十二月十三日 その二

 ご隠居様の言葉が続く。

「そなたのような女子おなご数多あまたのことを知りおるは、およそその代には女子、わらべに至るまで等しく学びの道が開かれているとぞ思う。それは良きことじゃ」

「はい……仰せの通りにございます」


「とは申せ、あらゆる武家の委細までが津津浦浦つつうらうらにまで知れるとも思えぬ。となれば、当家、いやこの上野介の名が遺るは、やはり内匠たくみ殿との一件にちなむか?」


 そう言われて即座に言葉が出ない。黙ってうつむいてしまった私を見て、ご隠居様は一人納得したようにうなずいた。

「いや、かえがたきことを問うてしまったの。そなたの案ずることではない。あの日以来、当家の風評はこの耳にも入りおる。呉服橋の屋敷も召し上げられた。仕える者には肩身の狭き思いをさせておることも承知の上じゃ」


 ご隠居様が脇息きょうそくに半身を預けながら、昔を思い起こすかのように目を細める。


「のう、そなたの世にわしの人となりは、どの様に伝わりおる?」

 ドキッとして顔を挙げる。

「そ……それは」

「遠慮は無用じゃ。ていに、存じよりを申せ」

 そう言われても、どう答えて良いのか分からない。


「むつみよ、およそ摩訶不思議なえにしではあるが、そなたがここに参ったは、後の世に伝わりし風説を我らに伝えよとおぼしたる神仏の導きでもあろう。この年寄りへ、嘘偽りないそなたの言葉で聞かせよ。わしの願いじゃ」

 それが、なんだかすべてを知っているように聞こえて、私は少し身体を下げると居住まいを正して畳に両手をついた。


「き……吉良様は」

 言ってもよいのか、しばらく葛藤がある。胸がドキドキしていた。ご隠居様は何も言わず、私の言葉を待っている。


金子きんすの付け届けをせぬ浅野内匠頭様に、さまざまな嫌がらせをしていたと……」

 そこまで言って、額を畳にこすりつけた。


「……左様か。やはりの」

 頭の上から、ご隠居様の声がする。


「おお、すまぬな。おもてを上げい」

 そう言われても、すぐに顔を見る勇気がない。

「面を上げいと言うに……頼む、そのようなていでは話もできぬ」

 そこまで言われて、私はやっと顔を上げた。


「すまなんだの。そなたの気遣うことではない」

 ご隠居様が頭を下げたため、私は慌てた。

「滅相もございません。私こそ、はなはだご無礼を」

「良い良い。まことが知れることこそ本望じゃ。わしのようになると、万事周りが要らぬ気を遣うてな」

 自分を卑下したような顔で笑うと、ご隠居様がこちらを向いた。


「そなたの代の風習は分からぬが、いかがじゃろうな。どこぞへ口利きの無心なぞへと参る折は、やはり土産なぞは持たぬか?」

「それは……持ちます。あいさつ代わりに」

「そうか……いや、それを聞いて安堵いたした。そこ元の生きる世となっても、礼儀礼節は廃れていないと見える」

 ご隠居様は何度か頷いた後、ぽつりと言った


「確かに、浅野家からの挨拶の品はいささか形のみに寄りすぎておった。伊達左京亮だてさきょうのすけ殿とは比べる様もないほど、まこと、あぢきないものであった」

 

 ご隠居様の顔がこちらを向く

「むつみよ。仮にわしが金子を寄こさずといって内匠殿をないがしろにしたとしよう。だが、勅使ちょくしに非礼が及べば、その責めはいずれが負うや。内匠殿は饗応役だが、それを指南しておるのはわしじゃ。勅使饗応ちょくしきょうおうとは江戸幕府の次第。その指南を高家肝煎こうけきもいりが毎年勤めておる。これはおかみまでがご承知おきのこと。接待役の不手際はわしの不手際、すなわち幕府、お上の不手際じゃ。いずれわしも責めを負うこととなる。そのようなことすら分からぬほど、わしは耄碌もうろくしてはおらぬぞえ」


 その言葉に武家としての気概を感じて、私は思わず頭を下げた。そんな私に、ご隠居様のくぐもった笑い声が聞こえてくる。

「いや、そなたを前にしてつまらぬことを言った。年寄りの愚痴と思うて見逃してたも」

「め、滅相もございません!」

 またもや慌てる私に、ご隠居様がふーっと長い息を漏らす。しばらく黙り込んでいたが、やがて昔話でもするように、ご隠居様はしゃべりだした。

 

「内匠殿とはお役目も合わせ幾たびか会うたが、生真面目な性分にて諸事一本気、いささか堅苦しゅう思えてな、わらべがそのまま大人となったように見えたわ」

 ご隠居の上野介様は、そう言った。


「わしはの、日に日に、内匠殿が万事家臣とさわりなく藩主のお役を勤めておるのかが、心もとなくなった」


 意外な言葉に目を見張る。上野介様が内匠頭様を心配していたというのは、どういうことなんだろう。


「内匠殿は天和てんな三年にも勅使饗応のお役を務めておる。その際は万事つつがなく終えたが、無論よわい十七の内匠殿に代わり諸事万端を整えたは、浅野家の家老職を筆頭に老臣、心得のある者どもじゃ。内匠殿も初めての大役ゆえ、当然その者どもの言葉に従おう。されば、浅野家は饗応のお役目を果たすこともできた」

 確かに、浅野内匠頭は十七歳の時に一度勅使饗応役を務め、今回が三十五歳で二度目のお役目だ。


此度こたびは二度目の接待役。二月四日にご下知げちされてより、内匠殿はかねてのお役を思い起こされ委細取り計らったであろう。わしはその頃は京に居ったれば、月末つごもりに江戸に戻って参った折、浅野家はあらかたの支度を済ませておった」

 浅野内匠頭が饗応接待役を命じられた後、吉良上野介は二月二十九日に江戸へと戻り、内匠頭と具体的な話はそれからということになる。それまで、浅野家では以前の記録や、今までに行われた故事からの内容に沿って準備を進めていたらしい。


「されば、内匠殿は家中を目に思うたやもしれぬ。かよう支度が整いし上は、浅野家の備えにて十分。高家肝煎に饗応接待の指南を求めるも無用ではないか、とな」


 ご隠居様の言葉に、私がその顔を見つめる。


「わしはな、あの品を見た折、内匠殿の心中を察した。二度目の饗応接待役に際し、我が手にて支度を整えたうえは、もはや吉良の指南なぞ無用。いやむしろこの上野介を、高家肝煎よ指南役よと金品をむさぼる、性根しょうねいやしき老いぼれと見ておるとな」


 浅野内匠頭は、まじめな性格から賄賂わいろが横行するこの時代に対して普段から良い印象を抱かなかった。そこにこの二人の軋轢が生まれていたのか?


「さりとて、大名、武家での儀礼挨拶、まして指南役への習わしは世の常。いずれ内匠殿の周りに目端めはしの利く臣下がおれば、要らぬ波風なぞ起こらぬよう差配もできよう。さりながら、げにつたなき挨拶となったは、内匠殿ではなくそばさかき臣がおらぬか。いや何より、内匠殿は臣よりたっとばれておらぬのではないか。そう思えた」

「ご挨拶のお品とは、内匠頭様御自らご下知なされたのでは?」

「仮に左様であったとしても、さかしき臣がおれば万事したためることもできたであろう。さにあらず、つたなき手土産にとどめたは臣下の不調法と申すより、内匠殿が臣下の注進ちゅうしん言上ごんじょうに際し、取り合わぬことも多いからではないか」


 ご隠居様が私の顔から視線を外す。その横顔が障子越しの柔らかな光に照らされている。

「左様な中で、いつしか気風の堅苦しき主君に臣下も忠義をもって接するを諦め、内匠殿の言うがまま、いわば藩主の扱いがぞんざいになったのやもしれぬ」


 私は、ずっと疑問に思っていたことを思い返していた。

 もし浅野内匠頭刃傷の一件が吉良上野介に対する恨みであり、その発端が本当に賄賂を渡さなかったために起こった嫌がらせだったとしたら、浅野家はなぜそれを放っておいたのか。付け届けが足りなかったのなら、すぐに誰かが手をまわし、改めて吉良上野介に取り入ればそれで解決したようにも思う。


 もしかしたら、浅野家では主君である内匠頭の性格を身に染みて知っているがために、誰もそれを持ち出せず、そのままずるずると行ってしまったか、あるいは表立っての嫌がらせなどやはりフィクションで、特に目立った確執とまでは見えていなかったのか。


「ご隠居さま……いえ、上野介さま」

「なんじゃ?」

「内匠頭様は『遺恨いこんおぼえたるか』と問われたと聞き及んでおります」

「なんと。そこまでの仔細が後の世には伝わりおるか」

 江戸城内でのことが民衆にまで事細かに伝わっていることに、ご隠居様は驚いていた。

「まこと……その『遺恨』なるものに、お心当たりは?」


 ご隠居様が黙って目を閉じる。


 やがて、ご隠居様の瞼が上がり遠くを見るような目つきになると、口を開いた。

「ただ一つ、思い当たる節と言えば……」

 その横顔をじっと見つめる。


「あの折の、あの言葉かの」


 思わず身を乗り出す。

 歴史の中の謎の一つとされる、浅野内匠頭が殿中で刃傷に及んだ吉良上野介への恨み。それが本当にあったのか。

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