第34話 決勝戦前

 火蜥蜴サラマンダの月、最終日。


 1年で最も気温が高くなると言われるこの日、石の都サンティカはかつてない程の熱を帯びていた。

 それは単に気温が高いという意味ではなく……そこに住む人々の熱狂ぶりを示している。


 かつて常敗と言われた小柄な兎獣人ラビリアン獣闘士グラディオビスタが快進撃を遂げ、優勝候補を悉く薙ぎ倒し、ついには決勝へと上り詰めたとあって、朝の闘技場周辺は異様なまでの混雑に見舞われていた。

 闘技場のあるサンティカに住む人たちのほか、周辺の町や村からも噂を聞きつけた人たちが一目観戦しようと押し寄せている。

 およそ3万もの人間を収容できるはずの客席は残らず埋まり、階段や通路には超例外的に臨時席が設けられるほどであった。

 十分な量を用意していたはずの売店の麦酒ビールは決勝戦開始前にすべて売り切れており、人の発する熱が炎天下の闘技場の温度を更に上げているようにさえ思えてくる。




 そんな熱気渦巻く闘技場の地下 ────────

 外界とは隔絶されたかのように感じる、ひんやりとした空気の漂う選手控室で、俺はピノラと向き合っていた。

 彼女の身体には既にアダマント製の武具が取り付けられており、開始時刻が訪れるのを静かに待っている状態だ。

 ベンチに座っているピノラは緊張しているかと言うと……そんな雰囲気は全くと言っていい程無く、にこにことした表情のまま上目遣いで俺の顔を見上げている。

 そう、どちらかと言えば…………



「むぅ〜? トレーナー! もしかして、緊張してるのっ?」


「う……ま、まぁ、それなりにな。目指してきた舞台とはいえ、決勝戦となるとやっぱり……」


「えへへへ! 初めてだもんねっ!」



 ピノラは嬉しそうに足をぱたぱたとばたつかせた。

 可愛らしい仕草の心を癒されつつも、やはり頭を擡げるような緊張がため息となって吐き出される。

 闘技会グラディア、決勝戦。

 そこに自分たちが居ることが、どれほど凄まじい事なのか……頭では理解していても、今その場所にいるはずの自分はまるで実感が湧かない。

 本来ならば訓練士トレーナーとして、俺がピノラの背中を押せるような言葉をかけてやるべきなのだろう……が、情けないことに、俺のほうが緊張してしまっている。

 自分の鼓動が嫌と言う程に響いてくるし、いくら水を飲んでも唇が乾きっぱなしだ。


 いよいよやってきた。

 ここが、2年間かけて目指してきた舞台だ。

 今までの俺たちからすれば、ここまで来ただけでも驚愕すべき戦績だ。

 だが、あと1勝────────あとひとつ勝利を掴み取れば、このサンティカに於ける闘技会グラディアで頂点に立つことが出来る。

 そんな状況では、この緊張も仕方のない事だ、と思いたい。



 と、そこに控え室の扉を叩く音が響いた。

 呼び出しの合図か、とも思ったのだが……どうやら違うようだ。

 視界開始の時刻までは、まだあと半刻ほどはあるはずである。



「は、はいっ? 何でしょう?」



 緊張のせいで、返事の声が裏返ってしまった。

 俺の様を見て、ピノラは面白そうに笑っている。

 くっ……ピノラも少しくらい緊張してくれたって良いだろうに。



「失礼します。警備の者ですが、関係者入り口にモルダン様の関係者と仰る方が来ております。お通ししてもよろしいですか?」


「関係者?」


「トレーナーっ、シュトルさんかなぁ?」



 返答とともに、蹄についた蹄鉄の音が響いている。

 どうやら扉をノックしたのは、俺たちを警護してくれている人馬獣人ケンタウロス族の女性のようだ。

 試合前に来客があったことを知らせに来てくれたのだろう。



「いかが致しましょう、男性が一名なのですが、もしお心当たりが無ければ…………」


「あぁ、きっと知人です。こちらまでご案内をお願い致します」


「畏まりました。では、お連れ致しますので少々お待ちください」



 そう言って足音が遠ざかっていった後、しばらくして扉の外側に再び同じ蹄の音が近付いてきた。

 扉のすぐ外側で止まると、再度ノックの音が響く。



「どうぞ、お入りください」



 俺は声をかけられるより早く入室を促した。

 鉄枠のある大きな木の扉がゆっくりと開かれると、その向こうに人影が見える。

 警護の腕章をつけた人馬獣人ケンタウロス族の女性の横から部屋に入ってきたのは……クラシカルなスーツに身を包んだ男性だった。

 グレーのスーツに同じ色のシルクハット。

 襟や袖口にジャボやカフスのレースは無く、がっしりとした体型であるにも関わらず薄色のスーツをすっきりと着こなしている。

 ハットと胸元にあしらわれたアクセントの黒い紳士用リボンが、非常に洗練された印象を醸し出している。

 整えられた口髭と丁寧に梳かれた襟足から、往年の紳士の貫禄を感じる、のだが……。

 

 はて?

 見覚えのない紳士だ。

 父親の知り合いか?

 もしくは、商業組合の関係者か?


 まじまじと顔を見る。

 灰色の瞳が、にこやかに俺の目を見返している。

 ん? 灰色の目……?

 まさか、嘘だろ、などと思っていると……紳士は見覚えのある灰色の杖を振りながら笑って答えた。




「よう、アレン。試合前にすまんな」


「ふぇっ!?」


「ええええええええええっ!? シュ……シュトルさんんんんんんん!?」



 あまりの驚きに、大きな声をあげてしまった……。

 すぐそばで聞いていたピノラは俺の声に驚き座ったまま身体を跳ねさせ、更に目の前の紳士────────シュトルさんも思わず耳を塞いでいる。

 その後ろで扉を閉めようとしていた警護隊の人馬獣人ケンタウロス族の女性も、俺の叫び声に驚き咄嗟に身構えてしまっている程だ。

 俺は慌てて『すみません、大丈夫です』と合図を送る。


 大きな木の扉が閉められると、シュトルさんは呆れたように首を振りながらも笑顔で口を開いた。 



「なんつー声を出してんだよ、ったく。そんな大声をあげる事ぁ無ぇだろうよ、アレン」


「す、すみませんシュトルさん……! いや、その……4日前までの印象とあまりに違っていたので、つい……」


「ふわぁ〜っ! シュトルさん、かっこいい服だねっ! おひげもキレイになってるーっ!」


「へへへ、ありがとうよ、お嬢ちゃん」



 俺がシュトルさんに平謝りする最中、ピノラは目をキラキラさせてシュトルさんを見つめていた。

 シュトルさんが身に付けているスーツは、ヴェセットに拠点を置く有名な仕立屋のものだ。

 質の高いそれはこのサンティカをはじめあらゆる地域でも高評価を得ており、貴族もこぞって特注オーダーする程の人気店である。

 装飾の少ないすっきりとしたデザインは恐らく既製品レディメイドのものなのだろうが、それでも確かな品格を感じるほどの一級品に違いない。

 いつもはボサボサだった癖毛の髪や、伸び放題だった髭をきっちりと整えたシュトルさんが着ていると、まるで本物の騎士の家長か、貴族のようにさえ見える。

 不健康そうな初老のイメージが根強かったシュトルさんだが、目の前にいるのはまさしく紳士ジェントルマンだ。

 灰色に輝く瞳が、スーツの色と相俟って一層の気品を漂わせている。



「今日までの2日間を使って、大急ぎで身なりを整えてきたのさ。闘技会グラディアの決勝戦で特別招待席に呼ばれたとあっちゃ、汚い格好じゃお前に恥をかかせちまうからな。だがもともとお前が稼いでくれた金を、博打で勝ったとはいえ私物に使っちまって申し訳無いとは思ったんだが」


「いえ、そんな謝らないでください。その貨幣ガルドは間違いなくシュトルさんのものですし、俺たちのためにわざわざスーツを用意してくれたなんて。し、しかしそれにしても、シュトルさん……凄い変貌ぶりですね……」


「はっはっは! アレンに出会ってからは、いつもの小汚い格好でいたからな! まぁ正直なこと言えば、俺がいきなりこんな姿で現れれば、お前たちが驚いてくれるんじゃないかと期待していた。20年前はこういったスーツを着てファルルの試合に臨んでいたもんだが、こんな立派な一張羅に袖を通したのは本当に久しぶりだな」



 そう言いながら自身の襟袖を見ていたシュトルさんだったが、ふと俺に顔を向けると真剣な眼差しで口を開いた。



「……さぁて、ここが正念場だぞ。アレン、お嬢ちゃんも、準備はいいか?」



 口元に笑みを浮かべながらも、貫禄を感じるその視線に……俺も腹に力を入れて頷いた。



「はい。持てる全てを賭けて、挑んできます」


「ピノラも、頑張ってくるねっ!」


「ああ、俺もアレンが用意してくれた招待席から応援してるぞ」



 シュトルさんは左手で俺の肩を優しく叩く。

 たったそれだけの動作なのに、俺は凄い力で背中を押して貰っているような、そんな感覚を覚えた。

 すると、肩に置かれたシュトルさんの手に力が入る。



「なぁ、アレン。決勝前にこんな事を言うのもなんだが……俺はお前たち2人なら、俺の手の届かなかったところまで辿り着いてくれると思ってる」


「手の届かなかったところ、ですか?」


「ああ。俺とファルルが届かなかった場所……各都市の闘技会グラディアで勝利を収めた者が挑戦できる、3大大会の制覇だ」



 3大大会。

 それは闘技会グラディア訓練士トレーナーとして、誰もが目指す頂点とも言うべきものだ。

 この大陸にある8都市の闘技会グラディアを勝ち抜いた者だけが挑戦できる特別な大会で、そこに出場する獣闘士グラディオビスタ訓練士トレーナーとはまさに超一流の存在である。

 8都市の優勝者が集い年間の王者を決める『チャンピオンズ杯』、実績のある訓練士トレーナーだけが招待される『グランド・オブ・トレーナー杯』、そして各都市の人気投票で選ばれた獣闘士グラディオビスタたちが出場する『オールスター杯』……そのどれもが、真に認められた獣闘士グラディオビスタ訓練士トレーナーしか挑戦できないものだ。


 協会認定の訓練士トレーナーとして勿論その存在は知っていたが、シュトルさんに言われて初めてその挑戦を勝ち得るところまで来ているのだと認識した俺は、思わず唾を飲み込んだ。



「俺は20年前、この闘技会グラディアサンティカ杯で頂点に立ったことで満足……いや、慢心しちまった。手に入れた名声と貨幣ガルドに溺れて、さらに高みを目指す事をやめちまったんだ。きっとファルルも、途中で歩みを止めてしまった俺を嘆いて去ってしまったんだろうと、今になって思う」



 シュトルさんは、左襟に着けたケルコの実のアミュレットを指で撫でた。

 目を細め唇を結んだその表情には、今も断ち切れない後悔の念が浮かんでいるのが解る。


 確かに、俺は心のどこかで今日のこの決勝戦が最後の舞台であると感じていた節はある。

 初めて勝利を掴み、決勝戦へと上り詰め、ここで勝利すれば全てが終わる……そんな風に思っている部分は確かにあった。

 静かに話を聞いている俺とピノラに向き直り、シュトルさんはひとつ大きく息を吸い込んでから頷いた。



「アレン、それにお嬢ちゃん。お前たちに限ってそんな事は無いと信じているが、2人には俺と同じ過ちを繰り返して欲しくは無い。今大会で初めて勝利を飾り、まさにこれから決勝戦に臨むとあっては、ここが終着駅だと感じてしまうだろう。だが、世界にはまだまだ高い場所がある。今日のこの決勝戦は、そこに至るまでの通過点だ。だから ────────」



 シュトルさんの灰色の瞳が輝く。

 そうか、シュトルさんは俺たちが今日の決勝戦で勝つと信じてくれているんだ。

 そして俺たちが、そこで満足してしまわないようにと心配してくれたんだ。

 かつてこのサンティカの闘技会グラディアで頂点に立ったシュトルさんだからこそ思う、先達としてのアドバイスをくれるために、わざわざこの決勝の舞台の前に駆けつけてくれたんだろう。

 

 俺は目の前にいるシュトルさんに、父親としての像を重ねていた。



「だから、こんな所で止まるなよ。まずは今日の決勝戦を文句なしに勝利して、世界中にお前たち2人の存在を見せつけて来るんだ!」


「……はいっ!」


「はーいっ! ピノラ、負けないよぉぉっ!」



 笑顔を向け合う俺たちに、部屋の外から鐘の音が響いた。

 決勝戦開始前の合図である。

 闘技場へ向かう時間だ。



「よおし! 頑張れよ! アレン! お嬢ちゃん!」


「はい。では、行ってきます、シュトルさん! ピノラ、行こう!!」


「うんっ!!!!」



 微笑むシュトルさんに見送られ、俺たちは熱気の渦巻く闘技場を目指し、廊下へと踏み出した。

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