十二月十三日 その二
ご隠居様の言葉が続く。
「そなたのような
「はい……仰せの通りにございます」
「とは申せ、あらゆる武家の委細までが
そう言われて即座に言葉が出ない。黙ってうつむいてしまった私を見て、ご隠居様は一人納得したようにうなずいた。
「いや、
ご隠居様が
「のう、そなたの世にわしの人となりは、どの様に伝わりおる?」
ドキッとして顔を挙げる。
「そ……それは」
「遠慮は無用じゃ。
そう言われても、どう答えて良いのか分からない。
「むつみよ、およそ摩訶不思議な
それが、なんだかすべてを知っているように聞こえて、私は少し身体を下げると居住まいを正して畳に両手をついた。
「き……吉良様は」
言ってもよいのか、しばらく葛藤がある。胸がドキドキしていた。ご隠居様は何も言わず、私の言葉を待っている。
「
そこまで言って、額を畳にこすりつけた。
「……左様か。やはりの」
頭の上から、ご隠居様の声がする。
「おお、すまぬな。
そう言われても、すぐに顔を見る勇気がない。
「面を上げいと言うに……頼む、そのような
そこまで言われて、私はやっと顔を上げた。
「すまなんだの。そなたの気遣うことではない」
ご隠居様が頭を下げたため、私は慌てた。
「滅相もございません。私こそ、はなはだご無礼を」
「良い良い。まことが知れることこそ本望じゃ。わしのようになると、万事周りが要らぬ気を遣うてな」
自分を卑下したような顔で笑うと、ご隠居様がこちらを向いた。
「そなたの代の風習は分からぬが、いかがじゃろうな。どこぞへ口利きの無心なぞへと参る折は、やはり土産なぞは持たぬか?」
「それは……持ちます。あいさつ代わりに」
「そうか……いや、それを聞いて安堵いたした。そこ元の生きる世となっても、礼儀礼節は廃れていないと見える」
ご隠居様は何度か頷いた後、ぽつりと言った
「確かに、浅野家からの挨拶の品はいささか形のみに寄りすぎておった。
ご隠居様の顔がこちらを向く
「むつみよ。仮にわしが金子を寄こさずといって内匠殿をないがしろにしたとしよう。だが、
その言葉に武家としての気概を感じて、私は思わず頭を下げた。そんな私に、ご隠居様のくぐもった笑い声が聞こえてくる。
「いや、そなたを前にしてつまらぬことを言った。年寄りの愚痴と思うて見逃してたも」
「め、滅相もございません!」
またもや慌てる私に、ご隠居様がふーっと長い息を漏らす。しばらく黙り込んでいたが、やがて昔話でもするように、ご隠居様はしゃべりだした。
「内匠殿とはお役目も合わせ幾たびか会うたが、生真面目な性分にて諸事一本気、いささか堅苦しゅう思えてな、
ご隠居の上野介様は、そう言った。
「わしはの、日に日に、内匠殿が万事家臣と
意外な言葉に目を見張る。上野介様が内匠頭様を心配していたというのは、どういうことなんだろう。
「内匠殿は
確かに、浅野内匠頭は十七歳の時に一度勅使饗応役を務め、今回が三十五歳で二度目のお役目だ。
「
浅野内匠頭が饗応接待役を命じられた後、吉良上野介は二月二十九日に江戸へと戻り、内匠頭と具体的な話はそれからということになる。それまで、浅野家では以前の記録や、今までに行われた故事からの内容に沿って準備を進めていたらしい。
「されば、内匠殿は家中を目に思うたやもしれぬ。かよう支度が整いし上は、浅野家の備えにて十分。高家肝煎に饗応接待の指南を求めるも無用ではないか、とな」
ご隠居様の言葉に、私がその顔を見つめる。
「わしはな、あの品を見た折、内匠殿の心中を察した。二度目の饗応接待役に際し、我が手にて支度を整えたうえは、もはや吉良の指南なぞ無用。いやむしろこの上野介を、高家肝煎よ指南役よと金品をむさぼる、
浅野内匠頭は、まじめな性格から
「さりとて、大名、武家での儀礼挨拶、まして指南役への習わしは世の常。いずれ内匠殿の周りに
「ご挨拶のお品とは、内匠頭様御自らご下知なされたのでは?」
「仮に左様であったとしても、
ご隠居様が私の顔から視線を外す。その横顔が障子越しの柔らかな光に照らされている。
「左様な中で、いつしか気風の堅苦しき主君に臣下も忠義をもって接するを諦め、内匠殿の言うがまま、いわば藩主の扱いがぞんざいになったのやもしれぬ」
私は、ずっと疑問に思っていたことを思い返していた。
もし浅野内匠頭刃傷の一件が吉良上野介に対する恨みであり、その発端が本当に賄賂を渡さなかったために起こった嫌がらせだったとしたら、浅野家はなぜそれを放っておいたのか。付け届けが足りなかったのなら、すぐに誰かが手をまわし、改めて吉良上野介に取り入ればそれで解決したようにも思う。
もしかしたら、浅野家では主君である内匠頭の性格を身に染みて知っているがために、誰もそれを持ち出せず、そのままずるずると行ってしまったか、あるいは表立っての嫌がらせなどやはりフィクションで、特に目立った確執とまでは見えていなかったのか。
「ご隠居さま……いえ、上野介さま」
「なんじゃ?」
「内匠頭様は『
「なんと。そこまでの仔細が後の世には伝わりおるか」
江戸城内でのことが民衆にまで事細かに伝わっていることに、ご隠居様は驚いていた。
「まこと……その『遺恨』なるものに、お心当たりは?」
ご隠居様が黙って目を閉じる。
やがて、ご隠居様の瞼が上がり遠くを見るような目つきになると、口を開いた。
「ただ一つ、思い当たる節と言えば……」
その横顔をじっと見つめる。
「あの折の、あの言葉かの」
思わず身を乗り出す。
歴史の中の謎の一つとされる、浅野内匠頭が殿中で刃傷に及んだ吉良上野介への恨み。それが本当にあったのか。
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