喰愛
朝夜
喰愛
「好きです。喰べさせて下さい」
その時、うっかり口が滑ってしまった。
彼女は黙っている。驚いた顔で。
「あ、すみません。……ええと、間違えました。好きです。俺と付き合ってくれませんか」
我ながら無理のある誤魔化し方だったと思う。……多分、誤魔化す必要はなかった。
「……喰べたいの?……私、を?ええ……。美味しいのかな」
「はい。きっと」
しまった。即答してしまった。
「すみません。引きましたよね。あの、本当に、忘れて貰っていいので……すみません。俺、もうこれで」
強引に切り上げようとしたところで、彼女が止めた。
「待って。付き合ってあげてもいいよ」
「……え。え、ええっ。いい、ん、ですか?喰べても?」
一瞬、耳を疑った。もし喰べても良いのなら、すぐにでも喰べたいくらい俺は空腹だった。三年前からずっと。
「喰べるのはダメ。付き合うだけね」
……なんだ。勘違いした自分が恥ずかしい。
「う……あ、ありがとうございます」
「ふふっ。不満そう。よろしくね」
彼女は面白そうに笑った。
これが俺と彼女の一番最初の会話だった。
付き合ってひと月程が経った。
彼女は俺の一つ年上だった。
彼女はデートよりも情事を好んだ。
大体が俺の家だった。
俺は正直、そんな行為はどうでもいいと思っていた。それよりも、うっかり彼女を喰べてしまわないか、それだけが心配だった。俺はもう十年前の様な子供ではない。彼女がいいと言うまで、俺は我慢するつもりだった。我慢はそれほど苦ではない。
「ねえ、美味しい?」
この日も情事の最中、彼女は聞いた。
「喰べてませんよ。喰べてもいいんですか?」
「……まだ、ダメ。そんなに舐めるから、美味しいのかと思って」
俺はよく、行為の際に彼女の腕を舐めたり甘噛みしたりした。
「……甘い味がします。きっと、貴女の血も、肉も、全部甘いんでしょうね。喰べたくなります」
彼女のその甘い肌に歯を立てて、噛み砕いてしまわない様に、噛みつかない様に、俺は自分を抑える。
「喰べても、いいよ。……そのうちね」
「はい。……そのうちに」
いつもの会話だった。
この日、情事が終わった後に彼女は俺に聞いた。
人を喰べた事があるのかと。
俺は、ありますと答えた。
「いつ?」
「十年前、九歳の時です」
「誰、を?」
「その時の親友です」
「……女?」
「男です」
「そう……」
「……どうしたんですか?」
聞きたくて、と彼女は言った。
俺は、話し始める。
彼と俺は、親友でした。
俺はまだ恋心を知らなかったから、その時彼に抱いていた感情が、友情なのか恋情なのかは分かりません。
ただ、ある時ふと、喰べたくなったんです。
俺は彼に聞きました。
喰べていいかって。
彼は冗談だと思ったのか、いいよって、言ったんです。
その時、俺達がいたのは秘密基地と名付けたくぼみになっている場所で、大人達は誰も知らない場所だったんです。
俺達以外は誰も知らない、秘密の場所。
俺は、彼に、いいよって言われたのが嬉しくて。
だから、何も考えずに、俺は彼に噛み付いていました。
思った通り、彼はとてもとても美味しくて。柔らかくて、あたたかくて。
俺はやっと、俺の中の微妙に欠けたものが埋まった様な気がしたんです。
彼は勿論、すぐに怯えた表情になりました。
でも俺はもう、喰べる事に夢中で、親に内緒で隠し持っていたナイフで、彼の腕だか脚だかを切り落としました。
多分腕だった。
彼は最初こそ泣き叫んでいましたが、腕を切り落とした途端、痛みで気絶して静かになりました。
その後は俺はもう、彼を貪り喰っていました。
九歳の身体なんて、そんなに大きくないので、俺は彼の全部を喰べてしまった様に思います。
彼はほとんど骨だけになって、俺は彼の脚の骨の小さな一部だけ持って、あとは全部、秘密基地に埋めてしまいました。
彼は確か、足が速かったんです。それで、脚の骨を。
あれから一度も掘り返していないので、今頃どうなっているんでしょう。腐っているかな。
俺は誰にも見つからない様に家に帰って、彼の小さな骨と、自分を洗いました。
彼の骨は小さくて白くて、少しざらっとして、血糊を落とした後も、まだ彼のいい匂いがしました。
翌日、彼の両親が家に来て、彼がいないと言いました。
俺は、知らないと言いました。
やがて警察も話を聞きに来ました。
彼の両親が捜索願を出したんです。
その時も俺は、知らないと言いました。
そのうちに七年が経って、彼は正式に死にました。
骨も無い彼の葬式を終えた後くらいでしょうか。
俺は俺の中の何かが欠けている事に気付きました。
彼を喰べた後ずっと、俺は幸せでした。満たされていました。
でも、彼を喰べる前のあの感覚が、前よりもずっと濃くなって、自分の中にある事に気が付きました。
それから三年間、俺はずっと空腹のままでした。
彼が正式に死んでからずっと。
……そして貴女を見つけました。
一目惚れです。
俺はやっと恋情を知ると同時に、貴女の事がどうしても喰べたくなりました。
俺はもう十年前の様な子供じゃない。今度は上手くやる。
ちゃんと痛くない様にします。
血の一滴まで全部綺麗に飲み干して喰べ切ります。骨だって無駄にしない、だから。
だから、俺に貴女を喰べさせて下さい。
それから、また暫く経った。
いつもの様に情事を終えた後、彼女は話す。
いつもと違った事を。
「ねえ、こんな行為なんて意味がないと思ってるでしょ」
「はい、正直」
彼女は何が可笑しいのか、笑う。
「そうでしょうね。でも、私にとっては意味があるの……消毒だから」
また、笑う。
今日の彼女は様子がおかしい。
「ねえ、いいよ」
「……え?」
「喰べて、いいよ」
息が止まるかと思った。上手く脳が動いてくれない。
急いで息を吸う。
「冗談?もし冗談でないなら、俺は……」
「冗談じゃない。でも今じゃない。……そう、だね、明日。明日、喰べていいよ。本当」
興奮している。とても。明日が待ち遠しい。明日のいつだろう。明日と言わず今から喰べたい。でもそれは彼女が望んでいない。
「明日……。明日、ほんとにいいんですか」
「うん。指切りでもする?」
「っ……はい。約束、ですよ?」
「約束ね」
指切りをする。俺の身体は指先まで熱かった。彼女のひやりとした、微かな体温がとても愛しかった。
明日、明日になれば、俺は……。
朝、彼女は死んでいた。
俺が喰べたんじゃない。
彼女は突然に自殺した。
机に、恐らく彼女が死ぬ直前に書いたであろう置き紙があった。
そこには一言、『私を喰べて下さい』とあった。
俺はその紙を握り潰した。
引き出しから、彼女の遺書も見つかった。
遺書には、彼女の人生が綴られていて、俺の知らない事が書かれていた。
彼女のこれまでの苦痛も、俺がいつ、彼女を助けていたというのも、全部知らない話だった。
俺は握り潰した紙も、遺書も、ガスコンロで燃やした。
焦げた臭いが鼻をつく。
部屋の真中にぶら下がった彼女を見上げる。
違う。
違う。俺の喰べたかった彼女はこんなものじゃない。
これは違う。
甘い匂いがする。
彼女だったものから、どうしようもなく甘い、匂いが。
俺が喰べたくてたまらなかった、あの甘い、甘い匂いが。
どうしようもなく。
彼女の腕を取ってキスをする。
まだほんのり温かい。
惹かれる様にして、俺は。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます