないが、現実に電車が線路を走って近づいてくる。そして、孝弘の目の前を通過した時、2mのおんながドアの前に立ち、孝弘を見下ろしていた。
「!」
次の瞬間、孝弘は猛然とダッシュをしていた。
電車が通過して、百数十メートル先の公園前の駅のホームに徐行して入っていく。孝弘の足ならギリギリ間に合い、乗り込むことができる。自分でも信じられないくらいにムキになっていた。
電車は駅のホームに入って停車する。
孝弘の行く手を遮るように、遮断機が二本降りてきた。それを潜り、線路を横切って、ホームの階段を駆け上がる。
田舎の無人駅。改札などなく、ホームでは、電車の扉が開いて停車していた。降りる人も乗る人もない。それどころか、車掌の姿も見えない。
それでも孝弘は躊躇なく、電車に飛び乗った。直後、ドアが空気圧の音を響かせ閉まる。
息を整え、車内を見回す。
閑散として、静まり返った車内。乗客の姿はどこにもなく、ただならぬ雰囲気が漂っている。電車がゆっくりと走り出したとき、孝弘は乗り込んだことを後悔した。それでも、息を整え気合を込めると、最後尾から電車中央へ向かい歩き始めた。
すぐに後ろ姿が見え、2mを超える長身のおんながいつもの場所に立っていた。近づくほどに威圧感があり、黒いオーラのようなものを纏っているように見えた。
孝弘の存在に気づいたように、おんなはゆっくりと振り向いた。その顔を見た瞬間、さらに後悔が胸の中心を貫いた。
彼女の顔は、この世のモノとは思えないほど青黒く、目はくぼみ、口は歪み、皮膚はふやけていた。
孝弘は、おんなと対したまま動けずにいた。
すると、おんなの口が、ぱかぁっと開いたかと思うと、口から水が溢れでて、床に小さな魚が二匹、吐き出された。
そして、ごぼごぼと、口から排水官のつまりのような音が響いてきたかと思うと、何やら声が聞こえた。
「……よ……ボク……サー……」
風に乗って、腐臭が漂ってきて、思わず顔をしかめる。だが、孝弘は恐怖を打ち破るように一歩を踏み出した。
すると、おんなが同じように一歩前へ踏み出してくる。孝弘は立ち止まり、一瞬躊躇して逃げ出そうとした瞬間、おんなはものすごい踏み出しで孝弘と距離を詰めてきた。
「やっ……」
次の瞬間、孝弘は伸びてきたストレートをくらい、吹っ飛んで、電車のシートの上に背中を打ち付けた。
「……」
茫然としていた孝弘であったが、目を覚ますように頭を振り、おんなを見上げた。おんなはボクサーのように構えをとって、左右に、体を小刻みにふる。
次の瞬間、孝弘の闘争心に火が付いたように起き上がった。
* * *
「えーっ、それでは新チャンピオンになったTAKAHIRO選手の話を聞きたいと思います。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「どうですか?世界チャンピオンになった感想は?」
「うれしいです」
「チャンピオンのムファサ選手は、最強、最恐の呼び声も高いボクサーでありますが、脅威に感じましたか?」
「いえ、まったく。平常心で闘えました」
「さすがは新チャンピオン。メンタルの練習もされているのですかね?それとも昔から強心臓だったのでしょうか?」
「いえ、ある出来事がきっかけで……」
「ほう、どんな?」
「むかし……」
🈡
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