十二月四日

 寒いなぁ。

 まだ十二月のはじめなのにすごく寒い。


 身体の下の感触もいつもと違う。薄い布団で堅いし、身体は痛いし、掛け布団も何だかいつもと違う。私、どこで寝てるんだっけ?


 と思いつつ、目が覚めた。

 薄暗い部屋。和室。薄い布団に暖房もない。硬い寝間着みたいなものにくるまって寝ている。ぼーっとした頭で考えて、思考の糸だか紐だかがやがて一つの模様を描き結ばれて、頭がはっきりとしてきて、そして一気に落ち込む。

 変わってない。ここは自分の部屋じゃないし、ベッドの上でもない。


 ということは、やっぱり元禄のままだ。


 当てが外れた、というより、これが当たり前のような気がした。とにかく、これからどうするかもう一度考えないとならない。と言ってもめぼしいアイディアは浮かばない。ただ、この吉良のお屋敷に来たということは、元の時代に戻れるならやっぱりここからだという気がする。

 だから、何とかしてこのお屋敷に居続けたほうが良い。


 そんなことを考えながら、寒さにぶるっと震える。確か江戸時代は、私がいた平成や令和よりもずっと寒かったはず。エアコンも羽毛布団もないし、よくこんなところで風邪もひかずにみんな平気でいられるなぁ、などと余計なことを思っているうちに、下腹の感触に気づいた。


 ――トイレ行きたい。


 そう、昨日は何だか訳が分からないことに翻弄されて気が動転していたけれど、ご飯を食べて一晩寝たら、気持ち的に少し落ち着いたみたい。と同時に身体の生理現象も元通り。

 でも、考えてみたらこのお屋敷のどこに何があるのか、そんなことは知らされていないし、だいいち突然現れた私は部外者で、武家のお屋敷なのだから、本当ならどこかに押し込められていても文句は言えない。ご飯が欲しいだのトイレに行かせろだのと言える立場なのか、真剣に悩んだ。


 と言っても我慢には限界がある。昨日もらった着物を着て、部屋の外に出てみようかと思った時、襖の向こうから声がかかった。


「もし、お目覚めでございますか?」

 若くて優し気な声だった。


 がばっと起き上がると、綿入れを脱いで、傍に合った着物を羽織る。帯をする暇はないから、前を手で合わせて返事をした。

「あ、はい。どうぞ」


「失礼つかまつります」

 襖があいてペコっとお辞儀をしたのは、昨日、義周様と一緒にいた小坊主さんだった。

「よろしゅうございますか?」

「はい。恐れ入ります」

 と、自分でも何に恐れ入ってるのか分からないまま返事をする。


「吉良家当主、左兵衛さひょうえ様付き坊主習ぼうずならい、松竹しょうちくと申します。殿より御身おみの周りのお世話を仰せつけられました」

 時代劇の大奥の場面なんかに出てくる、いわゆる茶坊主さんだ。私や義周様とおなじくらいに見える。


「あ……そうですか。それは、どうもありがとうございます」

 こちらも畏まってお辞儀をする。と同時に、ちょっと気になったので訊いてみた。

「あの、私は、まだご当家にご厄介になっていてもよろしいのでございますか?」

「はい。殿より、そう承っております」


 一気に肩の力が抜ける。

 まだここに居られる。あの若様、義周様の同情とお計らいで、とりあえず冬のさなかに外にほっぽり出されるのは回避することができた。

 ありがたくて、その分も松竹さんにお礼を伝える。

「何分不調法にて、このような暮らしに慣れておりません。お手間を取らせると思いますが、よろしくお願い申します。それと……」

「はい。何か?」

「あの……ええと」


 言葉、というか固有名詞が即座に出てこない。

 トイレ、じゃなくて、便所? ちょっとはしたない響きだ。

 せっちん、かわや、というのも落語みたいだし、ええと、何というのか、もう少し上品で持って回った、そう、あれだ。


「恐れいります。あの、お手水ちょうずはどちらになりますでしょう?」


 ほぼ初対面のうら若き乙女からトイレの場所を聞かれ、松竹さんという小坊主さんは、赤面しながらも丁寧に教えてくれた。

 この時代、もちろん柔らかなトイレットペーパーはなく、いわゆる落とし紙は『あさくさ紙』というごわごわした和紙で、これでお尻を拭いてたら、すぐに擦り切れて血が滲んできそう。昔の人はお尻まで頑丈だったと思わざるを得ない。


 当然、汲み取り式。

 中に入ると、息を止めながらしゃがみこむ。平成生まれの女子高生には、貴重な体験だよ。


 それから朝ごはんをいただき、お屋敷のことや、皆さんの生活など参考情報となりそうなことを少しずつ聞かせてもらった。

 フルネーム鈴木松竹さんは、十七歳とのことなので、満だと私より一つ下の十六歳。左兵衛様お付きの茶坊主さんだ。まだ見習いでいろいろと修行中です、と謙虚に話す。

 同じ十六、十七でも、私の知っている男子高校生とはまるで違う。大人びているというか、すでに自分の覚悟が定まっている顔つきだった。


「あの、松竹さん」

「はい。何でございましょう?」

「ご隠居の吉良上野介きらこうずけのすけ様って、どんなお方ですか?」

 私は、思い切って尋ねてみた。


 吉良上野介は、あの松の廊下の一件のあと、世間の風評に負けた形で自ら隠居となり、家督を子の吉良左兵衛義周よしちかに譲った。吉良義周、昨日お会いした若様は、本当は吉良上野介の実の孫なんだけれど、吉良家に跡取りがいなかったため、父親の上杉綱憲うえすぎつなのりから祖父の吉良上野介のもとへ養子縁組に出されている。

 自分のおじいちゃんが父親になるって、私たちにとっては不思議な感じだけど、この時代は家というものが何より大切だったから、そういうこともあるのだろう。


 でも、問いかけられた松竹さんは、しばらく神妙な顔つきで私を見ていた。


 私が訊いたのは歴史好きの者としての純粋な興味でもあり、お屋敷にお世話になっているのだから先代のお殿様を知りたいという気持ちもあったのだけれど、松竹さんには違うように聞こえたのかもしれない。


 しばらくたってから、松竹さんは静かに言った。

「むつみ様は、いかがお聞きになっておられますか?」

「……それは、上野介様のことを、ですか?」

「はい」


 そういわれて、後の言葉がすぐに出てこない。

「御前様には、大変良くしていただいております。もちろん、高家肝煎こうけきもいり、旗本四千石のご当主としてご心労も多々あったかと存じますが、巷間こうかんの風評に言われるようなお方ではございません」

 きっぱりと言い切る松竹さんに、私は自分の無礼を恥じた。どうやらデリカシーのない質問を不躾ぶしつけにして、松竹さんを傷つけてしまったらしい。


「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃありませんでした」

 慌てて、思わず言葉遣いが素に戻る。頭を下げる私に、松竹さんも言葉が過ぎたと思ったのか、態度がさっと変わる。

「いいえ、わたくしの方こそ、ご無礼仕りました」

 そして、最後に付け加える。

「御前様は、明日お越しとなります。むつみ様もお会いできるかと存じます」


 その言葉に、胸がどきどきし始める。

 私が会えるの。

 あの、吉良上野介に!

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