どうせ俺は、評価されない

庭鳥 十坂

どうせ俺は、評価されない


 この世には誰でも知っている程、有名となり評価される人が少数いて、その下に知名度は無いが、正しい評価をされる人がいて、もっと下に知人にしか評価されない人がいて、その底辺に私がいる。

 どうも、私には評価をされる程の価値や魅力が無いように思える。必死に小説を書いたり、作曲してみたり、絵を描いて見せたりしたが、それを酷いとも凄いとも言われた事は無い。

 皆様は評価される人と言えば、何を思い浮かべるだろうか。やはり、努力をする人か、やはり、何事でも継続する人か。

 私には、努力をする才能が無い。継続する力が無い。つまり、この世の常識として私は評価に値しない人だ。だが、この説はどうしても気に食わない。

 私は、苦悩しているのだ。努力の先にある永遠の苦悩を、努力の出来ない私は、継続の力が無い私は、それを恨み、悔やんで苦悩しているのだ。どうにかして、この常識的に不真面目である私を変えようと苦悩してきたのだ。これは、見方を変えたら努力とも受け取れるし、苦悩の継続をしていることにもなる。だが、私は評価されない。誰も私を見てくれはしない。

 つまり、評価とは努力や継続が生み出す結果では無いのだ。では、評価とはいったいどのようにしてされるのか。それは、「目立つ」事だ。


 目立てば、人は評価される。それは、例え悪目立ちだろうが、死後、目立とうが関係無い。とにかく目立てば人は評価される。

 日本の詩人に宮沢賢治みやざわけんじという男がいた。彼は、代表作に『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』詩では『雨ニモマケズ……』などの今や国語の授業さえ受けていれば知らぬ人はいないほどの名作を書いていた。もちろん、これらは現在、高い評価を受けているわけだが、彼が生きていた当初は今程の知名度は無く、無名であったという。しかし亡くなったあと、草野心平などの詩人が宮沢賢治を認識し、評価したことで無名作達は、名作へと昇華していったのである。

 もし、草野心平らが宮沢賢治を認識しなければ、国語の教科書にこれらの名作は載ることが無かったであろう。この話から、私が言いたいことは、やはり評価とは認識、つまり目立たなければされることは無いという事だ。


 私は、生の次に評価されることに執着している。それは、私以外の人の大抵が同じ気持ちだろう。評価とは、自己の存在を自分以外が認識する事であり、それは自分という人間が改めて、この人間社会に存在しているんだという証明になる。では、私のような評価されない人は、いったいどこに存在しているのか。

 私は、自分という存在を考える時、自分の存在意義の不明さに恐怖する事がある。その時、私は私が何者か見失うと同時に自分がどこかの世界に存在していたいと感じる。この感覚はおそらく人間の異常に発達した脳が考える難問であり、これを解決した時、人間は自らの中に世界を生み出し、自らの中に存在理由を収束させるのであろう。

 私は、自らの存在意義を己自身に収束させる現象は、おそらく人類に新たな価値観を生み出すと考えている。この評価の自給自足が出来るのであれば、我々は、評価を必要としなくなり、自分のために自分を思いやりをする。これは、宗教などの考え方に近しいものになるのではないか。

 宗教では、神や仏が頂点にあり、それを崇める事で救われる。つまり宗教とは、神や仏が私達を認識する事で、信者に存在意義を生まれされるという発想だと私は思う。もし、この神や仏の位置に自分自身が入ると、私達は、己を第一とし、崇める事となる。このような考え方が人類に根付けば、人は自己愛に溢れ、他人の評価を必要とせずとも生きる意味を理解できるのではないだろうか。いや、浅はかだろうか。


 

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