第3話

 美術室のドアを開けた途端、むっとする油絵の具の匂いに、美奈子は一瞬、息を止めた。

 「ここが最後。絵の中から音楽が聞こえるって」

 「博雅君が知ったら喜んだろうね」

 「まさか」

 水瀬が懐中電灯で室内を照らす。

 デッサン用の彫像や描きかけのキャンパスが無造作に置かれる室内は、やはり昼間とは別の世界であることを示すかのようだった。

 

 「怖い?」

 「いいえ!」

 美奈子は語意を強めて断言した。

 「もうここまで来た以上、なんでも来いって感じだわ!」

 「……ヤケクソっていうんじゃない?そういうの」

 「うるさい!そうとでも考えなければやってられないじゃない!」

 「ふうん」

 

 水瀬は、半ば呆れたような顔で美奈子を見た後、言った。

 「じゃ、もう時間も時間だから、終わりにしようよ」

 「そうね。音楽は聞こえないし、あの女の人も出てこない。結局、原因は不明!これでおしまい!! ヽ(゜∀゜)ノ 」

 「時々、短絡的になるね。桜井さんって」

 「いいのいいの!さ、帰りましょ!」

 ぐいっと、水瀬の袖を掴む美奈子だが、水瀬はなぜか、そこから動こうとはしなかった。

 「まだ終わってないよ?」

 「えっ?」

 突然、水瀬が誰もいないはずの美術室に向けて語りかけた。

 「出てきて。聞こえているんでしょ?」

 「水瀬君?」

 「力になれるかもしれない。だから、出てきて」

 

 待つこと数分。

 

 美術室に変化はない。

 「ほら、やっぱり何も−」


 美奈子が何かをごまかすように水瀬に語りかけたその時だ。

 

 あの女が美術室の奥に通じるドアの前に立っていた。

 相変わらず、口元を袖で隠しているが、今までのような恨めしさではなく、何か、すがろうとしているかのような、そんな顔だった。


 「ひっ!」

 美奈子にそんなことがわかるわけはない。

 オバケはあくまでオバケであって、すがろうが敵対しようが、とにかく怖いものなのだ。

 だから、この女の突然の出現に、腰を抜かせてはいつくばるようにして逃げ出そうとしても無理はない。

 だが、美奈子の襟首を、水瀬が無造作に掴む。

 「報道に携わるつもりなら、ここは逃げる所じゃないでしょ!」

 「そっ、そんなこと言ったって!」

 ジタバタ暴れるが、水瀬に掴まれた襟首は全く動かない。

 「オバケにあったら普通は逃げるって相場が−」

 「この時間、相場は開いてない」

 「時間外取引使ってるのよ!」

 「桜井さん、わけわかんない」

 「わ〜んっ!!怖いものはこわいのよぉ!」


 もう半泣きの美奈子を無視して、水瀬が再び語り出した。

 「君の本体に案内して。袖に隠した口元、何かあったんでしょ?」

 「……」

 水瀬を見つめる女の目に大粒の涙がこぼれた。

 「他言はしないよ。だから、案内して」

 「……」

 フッ。

 女が、ドアに吸い込まれるようにして消えた。


 「いくよ」

 水瀬は美奈子を引きずりながらドアに向かった。

 「み、水瀬君、一体、何?あんなの?あのオバケ!」

 美奈子は、引きずられることにおかまいなしに水瀬に尋ねた。

 「オバケじゃない」

 「へ?」

 「九十九神だよ」

 「つくも……?」

 「モノが100年経つとなるってアレ」

 「結局オバケじゃない!」

 「精霊っていった方が正しいと思う」

 「私の中じゃ、オバケよオバケ!」

 「じゃあ、百歩譲ってそうだとしても、助けてあげなくちゃ」

 「じ、除霊するってこと?」

 「そんなもったいないマネしないよ」

 「もったいない……?」

 

 ドアにかかったプレートには「備品室」とある。

 「桜井さん。このドアの向こうって何があるの?」

 「美術室の備品とか、いろんな作品とか保存してあるはずだけど」

 「ふぅん……」


 キイ……ッ


 ノブを開ける。

 室内は様々な道具や作品で満足な足の踏み場もない状態。

 壁には無数の絵が掲げられ、飾ることが出来なかった絵がラックや床に山積みになっていた。

 「?」

 水瀬は、壁にぎっちりかがけられている中で、一枚分だけ、絵が掲げられておらず、壁が丸出しになっている部分があることに気づいた。


 そして、すぐ先に、あの女が立っていた。

 「どれ?」

 女は、口元を覆っていない方の手で、額縁が山積みになっている箇所を指さした。

 水瀬が黙って何枚かの額縁をめくっていく。

 「あっ」

 3枚目でその手が止まった。

 「……なる、ほど、ね」

 心底関心したという顔の水瀬は、女の方に向き直ると、言った。

 「わかった。知り合いに修復してもらう。数日、辛抱してもらえる?」

 コクコクコク

 女は何度も頷くと、不意に消えた。


 「あ、あの……」

 「これはヒドイよ」


 懐中電灯に照らし出されたのは、一枚の絵だった。


 「……綺麗」

 美奈子も思わず嘆息したほどの見事な水彩画。

 胡弓を奏でながら椅子に腰掛けている和服姿の女性。

 なんでもない構図だが、胡弓の音色に耳を傾ける女性の楽しげな表情といい、しぐさといい、見る者に、今にも胡弓の音色が響いてきて当たり前と感じさせる、そんな不思議な絵だった。

 しかし−。

 問題は女性の顔。

 誰かがマジックで彼女の顔に悪戯書きをしたらしい。

 色白の美しい彼女の顔には、

 

 ヒゲ


 が書かれいた。

 美奈子は、これで理解出来た。

 なぜ、あの女の人が、袖で顔を隠していたのか。

 このヒゲを誰にも見られたくなかったから。

 涙をみせ、この絵まで案内したのも、彼女がこのヒゲを何とかして欲しかったからにちがいない。

 今になれば、彼女が憎悪に燃える心も、美奈子にはわかる。

 むしろ、そう感じて当然だとさえ、思えてならなかった。


 「ひどい。一体誰が!」

 悪戯の限度を超えている!

 こんなことは許されるべきではない!

 まるで絵の中の女を代弁するかのように、美奈子は声を荒げた。

 「絶対、先生に報告して−」

 「それ、困るんだけど……ほら、そこ」

 対して、あくまで冷静な水瀬は、絵の中の女の胸元を指さした。

 美奈子が見る先にあったもの、

 それは−。


 「なぁっ!!?? Σ(OдO‖」

 

 美奈子は、一瞬、我が目を疑い、しばらく呆然とした後、突然、わき上がる怒りに髪を逆立てた。

 というか、完全にキレた。

 

 「桜井さん、落ち着いて!」

 「放して!せめて一刺!」

 テーブルの上におかれたナイフを掴んで美術室から飛び出そうとしていた美奈子を、水瀬が羽交い締めにして止めていた。

 「あのバカ、絶対、ブッ殺してやるんだからぁ!」

  

 女の胸元に書かれていたのはただ一言。

 

 「未亜ちゃん参上!(はぁと)」



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