世界の真実 -1-

 目を覚ますと、白い天井が見えた。

 またこれだ、と思う。情けなさを覚え、深く、肺にあった空気を、すべて出し尽くしてしまうように息を吐く。今度は思い出すまでもなく、意識を手放す前に、何があったのか記憶している。

 俺は床の上ではなく、ふかふかのベッドの上に横になっていた。きちんと布団もかけている。枕を含めた寝具は、どれもノリがきいた清潔な白いリネンに包まれていて、自分で解いた手首だけでなく、足の拘束もされていない。

 体を起こして周囲を見回すと、ここは寝室のようなつくりになっている。意識を失う前にいた場所とは、また違う部屋だ。俺が寝ているダブルベッドが中央にあり、クローゼットと棚が備えてあるだけの、小さめな空間。

 俺はベッドから出て、部屋の扉を開くと廊下を覗く。一方から奇妙な物音がして、足音を立てないようにしながら、そちらへと向かった。

 慎重に扉を開けると、そこは見覚えのある部屋だった。昨日は夕日が見えていた窓からは、朝の爽やかな日差しが差し込んでいる。広いリビングだが、一角にL字型のカウンターキッチンが設置されている。そこに、こちらへ背を向けて、ヴィンスが立っていた。まだ俺に気づいていない。

 俺はゆっくりとキッチンの方へと近づき、調理台の上に設置された包丁立てから、一本包丁を抜き取った。そのままヴィンスの方へ刃を向けようとした時。

「死にたくなければ、やめておきなさい」

 俺に背を向けたまま、静かにヴィンスが告げた。彼はそのまま振り向き、その端整な顔を緩めて微笑む。見慣れない銀の瞳が、朝日に輝いている。

「おはよう、ユージ。昨日は良く眠れたかい?」

 俺はヴィンスとは対照的に、緊張感を全身に漲らせたまま、包丁を離さないよう握りしめる。

「昨日、俺に何をした」

 色々なことが重なって、俺の思考は今ぐちゃぐちゃだ。だが、目下一番気になっているのは、突如として意思と反した行動をした、自分の右腕のことである。

「僕は何もしていないよ。君が自分で自分を殴ったんじゃないか。あ、眠るように促しはしたけど」

「そのことに決まっているだろう。どうして俺は、そんな奇行に走ったんだ」

「僕が神で、君が人間だからだよ」

 ヴィンスは相変わらず、当然のことのように告げながら、包丁を構えたままの俺の方へと、手を差し出した。

「君たちが何か機械を作ろうとしたら、必ず安全装置を付けるだろう? それと同じようなもので、人間は神を傷つけることはできないんだ。さあ、包丁を貸して。今度は痛いだけでは済まないよ」

 その言葉を頭の中で反芻しながら、俺は差し出された手と、ヴィンスの顔を交互に見た。緊張のせいか呼吸が荒くなり、口の中がカラカラに乾いている。

 こいつの言っていることは本当か。このまま包丁を突きつけて、脅して自由を奪い、逮捕できないか。頭の中で思考は巡るが、思い出されるのは、昨日突如として制御不能になった、自分の体のことだ。

 光を受けて、手にした包丁の刃が煌めく。一瞬握り込む指先に力が籠もったが、俺は結局そのまま、ヴィンスの手に包丁を渡した。

「良い子だね」

 彼の笑顔が深まった。その様子と言葉に、打ちのめされる。俺は犯罪者に屈服したのだと、そう思えて。

「コーヒーは好き?」

 その場に突っ立ったままの俺に、ヴィンスが問いかけてくる。頷くこともできないでいる俺の背を、包丁をしまった彼が、そっと押す。

「ほら、そこのカウンターに座っていてよ。今、コーヒーを淹れるからさ」

 俺は、その促しに従った。

 言われるまま、キッチンとつながったカウンターの方へと回り込み、ハイチェアに腰かける。そんな俺の様子を満足そうに見て、ヴィンスは中断していた作業を続ける。

 彼の手元には、コーヒーミルがあった。立てていた奇妙な物音はそれだったようで、上部についているハンドルを回して、豆を挽いている。しばらくゴリゴリと音を立てていたと思うと、今度はケトルに水を入れて沸かし始める。

 円錐状のドリッパーと、ポット状のサーバー、カップ二つを用意し、お湯を注いで温めると捨てた。再度お湯を沸かしながら、ドリッパーに薄茶色のフィルターを装着する。そこに、先程ミルで挽いていたコーヒー粉を平らに入れると、サーバーの上に置いた。

 これで準備は完了とばかり、湯気をあげはじめたケトルを手に、ゆっくりと、お湯を粉の上に注いでいく。

 そんな作業を続けるヴィンスの所作は、不思議な程に美しかった。

 円を描くようにお湯を注ぐ度、コーヒー粉がもこもこと立ってきて、静まるまで待つのを繰り返す。白い泡が現れる頃には、先程から漂っていた、コーヒーの香ばしい香りがいっそう引き立ち、俺の昂ぶっていた気持ちを鎮めてくれる。

 しばらくそうしてハンドドリップを繰り返し、ようやくドリッパーを外したヴィンスは、サーバーからカップにコーヒーを注ぎ、俺の方へと差し出した。

「さ、どうぞ」

 カウンターの上に置かれたカップを見下ろし、俺はおずおずと、それを手にする。じんわりと指先に伝わる暖かさ。

 そのまま掌の中に包み込み、口元へとカップを運んだ。華やかささえ感じる強い香りが、鼻を抜けていく。

 程よい苦味と、バランスの良い微かな酸味の奥に、芳醇な旨味が広がって。喉を抜けて胃の中へ落ちていく温もりに、心底リラックスした。

「……美味しい」

 そう、思わず言葉が漏れた。

「深炒りなんだけど、口にあって良かった」

 ヴィンスもまたキッチンに立ったまま、自分のいれたコーヒーを、カップを傾け愉しんでいる。それから少しだけ、静かな時間が流れた。

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