蒼き乙女よ熱く飛べっ!

@noghuchi

第1話 及川ナナ、来たる




及川はあいさつもせず、


開けっぱなしになっていた正面玄関から


プレハブの道場に堂々と入っていった。



あいさつをしなかった、というより


正面に人影がなかったのでそのまま入った、というべきだろう。



しかし、もし誰もいなくても


こんにちはとか、失礼しますとか、


一言あいさつをしてから入るのが常識だろう。



特に規律を重んじる”こういう場所”では


それは必須と言っていい。



そのプレハブ道場の屋内の天井は、


プレハブにしてはずいぶんと高かった。



壁際には筋トレ用の器具やサンドバッグ、荷物置き場がある。



近々ここで試合をする予定なのか、


ジャージ姿の練習生達が椅子を並べたり


忙しそうに動いている。



そのうちの何人かは


及川が入ってきた事に気がついたようだ。



通常なら彼女たちから及川に


こんにちはとはチャースとか


なにかしらの声掛けがあったに違いない。



しかし及川があまりにも堂々と


そして違和感なく入って来てしまっていたので


練習生たちはあいさつのタイミングを見失った。



その結果、彼女たちは見て見ぬ振りをして、


自分の仕事に集中することにしたために


及川は誰とも話すことなくつかつかと


道場の中央付近まで歩いて行く事ができた。



道場の中央に、白いリングがあった。



リングの上には、


対角線上に対になった赤と青の太い四本の柱が、



リングをぐるりと囲む黒い三本のロープを支えている。



ロープによって外界と仕切られた四角い空間の神聖な空気が


こんな小さな道場のリングからも立ち登っていた。



及川はうれしくなった。




“やっぱりリングはいいな”



及川はそう思った。




その時、及川は声をかけられた。



「どちらさんですか?」



いぶかしむ声だ。



侵入を咎めたのは、


今日ここにいる中で一番の古株の、


練習生筆頭の杉本優花。



148cmと「日本狼女會」で最も小兵の選手だが、


持ち前の根性と機敏な動きで


レギュラー入り目前の期待の若手だった。



杉本はすさんだ家庭環境で育った影響で


小学校から荒れ始め、高校は入ったもののすぐに中退した。



今まで悪いことは殺し意外散々やってきた。



このまま女ヤクザにでもなって


暴れるだけ暴れて死んでやろうかと思っていた。



しかし去年、初めて日本女狼會の藤井美羽の試合を観て


その考えが変わった。



藤井はとにかく格好良かった。



リングの中で躍動する藤井から、


ほとばしるように溢れ出す生命力に圧倒された。



生きるっていうのはこういう事か!



杉本は雷に打たれたようにシビれ、


藤井に熱狂した。



何回か試合を観てから


気がついたらもうここにいた。



藤井に惚れてここに来たのだ。



この社会に数多ある、


人間を管理したいために存在するルール、


搾取したいために作られたルールなど


納得のできないルールには


杉本は徹底して反抗してきた。



しかし、ここの道場のルールには全て従った。



中にはよくわからないルールもある。



しかしそんな事はもう杉本にはどうでもよかった。



一分一秒でも早く、


藤井と同じリングに立ちたい。



今はまだ、その夢はかなわない。



だが、後少しの所まで来ている。



早ければ今年の年末の大きいイベントには


出してもらえるかもしれない。



それまでやれることはすべてやる。



この会場の設営は


藤井に直々に任されたものだ。



何があっても無事に、そして完璧に成し遂げてみせる。



他の練習生に檄を飛ばし、ここまで設営は順調に進んでいた。



そこに、見知らぬ人間が入ってきた。



今自分がこの道場の留守を預かっている。



何人たりとも勝手を許すわけにはいかない。



「勝手に入らんでもらえます?」



そう言うと杉本は


練習生に指示をしていた手を止め、


及川の前にずいと進み出た。

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