4.小説家を育てたい肉食系編集者
結局、前回のパスタ会で盛り上がったパスティーシュ企画は実現しなかった。企画会議でボツになったんだ。岸和田さんから聞いた話によると、情報誌の性格に沿わない、むしろ毎号の特集に合わせたテーマで書くべきという結論になったそうだ。でもその理由はおかしいだろ、と僕は思った。これまで何年も特集とは一切リンクしないネタで書いてきたのだから。なんとなく、僕の脳裏で箕面さんの影がちらつく。箕面さんは岸和田さんの上司にあたるし、力関係発動だろうか。もしそうなら、ちょっとイヤな感じである。
毎月恒例のパスタ会以外でも、僕は岸和田さんとしょっちゅう会うようになった。といっても付き合っていたわけじゃない。僕には大学時代からの彼女がいたし、岸和田さんは岸和田さんで、壮絶な不倫をしていたからだ。
岸和田さんはメガネの純朴文学少女然としていながら、なかなかの肉食お姉さんである。なぜ彼女が不倫していることを知っているかと言えば、岸和田さん本人が僕に語るから。アルコールが入ると切々と現状の進行具合を報告してくる。生々しいドロドロ系の恋愛小説でも書く予定があるならば、メモを片手に熱心に拝聴しただろうけど、あいにくそういった計画はなかったし、将来的にもなさそうだ。
岸和田さんのドロドロを聞いてあげる代わりといっちゃあ何だけど、僕は彼女を夜のドライブに誘った。なぜなら岸和田さんと僕の家は近かったから。クルマで五分、自転車でも十五分ぐらいの距離だ。もちろん理由は近さだけではない。
付き合っている僕の彼女、名をA子としようか、うむ、仮名っぽくて実に具合が良い。なぜA子ではなく、岸和田さんを誘ったのかである。理由は単純だ。プロットを生み出しているときの僕はものすごく機嫌が悪く、周りのヒトに八つ当たりするからだ。無から『何ものか』を生じて、形として練り上げていく作業の過程で、無意識のうちに尋常ではない世界に片足を突っ込んでいる瞬間があるのだと思う。
それがわかっていたから、毎月発生するプロット作りの期間だけはA子と会わないようにしていた。A子は読書好きだったけれど、創作系の人間ではない。彼女はあの息苦しさを知らない。ヌタヌタと粘る暗褐色の泥に、息をとめて顔をつける勇気を知らない。さらに泥の中へと深く頭を埋め、あるかどうかもわからぬ
そこで登場するのが岸和田さんだ。彼女は忙しくない限り、誘えば夜のドライブに付き合ってくれる。少しクルマを走らせて、郊外のファミリーレストランでお代わり自由のコーヒーを飲みながらおしゃべりをする。プロットの話はまったくしなかった。小説のことがわかっている岸和田さんとくだらない話をするだけで、気が楽になり頭の中が整理できたからだ。
岸和田さんは、小説を書く心構えも教えてくれた。心構えというか、プロ意識だ。読者はお金を払って読んでいること、支払われた対価に見合った文章を書かなければいけないこと。また、常に読み手のことを考え、読みやすさに心を尽くすこと。岸和田さんの言葉は、僕の文体に地殻変動を起こした。それまでの
ファミレスでのおしゃべりが終わった後、夜景が見える見晴らしの良いところへ寄ったりした。気分が盛り上がって、たわむれに抱きしめてキスをしたこともあるけれど、ホテルへ行くことはなかった。なぜなら僕は頬フェチだから。夜景を眺めながら、岸和田さんの肩を抱き、彼女の絶妙な曲線と弾力をもったスベスベの頬を人差し指と中指の腹で撫でるときが、僕にとって至福の時間だった。彼女は十代のような素敵な頬をしているのだ、理性も夜空の彼方へと吹き飛ぶ。岸和田さんからは、センくんはガッカリさせると言われていたけれど、ドロドロよりスベスベの方があと腐れがないし、気持ち良いではないか。自分勝手でゴメン。
日頃、公私ともに支えてくれる岸和田さんの存在はありがたかった。でも、この『いたれり尽くせり』な扱いって標準的な編集と作家の関係だろうか? きっと違うと思う。
なんとなく僕は想像がついていた。岸和田さんは口には出さなかったけれど、僕を小説家として育ててみたいという野心があったのだ。いま彼女は情報誌の編集者をしているけど、文芸誌への憧れがあったようだ。そこで僕を使って、作家と編集者の二人三脚ごっこをしていたフシがある。彼女はことあるごとに僕を『先生』と呼んだ。大学時代にバイトした家庭教師や塾講師でも先生と呼ばれたものだけど、岸和田さんの呼び方はどこかニュアンスが違う。気のせいかもしれないけれど脅しに似た重い響きがあるのだ。心底、先生と呼ぶのだけはやめてほしかった。詳しくは知らないけど、どうも岸和田さんの過去の彼氏に大言壮語する文学青年がいたらしい。彼女を裏切ったソイツへの恨みでもこめられていたのかな。きっと過去に何かあったのだろうけど、まあ些末的なことだ。なにしろ岸和田さんは、肉食系編集者なのだから。
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