第10話 ヴェセット
「ふわぁぁぁ……! き、きれい……!」
「おぉ……これは凄いな……」
ヴェセットの中央にある馬車駅に到着し、荷台を降りた俺たちが目にしたのは……サンティカとはまるで異なる美しい街並みだった。
石造りの家々と多数の石像が並ぶサンティカに対し、ヴェセットの街に並ぶ家はその殆どがレンガ造りになっている。
古来より豊富な石材が採れるサンティカでは乳白色の石で街が築かれたが、ヴェセットははるか昔から建材として重宝されたオール樹の輸出を中心とするを林業で栄えた。
その為、薪や炭などの燃料に富み、また切り拓いた山々から採取できる粘土や
馬車駅からあたりを見渡す。
レンガと木材で形作られた街の中央では、分厚い耐火手袋を付けたまま歩く男や、何かの設計図と思われる巻紙を何本も抱えて歩く女性、弁当屋の前では
たった2日の移動でこうまでがらりと風景が変わるというのは、まるで異国へ来てしまったかのような感覚に陥る。
幸いにしてこのヴェセットは、言葉も通貨もサンティカと同じものであるため国外のような不便は無さそうだが。
さて、まずは何処へ向かおうか。
そんな事を考えながらあたりを見回していると、急に袖を引っ張られた。
「ト、トレーナーっ! あれ! あれは何っ!?」
「うわっ、っと、ピノラっ! ひ、引っ張るなっ!」
「あぅっ! ご、ごめんねっ! で、でも、何だかすっごく良い匂いがするの……!」
ピノラが指さす先には、1軒のカフェがあった。
正面には扉や壁がなく開放的な雰囲気で、店の中に並ぶ椅子には大勢の客が座って食事や談笑をしている。
客の中には人間のほか、様々な種族の獣人もおり、大変賑やかだ。
獣人は種族によって食べられる物が大きく異なっており、ものによっては身体に毒になる食物もあることから、サンティカ領内では人間と獣人の共用食を出せる飲食店は全て厳しい許可製となっている。
この飲食店はそういった考慮もされたメニューを出している優良店なのだろう、その証拠に店内は多くの種族の客で溢れていた。
店先から、甘く焦げたような香ばしい匂いが漂ってくる。
おそらく食べ歩き用のメニューを提供しているのだろうが……強烈な甘さを予感させる香りが、鼻腔をくすぐる。
「多分、お菓子のお店だよ。サンティカではあまり見ないけど、ここでは沢山あるみたいだな」
「へぇ〜……お菓子……」
しばらく店の方を見つめていたピノラは、静かに喉をこくりと鳴らす。
店先を見つめたまま、動かない。
……きっとこの様子では、いま彼女の口内は唾液が溢れかえっているに違いない。
ヴェセットに到着する前に、馬車の中では宿場町で購入した食事のほかにドライフルーツも食べていたはずだが、それでもこの甘い香りには抗えないようだ。
「あ、あの……トレーナー……えっと」
俺の袖をつまんだまま、恐る恐るといった具合でピノラが見上げてきた。
とても申し訳なさそうに、だが何かを期待している上目遣いの視線が、とても可愛い。
その顔を見てしまった俺は、思わず笑い出しそうになってしまった。
普段は買い食いのおねだりなどした事のないピノラだが、この芳醇な香りを嗅いでしまっては我慢できなかったようだ。
「その、あの……あのねっ……」
「うん、食べてみようか」
「ふぇぇぇっ!? トレーナー、い、いいのっ!?」
ピノラの表情が、一瞬にして明るくなる。
まるで大輪の花が咲いたかのような笑顔だ。
「せっかくヴェセットに来たからな。それに、そんな顔されちゃ買わない訳にもいかないだろう?」
「あ、ありがとう、トレーナーっ!!」
嬉しさのあまり、往来でも構わず飛び跳ねるピノラ。
袖を持たれたままピョンピョンと跳ねるものだから、俺はより激しく引っ張られてがくがくと揺さぶられる事になったのだが、こんなに嬉しそうなピノラを見るのも久しぶりなので悪い気はしない。
俺は苦笑しつつも、道の反対側にあるカフェの前へ歩いて行った。
店の前まで来ると、先ほどよりも更に濃厚な甘い香りが鼻に入る。
「いらっしゃい、お求めですかい?」
「えぇ、あまりに良い匂いに釣られてしまいました。これは何ですか?」
「これはヴェセット銘菓のひとつ、『アップルステーキ』だよ。林檎に細かくした砂糖をまぶして、バターをひいた鉄板で焼いただけのもんだが、こいつぁ美味いぜぇ!」
店先の鉄板で焼かれていたものを指さして聞いてみると、店主と思われるガタイの良い男が気前よく答えてくれた。
アップルステーキという名前のとおり、熱気の立ち登る鉄板の上では、やや厚く輪切りにされた林檎のようなものがいくつも熱せられている。
店主が金属製のへらでひっくり返すと、鉄板に接していた黄金色の焼き色をした面が露わになった。
表面についた粉のような細かい砂糖が、バターの油によってこんがりと焼けている。
焦げた砂糖とバターの香りがたまらない。
「そっちのお嬢ちゃんは
「は、ぁぅぅ……! お、美味しそううぅ……」
「うん、これは是非食べたいな。すみません、2つください」
「はいよっ! へへへ、お嬢ちゃんたち、うちの店を選んで正解だぜ。アップルステーキの店はこのヴェセットにゃ幾つもあるが、ウチは他の店よりも甘みが強いし、林檎も厚切りなんだ!」
店主は焼き上がったばかりのアップルステーキをへらで掬い上げると、そばにあった紙を二つ折りにし、その中に入れて差し出してくれた。
「お待ちどうさん、2つで400ガルドだよ。熱いから、紙の端を持っておくんな」
「ありがとうございます、っとと……あ、あちちち!」
「あーっ! ピノラにもちょうだいっ!! は、早くぅぅっ!」
「わ、わかってる、ちょ、待っ……さ、財布をしまうから待ってっ!」
ピノラが大声を出したせいで、カフェの店内にいる客たちがこちらを見てクスクスと笑っているのが見えた。
ぐぉぉぉ、恥ずかしい。
火傷しないよう持ち替えながら、1つをピノラに渡した。
鉄板から上げられて間もないアップルステーキは表面の砂糖がパリパリになっており、手に持った感触は予想よりも硬く、クッキーのようにしっかりとしている。
たまらず一口齧り付くと、焦げた砂糖がカラメル状になっていてサクサクとした歯触りを感じる。
欠片を口の中に入れて噛むうちに、砂糖に閉じ込められていた林檎の蜜が溶け出し、口いっぱいに広がってきた。
厚切りにされた林檎は熱で柔らかくなっていて、咀嚼するたびにシャクシャクと水々しい音を立てている。
林檎の甘酸っぱい匂いと、バターの香りが鼻を抜けて……こ、これは美味い、美味すぎる。
こんな甘いものを食べたのは、本当に久しぶりだ。
馬車旅で凝り固まっていた身体に甘味が染み渡る。
隣で頬張っているピノラは、俺以上に感動しているようだ。
小さな口をいっぱいに開けて齧り付くと、他の動きを一切止めて口だけを動かしている。
爛々と輝かせた目で林檎の断面を凝視しながら、鼻息を荒くして一所懸命に咀嚼している姿が、何とも微笑ましい。
こくん、と喉を鳴らして一口目を飲み込むと、『ふやぁぁぁ……!』と聞いた事がない声を上げて震えている。
「美味しいっ! すっごく美味しいぃっ!」
「うーん、本当に美味しいな。サンティカではこんな美味しいお菓子はなかなか無いよ」
「おや、兄ちゃんたちサンティカから来たのかい? 都会の人にこんなに褒めて貰えるなんて光栄だねぇ!」
「と、トレーナーっ! ピノラ、今日のゴハンこれが良い! もっと買ってぇ!」
「ぶふッ!? だ、ダメだダメだ! そんなに幾つも食べたら、糖分の取りすぎになるだろ!」
更なる購入をせがむピノラに首を振る。
その様子は店内にいる他の客たちからもしっかり見られており、殆ど全員がクスクスと笑っている有様だ。
店主は、そんな俺たちを交互に見ながら身を乗り出してきた。
「トレーナー? 兄ちゃん、
「へっ? あ、その」
「いや、違うか。見たところ、まだ十代だろう? 兄ちゃんみたいな若い子が
「え、あ、いえ……い、一応、協会認定の
「はっはっは! ノリが良いなぁ、兄ちゃん! 冗談に付き合ってくれてありがとうよ! でも『
大笑いする店主に、俺はポケットに入れていた金属製の身分証を出して見せた。
「ほ、ホントなんですよ。それと、一応……こう見えて二十歳です」
数秒間気付かずにいた店主だったが、俺が手に持っていた
始めはにこやかに見ていた店主だったが、そのうち動きが止まり、笑顔が消え……身分証と俺の顔を何度も何度も交互に見ている。
そ、そんなに見なくても……。
鉄板の上で焼かれたままになっている林檎が心配になってきた……焦げてませんか、それ。
店主は信じられないとばかりに、あんぐりと口を開けている。
小さく首を震わせると、おもむろに被っていたコック帽子を外して胸の前で握りしめた。
「あ、あ……す、すまねぇ、兄ちゃん……いや、
「い、いえいえ、俺くらいの年齢じゃあ、信じて貰えないのが当たり前ですから」
「失礼な事を言っちまって……な、何て詫びたらいいのやら……!」
先ほどまでとは打って変わって、めっきり静かになってしまった店主だったが……正直、間違われるのも仕方のない事だ。
協会認定の
俺みたいな若輩者が、国内に十数人しかいない協会認定の
ちなみに、協会認定の
深々と頭を下げてしまった店主だったが、それを見た店内の客もその様子に気付きざわつき始めた。
さっきまでピノラの大声で笑っていた人たちが、今度は訝しげな表情でこちらを見ている。
こ、これはもう、完全にこの店で顔を覚えられたな……。
「……って事は、その……そっちのお嬢ちゃん、じゃなくて、えぇと……
「そ、そんな畏まらないで下さい! そうです、サンティカの
「ピノラだよっ! えへへへ!」
口の端に砂糖をつけたまま、ピノラは元気よく名乗り出た。
最高に美味しい菓子を貰ったためか、いつも以上に上機嫌だ。
ぴょんと跳ねて一歩前へ出ながら、俺の左腕に飛びついてくる。
目の前にいる店主はまたもや信じられないと言いたげな表情でピノラを見ていたが、彼女の左腕に着けられた
更にピノラが名前を叫んでから、店内の客は一層ざわつき始めた。
最も近くにあったテーブルに座っていた、人間と獣人族のペアが音を立てて椅子から立ち上がり近付いて来た。
「ま、マジで、あのピノラちゃんと、その
「え、えぇ、そうですけど」
「な、何てこった……サンティカの
「そ、そうなんですか? まぁ、あの……自分たちで言うのもお恥ずかしいですが、常敗で知られてますから名誉な知名度では無いと思──────」
「な、何言ってんだよ、
更に奥のテーブルで話を聞いていた獣人族のグループが、突如話に割り込んできたと思うと、ずんずん近付いてきた。
「ピノラちゃんって言ったら、すげぇ数のファンがいるじゃないですか!?
「そうそう、どんなに負けても
「オ、オレ、ファンなんですよっ! ピノラちゃんっ、もし良ければ……あ、握手してくれませんかぁっ!?」
う、うぅむ……急に囲まれてしまった。
元々ピノラは戦績に関わらず人気のある
ピノラを応援してくれるのは本当にありがたい事だが……まずい。
今のを見ていた、店の奥に座っていた別のグループもこちらを見ながら近付いてくる。
その後ろでもガタガタと椅子の動く音がしたと思うと、また別の女性グループがこちらを見ながら立ち上がっている。
まるで店の中に居たほぼ全てのお客さんが、現役
このままでは、試合直後の闘技場ロビーのようにファンの方々に囲まれてしまう。
できれば今日中に『伝説の
しかし、当のピノラも握手を求められて満更でもない様子である。
うーん、どうしたものか……。
などと困っていると、俺の様子を見かねた店主が店内の客たちに声をかけてくれた。
「おうおうっ、お客さん方よ! こんな可愛らしい
突然もの凄い大声で、わらわらと集まってきたお客さんたちを嗜める。
こんな甘いお菓子を売っている店にいる人間には程遠いようなガタイの良い店主が叫ぶと、客たちは皆縮こまってしまった。
な、何でこんな武闘派みたいな人がアップルステーキを焼いてるんだろう……。
店主が手に持っている金属製のへらが、まるで凶器に見える。
「うぐっ……そ、それを言われると……うぅむ」
「いや、シェフの言う通りだよな……いやぁ、サンティカみたいな都会からこのヴェセットに有名人が来るなんて滅多に無いから、ちょっと舞いあがっちゃったよ。ごめんな、ピノラちゃん……」
「ううん! ピノラの事、応援してくれてありがとうねっ!」
笑顔で対応するピノラだったが、可愛らしいその姿を見た客たちは皆一様にほんわかした顔になって和んでいる。
戦績が奮わなくてもピノラに大勢のファンがついているのは、彼女のこういった優しい対応があるからなんだろうな。
「全く、どいつもこいつもデレデレした顔しやがって……
「い、いえいえ、そんな事はありませんよ! こんなに美味しいお菓子があるとは知りませんでしたので、これからも寄らせて頂きます」
「そいつぁ嬉しいね。だが
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