十二月十六日 その三

 お屋敷の中は、まだ片付かない。


 率先して指示を出すべき身分の方の犠牲者が多いため、修繕やお掃除の進行も遅い。そして何より、吉良家に出入りしようという大工や職人がまるでいなくなったせいだった。


 江戸中が赤穂の浪士を称え、吉良家は桃太郎に征伐された鬼ヶ島さながらとなっている。お屋敷の人たちも、人目をはばかり外にはほとんど出ようとしない。

 怪我を負った方が次々と亡くなり、上野介様を含めた吉良方の死者は二十四人となった。重い傷のまま、今もって予断を許さない方もいる。


 亡くなった方々のために、屋敷には経机きょうづくえに間に合わせの白木位牌しらきいはいが置かれ、お香の匂いが漂う。


【吉良家死者(十五日まで)】

 隠居  吉良 上野介(六十二歳)

 家老  小林 平八郎(五十五歳)

 用人  鳥居 利右衛門(六十歳)

 用人  須藤 与一右衛門(四十四歳)

 役人  榊原 平右衛門(五十歳)

 取次  清水 団右衛門(四十歳)

 取次  齋藤 十朗兵衛(二十五歳)

 中小姓 左右田 源八郎(四十歳)

 中小姓 新貝 弥七郎(四十歳)

 中小姓 齋藤 清左衛門(四十歳)

 中小姓 大須賀 治部右衛門(三十歳)

 中小姓 清水 一学(二十五歳)

 中小姓 宮石 新兵衛(二十一歳)

 祐筆  鈴木 元右衛門(三十五歳)

 祐筆  笠原 長右衛門(二十五歳)

 台所役 小堀 源次郎(二十二歳)

 徒士頭 杉山 三左衛門(二十五歳)

 坊主習 鈴木 松竹(十七歳)

 坊主習 牧野 春斎(十五歳)

 足軽  森 半右衛門

 中間  権十郎

 門下番 八太夫

 馬口取 吉右衛門

 駕籠人 兵左衛門


 親しくなった方がいる。お言葉を交わしたことのない方もいる。でも、みんなこの時代に生まれて、家族がいて人生があって、ここで暮らしていた。


 お屋敷にいた百五十名ほどのうち、三分の二の約百人が足軽や中間、小者という下働きの人たち。武士と呼ばれる身分の方はおよそ五十名。そのうち無傷だった人は十名ほど。八割の方が亡くなるか怪我を負っている。


 吉良家は高家旗本こうけはたもと典礼てんれい有職故実ゆうそくこじつに則った儀式、行事を司る、言わば役人の家柄だ。普段から武術に通じている人はいない。上野介様の警護役にと上杉家から遣わされた方々にしても、この時代に真剣の立ち合いなどした人はほぼいない。赤穂の浪士にしてもそれは同じ。だから火事装束に似せた厚手の小袖の下に鎖帷子くさりかたびらを着込み、刀で斬られても平気な支度で、槍や弓で完全武装して攻め寄せてきた。


 寝間着一つに裸足で彼らを見た吉良の人たちは、どんな思いだったろう。それが、主君の仇打ちと勢い乗り込んできた赤穂の浪士と気づいた人は、どのくらいいたんだろう。


 『火事だ!』との叫び声に、番所や長屋から飛び出た途端、矢が襲い、槍が繰り出され、大勢が刀で斬りかかってきた。みな何もできずに斃されていったという。

 権十郎さんをはじめ、門番やうまやの吉右衛門さんたちがまず斬られた。祐筆の鈴木元右衛門様もその時の犠牲者だ。


 長屋に逃げ帰った人たちに対して、外からかすがいで戸が打ち付けられた。もちろん戸板一枚、蹴破れば外には出られたはず。でも、侍とはいえずっと事務員のような人生を送ってきた人たちが、そこまでできるはずもない。

 出てきた者は容赦なく斬り殺す覚悟の人たちが見張っているお庭に、誰が出ていけるだろう。

 そんな中、からくも屋敷内へとたどり着いた方、お屋敷内にいた方々が戦闘に参加したけれど、武装した兵士たちを相手にこちらは寝間着に刀一振り。初めから勝敗は明らかだった。

 

 表玄関の奥、広間で交代の番をしていた中小姓の方々は突入してきた赤穂浪士の一団と鉢合わせし、ほぼ全員が討ち死に。

 鳥居様と須藤様はすぐに左兵衛様の護衛につき、同様に討ち死にされた。鳥居様は頭から顔まで一気に割られ、須藤様は全身傷だらけだったという。


 赤穂の人たちは、相手が戦闘不能となったらそのままにしたらしい。だから、傷を負って次の間へ逃れ、失神した左兵衛様はからくも見逃された。もし初めから当代の主とわかっていたら、おそらく上野介様と同様に殺されていただろう。


 ご家老の小林平八郎様は、西側の長屋の前で首を打ち落とされていたそうだ。そして小林様の首は見つかっていない。

 浪士が首を落としたのは、上野介様と取り違えたか、あるいは吉良家の家臣が上野介様の首を取り戻そうと追ってきた時、身代わりとするために持ち去ったと、みんな噂している。


 最後まで上野介様を護ったのは榊原様、大須賀様、そして清水一学様。三人とも物置前で亡くなっていた。


 笠原さんも小堀さんも松竹さんも、私に優しく接してくれた。そこには吉良も赤穂もなく、ただ当たり前の人たちとして当たり前に生きていた。その方々が、みんな死んでしまった。


 分からない。私には全く分からなくなった。


 浅野内匠頭と吉良上野介の間に確執があったとして、それがどうしてこんなに大勢の人を巻き込む事件に発展してしまったのか。史実通りに、各大名にお預けとなった赤穂の浪士四十六人は切腹となるのだろう。年が明ければこの三河吉良家も改易となる。

 そして、左兵衛様は。

 今は、考えたくない。


「……あっぱれよの。みな、まさに忠臣、吉良家中きらかちゅうかがみなるぞ」


 左兵衛様は位牌に手を合わせ、亡くなった臣下の方を弔った。

 でも結局、お殿様二人の喧嘩がもとで二つの家がつぶれ、七十人からの人たちが命を奪われることとなる。それのどこが義挙なのか、討った側も討たれた側も、忠臣と称えられればそれで良いのか、今の私には分からない。


 左兵衛様が言った『浄瑠璃坂じょうるりざか』。

 三十年ほど前、牛込の浄瑠璃坂にある屋敷に討ち入った奥平源八おくだいらげんぱち一党の仇討ちのことだ。

 やっぱり武家の当主二人の喧嘩に始まり、片手落ちの処分が下され、追放となった奥平源八の一族が死んだ父親の仇討ちにと火事装束に身を包み、未明に仇の潜む屋敷に押し入り本懐を遂げた。

 仇討ち後、幕府の裁量によりいったんは流罪となった後に赦免され、ほとんどの者が他家に召し抱えられている。

 当時はやはり武士の鑑として江戸中をにぎわせた一件で、すでに浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなっている。浪士たちがこの『浄瑠璃坂の仇討ち』を参考にしたことは明らかで、だからこそ左兵衛様は浪士たちが仕官、つまり再就職までを見越して起こした騒動という話を出したのだと思う。


 ただ、後にまで伝わる記録によれば、赤穂浪士たちは切腹するつもりだったという話もあり、彼らが何を望んでいたのかは分からない。いずれにせよお上が下した赤穂浅野家のみへの処罰に対して、憤懣ふんまんやるかたない気持ちだったことは間違いない。


 この日、泉岳寺せんがくじから上野介様のお首が返されるとの知らせが入った。すぐに吉良家菩提寺の萬昌寺ばんしょうじに人が遣わされ、家中の方々がお迎えの準備に入る。


 夜遅く、泉岳寺からのご一行が到着した。

 左兵衛様を筆頭に、生き残った方々がそろってかみしもを整え、玄関に正座してお出迎えする。私も、一番奥の隅に目立たぬように同席させていただいた。

 泉岳寺のお坊様のごあいさつに続き、一抱えくらいある木の箱が渡される。中にあるのがお首。


 吉良家の全員が平伏し、上野介様のお帰りをお迎えする。


 お坊様は奥の間に通され、萬昌寺のお坊様と左右田孫兵衛様、齋藤宮内様が正式にお首を受け取った。


 吉良家の人たちは、泉岳寺から来たご一行に口々に問いかけていた。

 上野介様のお首を持ち、内匠頭様の眠る泉岳寺に報じた彼らのこと。その際の町中の様子。浪士と吉良家の風評。でもご一行の口は重く、町中の様子は分からない、の一点張り。


 私が知る知識で言えば、浪士が泉岳寺に向かう途中から江戸市中には噂が広がり、道すがら大勢の人が一目見ようと集まっていたはずだ。


 吉良家はと言えば、門を閉ざしてひっそりと静まり返り、弔問に訪れる人もいない。

 表塀には吉良家に対する様々な悪口が落書きされ、いたるところにおしっこが引っ掛けられていると、中間の人たちが言っていた。

 もともと多くもなかった出入りの商家の人たちも、人の目を盗むようにしながら裏門で用を済ませるとそそくさと帰って行く。今では、吉良家に出入りしていると知られるだけで、評判が悪くなるそうだ。

 赤穂浪士を応援し、町ぐるみで手助けした本所の人たちは、本懐を遂げたと喜んでいるだろうか。でも、おさきさんと治兵衛さんの顔つきを思うと、彼らもきっと複雑な胸中だろう。


 亡くなった方のご遺体は、まだ屋敷の中に寝かせられている。

 お香も炊き込められているが、打ち壊されたお屋敷は隙間風がひどく、暖を取るための火鉢があちこちに置かれているため、生暖かさとともに次第に臭いも気になるようになってきていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る