第7話
朝起きると花瓶が割れていた。
リビングのテーブルにいつも置いてあったものだ。フローリングの上でばらばらに砕け、中の水が飛び散っていた。挿してあった花はぐったりと萎れている。名前もわからない赤い花だ。
いつの間に割れたのだろう。欠片を拾い集めて雑巾に包んで捨て、水を拭いて、掃除機をかけた。
玄関を開けると夏月が「はよっす」と言って手を挙げた。
「おはよう」
「今日もあちいなー。冷房あるとこ希望」
Tシャツの襟の中を煽いで風を送り込みながら夏月が言う。まだ朝早いというのに太陽はもう高い位置にあった。
夏月が同行するようになって二週間が経つ。これまでに行った場所は博物館、科学館、美術館、骨董屋、植物園、古書店……などなど。彼はたまに軽口を叩くものの、基本的には黙ってついてきた。
一週間を過ぎた頃、耐えられなくなって僕は再度口を開いた。
「こんな、よく知らない奴のいつ終わるかわからない不良的素行に、よく付き合ってられるな。君が必死に勉強してつかみ取った青春の日々は、こうして無駄に消費されていくし、社会的規範からどんどん外れていくっていうのに」
「へー。一応俺の話聞いてたんだ」
彼は頭の後ろで手を組みながら言った。
「まあ、乗りかかった舟だし?最後まで付き合うよ。それに真面目に学校言ってたら見れない景色だしなあ。だから無駄じゃねえよ。社会的に外れてんのなんて慣れちゃったしな」
と、彼は能天気に笑った。
「来週から夏休みじゃね?」
水族館で鮫の形をしたアイスを齧りながら夏月が言う。いつの間にか季節は真夏にさしかかっていた。
「斎藤」
「ん?」
大きな水槽を鯨が窮屈そうに泳いでいる。カラフルな魚が、僕らの休憩しているテーブルに影を落とした。僕は宣言した。
「明日で最後だ」
「え、まじで?」
ソーダ色のアイスの欠片がぽろりと落下した。
一時間に一本のローカルバスに揺られる。乗客は頗る少ない。ちゃんと舗装されていない道路を走っていくから、振動がすごくて酔いそうになる。
バスを降りると、潮のにおいがした。一面に砂浜が広がっている。人気はない。ところどころ、貝殻に混じってごみやクラゲが打ち上げられていた。海は、ネイビーブルーというのだろうか、濃い青色で、陽光を一面に散らして、目映いばかりだ。
僕らは浜辺に座ってしばらく、見るともなしに海を見ていた。波が引き、再び押し寄せて砕ける様は、永遠に見ていられそうだった。じりじりと太陽が肌を焼いていくのだが、心地よい熱さだった。
「ここが終点だ」
と僕は言った。
「長い間お疲れ様。明日から学校に行くよ。もうすぐ次のバスが来る。先に帰ってくれないか」
「え、俺ひとりで?」
「なんだよ、一人じゃ帰れないのか?」
「なっ……違わい!いつもは一緒に帰ってたろ」
「余韻に浸りたいんだよ」
手をひらひらと振って、ひとりにしてくれと言うと、彼は「はいはい」と言っておとなしく引き下がった。
「最後にきいてもいいか?」
後ろから声がする。
「何」
「この旅で行った場所って、誰かとの思い出の場所……だったりする?」
はっと息を吸い込んだとき、波の音がぐっと強く感じられた。
「そうだ」
「そっか」
彼は小さく呟いた。足音が遠ざかっていく。彼は先ほどのバス停に向かい、ちょうどやって来たバスに乗り込んで見えなくなった。
僕は視線を前に戻し、まっすぐに海を見つめた。立ち上がり、砂浜を踏みしめて歩いて行く。掴んでいた砂が指の間から、ぱらぱらと浜に戻っていく。冷たい波が爪先を、膝を、腰を飲み込んでいき、眼前できらきら揺れる光に目が離せなくなる。海水に包まれ、重力が軽くなる。焼けた肌が冷やされていく。もっと深く。足のつかないところまで。
ふっと身体が浮いた瞬間、腕を掴まれた。
「バス停そっちじゃねーぞ」
顔を後ろに向けると斎藤夏月がいた。進むのに夢中で、彼が海に入ってきたことに気づかなかったらしい。
「明日は学校行くって言ったの、あれも嘘かよ」
夏月は口の端を上げた。でもすぐ真顔になってこう言った。
「……死ぬ気?」
瞬間、僕は手を伸ばしていた。
飛沫が上がる。目の前に泡がぶくぶくと浮かんだ。
「海で死ぬってどんな気持ちなんだろう」
頭が変に冴えていた。今目の前で起きていること、自分がしていること、何ひとつわからないのに、僕は冷静だった。暴れる彼の頭をさらに波の底に押し込む。彼は僕の手首にしがみついて、懸命にもがいている。彼の吐くあぶくは、心地よい波のさざめきにもみ消されていく。
「僕にはよくわからないんだけど、君ならわかるんじゃないか?なあ、斎藤、どうなんだ」
感触が。手に纏わりつく髪の感触。皮膚の下の血液の流れ、骨の軋み。喉仏の位置。息があぶくになる振動。すべてがリアルなのに、まるで現実感がない。僕は一体、何をしているんだろう。
その時勢いよく腕を引っ張られ、体勢を崩した。水面に顔を思い切り叩きつけられる。水上で咳き込む声が聞こえた。今度は胸倉を掴まれて引っ張り上げられる。頭頂からだばだばと水が流れていき、水揚げされる魚のような気分だった。
「知ら、ねえよ」
間近にずぶ濡れの顔があった。まだ咳き込みながら、彼は言った。
「俺を殺すな。俺にはまだやりたいことがある。お前も死ぬな」
さっきと同じ真剣な目だ。茶色い眼玉が、透き通るように光っている。生命力って、きっとこういう色なんだろう。身体から力が抜けた。
彼は僕のシャツから手を離し、水中で僕の手をとった。そのまま浅瀬の方に引っ張っていく。波に揺られ、彼の後ろ姿を眺めながら、僕は初めて会った日のことを思い出していた。
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